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高齢者になっても、ヒマ・ひま・暇やはり暇

高齢者「さいら」ブログ。リタイヤーから、晴れて高齢者の仲間入り。店名をマイナーチェンジ。内容は以前と同様雑他。

今日の話題アラカルト(6)

2007年06月22日 | 今日の話題
ヤングマン足セット
 昨日の夕方、いつものようにテレビのチャンネルをあっちこっちと廻していた。「チャンネルを廻す」という言い方も何となく古いのであるが。とある局の番組で、「ヤングマン足セット」という題字が目に入った。???」。若い人向けの「ヤングマン 足 セット」で「おみ足お手入れ用品」の紹介かとマジに思った。しかしその番組は「バラエティ 料理番組」のようであった。「何処か違うなあ」と思いながら見ていた。
 しばらく見ていると、アナウンサーらしき人が「ヤング 満足 セット」と発音していた。若い人向けのボリューム或るしかもお手軽な色んな料理を確かに紹介していたのだ。洒落た書き方かも知れないが、漢字・ひらがな・カタカナを上手くかき分ける日本語の表記方法から見ると、正直に「成る程」「上手い」と頷けなかった。歳は取りたくないものだ。

和歌山県立自然博物館の特別展(2007年8月4日)
 何処の博物館でも、常設展示の他に年に一回か二回程「特別展」・「企画展」がある。その博物館の特徴を生かした、更に学芸員の研究の一端を伺うことが出来る貴重な展示である。今年は和歌山県立自然博物館設立25周年を迎えたこともあって特別展の中でも「特別な展示」であるように思える。と言っても未だ行っていないのであるが・・・。
 実は今日、そこから今年の特別展解説書の送付があった。「刺胞をもつ動物」ーサンゴやクラゲのふしぎ大発見ーA4版、64頁、全ページカラー図版・写真入りである。執筆者は日本全国の研究者に及んでいる。展示の中には日本産の「八放サンゴ」で世界の自然史博物館で保管されている貴重な「タイプ標本」も展示されているとのことだ。特別展でこれだけの出版物と標本展示は多分記憶間違いがなければ、この博物館では初めてでないだろうか?一過性の特別展とは趣が異なっていて特別展責任者の意気込みと苦労が分かるようだ。
 来週にでも是非とも実物の展示を見に行こうと思う。

黙祷(2007年8月18日)
 時期が時期だけに「黙祷」と題して以下のような斜に構えた記事を投稿するのは不謹慎であることは重々知っている。
 「黙祷始め」の号令で、頭を垂れて、手を合わして黙祷する。ざわついていた会場も静かになり、厳粛な雰囲気に包まれる。そして「黙祷終わり」の号令で終わる。しかし小さい頃からその黙祷の時に気になることがあって、「さいら」は本当の黙祷をしていない。
 「あの号令を掛ける先生は何をしているんだろう?」「黙祷しないで時を計っているに違いない。」そればかりが何時も気になった。時々頭を上げて、号令する先生を見てしまう。その様子を見ると白々しい気分になってしまう。黙祷は一つの儀式であるから、そう言う役目の人が居るのは仕方がないと今は考えているが、そもそも黙祷はその様に号令・合図を掛けて儀式としてするものかどうかは今も疑問に思っている。黙祷は一人一人が哀悼の意を現すものである。さらに、職務とはいえ、みんなが黙祷している時に自らは黙祷をしない人がいる。「黙祷」を「戦闘」に置き換えると相当腹が立ってくる。
 実際、戦死したのは号令をかける将校ではなくて下士官・兵士が殆どである。

燃料漏れ(2007年8月21日)
 昨日のオキナワ空港での旅客機が全焼する事件があった。乗客・乗員全員無事であったのは不幸中の幸いであった。第一原因は燃料漏れと言うことだ。その事件とは関係がないが、燃料漏れで思い出したことがある。
 今の車の前の車である。家の前の急な坂道でUターンした時に、ガソリンの匂いがして、道路にガソリンらしい液体が散らばっていた。丁度柄杓で水を撒いたような感じであった。自分の車で何処か燃料が漏れていたのだと思い、直ぐに修理に持ち込んだ。その時の診断では特に燃料漏れ箇所はなくて異常はないとのことであった。その時は偶々他の車のガソリン漏れに遭遇したのだと納得した。
 しかし、その後も同じ様な状況で、同じ様にガソリンが数回路上に撒かれた。幾ら何でも偶然にしてはおかしいと思い、再度念入りに見て貰った。燃料パイプ、確かゴム製であったが、に縦に亀裂が入っていることが漸く分かった。通常の走行では、その亀裂は塞がっているのであるが、急激な横向きの力が掛かると、その亀裂が一瞬広がり、ガソリンが撒いた様に漏れていることが分かった。その原因を聞くと、実によく理解できた。
 こんな症状は不都合マニュアルには無いのかも知れないが、最初に修理に出した時に、多分注意深く見れば、その縦の亀裂からガソリンは滲み出ていたはずである。修理担当者の注意深さが欠如していると思った。その車は、他にも不具合があったりで、部品の脆弱性が気になっていた。たえば購入後五年でラジエータにこれもヒビが入った。次回購入は勿論会社を変えた。

流動性(2007年8月22日)
 米国の社会は、何でも流動性がある。我が国では住宅は一生の買い物であるが,米国では違う。住宅も売るのが前提である。今住んでいる住宅もその点で商品であり、
当然汚したり、傷つけないように細心の注意をしながら住む。そして、収入とステータスに見合った住宅へ移る。これを繰り返す。或いは、評価額が上昇した住居を担保にして、生活費に充てる。又、年老いたりして、住宅の税金や維持経費の捻出がいよいよ出来なくなると、彼らはいとも簡単に住居を売却してしまう。キャンピングカーを購入して流浪の生活をする。
 労働市場も我が国では終身雇用制で会社を変わることは余りない。我が国では労働力の流動性が進んでいるが、それは今のところ雇用者側の一方的な流動性確保とであり、本来の自由市場としての労働市場は未だ確立されていない。都合の良い所だけ流動性を取り入れている。米国では、会社を渡り歩くのが能力の証左である。変わらないのは能力がないからだ。その結果、月給が少ない頃から、徐々に月給が上がると取りあえず、そのステータスに見合う広い・立派な・環境の良い・住宅を購入することになる。上手く両者はマッチングしている。米国のそれらの流動性は、歴史的に形成された社会の仕組みでそうなっている。だから、それが良いとか悪いとかは言えない。
 しかし、男女関係の流動性は何とかごめん被りたい。この流動性も米国から入って来たように言われるが、江戸時代は色々と言っても、男女関係は流動性があった。日本人はその点の流動性は元々その素養を持っている。「さいら」も30数年前であれば、その流動性は歓迎したかも知れない。しかし、最近、男女間の流動性の破綻は「熟年離婚」の形で顕著に現れている。それはごめん被りたい。もう再チャレンジできる年齢ではない。

 と言うようなことを想いながら、「我が国」発の流動性は無いか?と考えると、それがあった。しかも、その流動性は我が国のみならず、世界中の過剰流動性の大元をなしている。それは「お金」の流動性である。政策金利を低く押さえることにより流動性を与え、借りやすくして、日本経済の復活に資するものである。その結果、我が国だけが、異常な低金利政策になっている。しかし、その国内への経済効果は実際のところ不明である。仕方がないので、小金持ちの日本人はやむを得ず、なけなしの「お金」を他の通貨に変えて、金利の高い国・GDP伸びが大きい国へ緊急避難的投資をする。今我が国の証券会社が囃し立てている外債・外国投信の購入である。
 その結果2005年の国際収支では所得収支が貿易収支よりも大きくなった。しかし、それは為替変動という大きなリスクを背負い込むことになる。為替ヘッジをすると、結局のところ、円ドルの金利差相当の費用が必要になり、何等意味のないことになる。
 我が国民で納まればまだしも、上手がいた。安い金利を背景に、日本で「円」を借りて、投機に使う者が現れる。それも我が国に「円」で再投資するなら許せるが、それ程魅力的な投資先は我が国にはない。そこで借りた「円」を「ドル」に替えて、世界中で暴れまくっている。円は異常な安値になる。原油産出国は未だ「原油」という物があるから許せるが、異常な金利差はそんな性質のものではない。日本政府の政策が世界中にお金の過剰流動性を与えている。「円キャリー」の一つの側面である。彼らは円キャリーを未来永劫に続けることはない。儲かると、或いは、先行きこれ以上儲けられないと分かった時、(所謂手じまいの時)には、その収支を確定するために、時々運用していたドルを円に替えて、借りた円を返却して、清算する。此処では急激な円高になる。
 本来流動性の趣旨は、リスクの分散にあるのであるが、小金持ちの運用ではそこまで小回りが出来ない。結果として「円」レートを実態以上に上げ下げし、不安定にし、日本人にはリスクを拡大する結果になっている。
 サブプライム問題は住宅の流動性と貸付金の証券化から見ると如何にも米国らしいが、さらに事態を不透明にしている一因は我が国の異常な低金利から生ずる円キャリーにあるのではないかと疑っている。そう言う意味では我が国は世界に責任を問われても仕方がない。

権威失墜(2007年9月9日)
 余り時事政治問題は記事にしないのであるが、長期休暇していたので、その穴埋め記事である。報道によると、或る事案があって、或る大臣が辞任した。その事案は会計検査院の指摘に基づく補助金返還が絡んでいた。
 地方の行政にいると、何が恐ろしいと言っても会計検査院の検査程恐ろしいものはない。全て、実地検査の時に言い訳が出来るかどうかを計画段階から想定して、検討する。時には、補助事業は業界のためでなくて、会計検査院のためにやっているのではないかと錯覚をして嫌になるくらいである。そう言うところであるので、万が一の不適切事項の処理は、決して疎かにはしない。事業主体・県・市町村・担当の国の機関そして会計検査院はよってたかって解決する努力をする。悪いことをしたのだから悔い改めて、返すものは返す。勿論、検査院の言い分と事業者との言い分が食い違う所があれば、長引くが、その間何回もやり取りがある。返還額確定は実は他にも多少時間も掛かる。今回の事案はその様な事情も無さそうだ。
 起きたことは仕方がない。再発防止に努めなければならない。不適切事例があったことの長への責任については「さいら」は余り問題としない。しかし、それを数年間、関係した役所・事業主体が何等反省もなく、再発防止策もなく、勿論返還するでもなく、未処理で会計検査院も「放置」出来たのは、不適切を指摘された事業主体の長が「選良」だからであり、それ以外の理由はないと疑っている。
 国・地方とも国の選挙で選ばれた選良には弱いことは万人が認める所だろう。院もその中に入ってしまったのだろうか?その内、先生なら有耶無耶にしてくれるだろう。院もその中に入ってしまったのだろうか?具体的にお願いしなくてもその期待感はある。そのための保険的意味の「選良の長」である。そして会計検査院と言えども、やっぱり、弱い所もあることが露呈した様だ。或いは、指摘だけして、後は「放置」するのが院の常であれば、それはそれで問題だ。
 当時の総理の権威は既に失墜していたが、不正に対する最後の砦と期待した検査院の権威が失墜したということを明確に教えてくれた事例でないか?

美人投票(2007年9月15日)
 「美人投票」はミス何とかの審査員の普通の投票ではない。それならば自分の信念に基づいて、自分が一番美人だと思う人に投票すればよい。自分が投票した美人が一番得票数が多いと、投票した自分も景品が貰える。そう言う場合を「美人投票」と言う。
 この場合、自分の美人に関する信念は横に置いて、他の審査員が「誰が美人だと思って投票するか?」を考えてその美人に一票を投じる必要がある。又、それだけで充分なのだ。信念なんて言う雑念は邪魔である。そして、景品を獲得するために、例え自分の信念とは異なっても、その様な美人に投票することが正しい。端的に言うと、「美人投票」とは一番得票数が多いと思う美人に投票することである。
 実はこの言葉は投資活動でよく出て来る言葉である。八月は何とも言えない程株価は下がった。九月の中旬になって、無事SQも通過した。未だ、サブ何とかはハッキリしないが、これだけ下がれば誰もが株価はもう底値だと考えるだろう。だからみんな買うだろう。そうすれば株価も上がる。それなら、自分も今買わねばならない。と言うような場合である。
 金を儲けることはないが、色んな言葉を知ることは知的好奇心を満たす。そして、今回の自民党総裁選挙での某候補者への雪崩現象は正にこの事案と同じであると思う。景品が何かは「さいら」は知らない。ただ相当な景品が出るのは確からしい。
 投資活動ではこのような方法は、特段のファンダメンタル的なベースが無く、短期的には兎も角、長期投資には不向きであると「さいら」は思っている。だからと言って決して今回選ばれた方が短命であると言っていないのであるが・・・。

和歌山県の記者会見(2007年9月18日)
 今日は和歌山県知事の記者会見の記事である。その内容ではない。その進行スタイルである。何時も、和歌山県知事の記者会見はスマートでないと思っていた。和歌山県知事の記者会見は原則として週一回行われるらしい。その回数は十分過ぎる程で毎週記者会見する事案が有るとは到底思えないのであるが、実にこまめに報道機関等に情報提供していることには敬意を表しておこう。
 しかし、その記者会見は昔々のお上と呼ばれる時代なら分かるが、今の時代では、とても記者会見と言えないスタイルである。スマートでないのである。現在、殆どの官公庁の記者会見は会場を別に設営して、多くの報道機関等を前にして、発表者は立って、報道機関の方々とは正面に向いて行われる。質問は機関名と氏名を名乗り指名して行われる。発表者と記者が真摯に対峙する場が形式上演出されている。そこにはお互いに緊張感が漂うように演出されている。
 その違いは和歌山の知事記者会見(動画)と大阪府の大阪府知事記者会見(動画)と比較するとよく分かるのである。
 和歌山県知事の記者会見は知事の執務室で行われる。数人の記者らしき方々が大きいテーブルを囲んで知事はそのテーブルの正面に座って行われる。その風景は記者会見と言うよりも、家族的と言えば聞こえはよいが、知事との私的な懇談会・雑談会のような感じがする。或いは部下を前にした「庁議」のようである。そこにはお互いの緊張感を読み取ることが出来ない。知事の心。「ネタをあげるから、欲しかったら、知事室までお出で。」と言うのがありありである。
 こういうスタイルを受けいている報道関係も不思議である。知事側から言うと、報道機関を懐柔すると言う言い方は語弊があるが、報道機関と仲良くすることが肝要である。例えそれが、前知事の辞任会見の場でも・・・。そう言う意味では、和気藹々と進む和歌山流の記者会見は成功例である。
 一方、報道機関側から言うと、果たしてそれでよいのだろうか?報道の自由を自認し、社会正義のために戦っているジャーナリストは、対知事との関係では緊張感が必要ではないのか?記者会見はそう言う公の場ではないのか?しかし、報道機関の方にも実はそれなりの理由がありそうだ。想像するところ、その記者会見に直接「お呼び」が掛かるのは、大手の報道機関であって、地方紙・一般県民は参加できないのではないか?彼らは知事室で直接知事と対面して、直接記者会見に参加できる特別なクラスのジャーナリストであって、その既得権益を地方紙・県民から守る必要があるのではないか。
 議会答弁と同様に知事の記者会見は公式に施策等を述べるものである。まさか、議会答弁では議員を呼び出して、知事執務室で行っているのではないだろう。そして、議会の場合は傍聴する権利も与えられているはずである。
 そう言うところにも和歌山県の後進性が窺える。後進性・スマートでないことは兎も角ジャーナリストの眼で感じた記事を書いているのか?心配になる。

選挙権と被選挙権(2007年9月26日)
 自民党総裁投票・衆参議員での首班指名投票を見ていて一つ思い出したことがある。「さいら」が小学校の頃、何でも「委員」と名が付く役職というものは学級での投票で決めた。だから新学期は忙しかった。民主主義の練習だ。そして、今思えば、巷で行われる人気投票の練習でもあった。
ある時剽軽な同級生が先生に聞いた。「先生、自分の名前を書いても良いのですか?」「さいら」は「それはあかんやろ」と思ったが、先生の答は意外だった。「自分の名前を書いても良い。」そして、投票が始まり、開票になった。
 今まで、一票も入ったことがないその剽軽な同級生に一票入った。一票だけだった。誰も何も言わなかったが、その一票は誰が入れたか明白であった。その同級生の剽軽さは誰にも負けない。一寸性質が違うが、過去記事に「美人投票」を投稿したことがある。


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