まずはトマトから
小学校の頃、「さいら」はトマトのことを「トマート」というのでよく笑われた。「マー」のところに変なアクセントを付けていた。「トマートちゃん」と呼ばれていた頃もある。別に英語の素養があった訳では全くない。何故そんな言い方になったのか今も分からない。想像するに、多分母親が教えた幼児言葉をそのまま何等進歩せずに使っていたのではないかと思う。
そのトマトであるが、最近のトマトは異常に甘い。これはトマトだけではない。全て、果物は甘い。甘過ぎる。酸味というか、水っぽさというか、瑞々しさがない。プチトマトなんかはまるで砂糖水の様に感じてしまう。どうも着飾った中年のバーのフロアースタッフを連想してしまう。確かに甘い方が良く売れるのであろうが、どうも、日本の品種改良の方向が間違っているのでは無いかと思ってしまう。最近では、果物を摂取し過ぎるのは、太る元とか言う。決して健康食品とか美容に良いという訳では無いようだ。
ところで、トマトは果物の範疇に入るのか?野菜の範疇にはいるのか?良く分からない。
トマトの種
小さい頃のことで実に変なことを断片的に思い出すことがある。残念ながら、これも老化現象が進んできた証拠に違いない。終戦直後、「さいら」が未だ幼稚園にも行かない頃のことである。多分母親も今ほどポピュラーなものではなかった「トマト」なるものをその時に初めて好奇心から買ったのだろう。その時、初めてトマトを食べたと思う。
母親はその「トマト」を切って、その種の部分を丁寧にお匙で取ってから「さいら」に差し出した。多分、種の部分は愛する幼子に取って身体に良くない、消化が悪いと思ったのであろう。母親のその作業を見ていてあのドロリとした種の部分を食べたくて仕方がなかった。非常にその種の部分が美味しそうに思えた。
今でも思うのであるが、生のトマトはあの種のあるドロリとした部分が命ではないかと。トマトを丸かじりして思う存分種の部分を食べるようになったのは随分後のように思う。
注:トマトは野菜に分類されているようです。
スイカの種
同僚にスイカを食べるのが異常に速い人が居た。その同僚が言うには「スイカはガブッと齧り付いて、食べるのが美味しい。」確かに、スイカはスプーンを使って上品に食べるよりも、その方が美味しい感じがする。
しかし、彼のスイカの食べ方を見ていると、どうも、「ガブッと齧り付く」だけがその速さの秘訣では無さそうであった。彼は、「種」を出さないのである。「種は?」と聞くと「そのまま飲み込んでしまう。」「盲腸にならんのか?」「絶対にどうもない。」「胃の中からスイカが生えてくることもない。」「なるほど。そうか。」と言う訳で「さいら」もそれ以降、はしたないのは、いつものこととスイカの種はそのまま飲み込むことにした。
ひまわりの種
「トマト」から始まった最近の記事は「種シリーズ」のようになってしまった。発想の転換が出来ないのも「加齢」のなせるところ。と言う訳で、他に話題も見つからないので、序でに、今日も「種」の記事を続けよう。
小学生の頃、みんな、未だ未だ貧しくて、「お八つ」なんてものは、おろか何時も空腹の状態であった。同級生が「ひまわりの種は食べられるよ。」「食べれる」と聞けば、なんでも食べる悲しい時代である。
花壇のひまわりの枝を折って種を二人で。皮を剥くのが少々難儀ではあったがただ、黙々と。一つ摘んでは口へ。二つ摘んでは口へ。狂言の「附子」ではないが、止まらない、止まらない。帰って暫くするとお腹がゴロゴロ
梅干しの種
これも小さい頃の話で恐縮です。梅干しの種をどうしても食べてみたくなった頃が
ありました。当時は未だ未だ歯も丈夫で、何とか硬い種の殻を割りました。中から、少し柔らかい実が出て来て、味わいました。特段美味しいというものではありません。梅干しを食べる都度、種の殻を割ることに集中してと言うか、意地になって種を食べていたのです。
ところが、お婆さんに、「梅干しの種は食べてはいけない。」「梅干しの種は食べるものではない。」「食べると身内に良くないことが起こる。」その話を聞いて何も疑わずに、梅干しの種を食べることを止めた従順な時代の「さいら」です。
ビワの種
そろそろシーズンであるが、ビワの種は大きい。ビワの実を買っているのか、種を買っているのか分からない。勿論ビワ農家になる訳がない。大きすぎてスイカの種のように飲み込んでしまう訳には行かない。このビワの種、「種なし何とか」の技術を使えば、出来るに違いない。何とかならないのかと思っていた。多分、出来ることは出来るのであろうが、種を抜いた「ビワ」は貧相なビワで売れないであろう。だから造らないのだろうと勝手に考えていた。
念のため、「種なしビワ」を検索すると、矢張り、有る。想像外の立派な「種なしビワ」であった。是非に普及をお願いしたい。
柿の種
柿を食べる時に「柿の種」は意外と苦手である。切り方によっては「種」が隠れて、更に種なし柿が有るために思わず、「ガブリ」と噛んでしまう。その時、運が悪いと思い切り「種」を噛んでしまう。切れ目を入れて、種の所在が分かるようにしてくれる時は嬉しいが、「さいら」宅ではその様な切れ目を入れてくれる訳がない。
柿の種というと話題になるのは米菓の「柿の種」である。それなら心配はないが、年齢と共に「柿ピー」は同じ様な心配をしなければならない。加齢とは嫌なものである。
種シリーズもこれで「種」切れです。
小学校の頃、「さいら」はトマトのことを「トマート」というのでよく笑われた。「マー」のところに変なアクセントを付けていた。「トマートちゃん」と呼ばれていた頃もある。別に英語の素養があった訳では全くない。何故そんな言い方になったのか今も分からない。想像するに、多分母親が教えた幼児言葉をそのまま何等進歩せずに使っていたのではないかと思う。
そのトマトであるが、最近のトマトは異常に甘い。これはトマトだけではない。全て、果物は甘い。甘過ぎる。酸味というか、水っぽさというか、瑞々しさがない。プチトマトなんかはまるで砂糖水の様に感じてしまう。どうも着飾った中年のバーのフロアースタッフを連想してしまう。確かに甘い方が良く売れるのであろうが、どうも、日本の品種改良の方向が間違っているのでは無いかと思ってしまう。最近では、果物を摂取し過ぎるのは、太る元とか言う。決して健康食品とか美容に良いという訳では無いようだ。
ところで、トマトは果物の範疇に入るのか?野菜の範疇にはいるのか?良く分からない。
トマトの種
小さい頃のことで実に変なことを断片的に思い出すことがある。残念ながら、これも老化現象が進んできた証拠に違いない。終戦直後、「さいら」が未だ幼稚園にも行かない頃のことである。多分母親も今ほどポピュラーなものではなかった「トマト」なるものをその時に初めて好奇心から買ったのだろう。その時、初めてトマトを食べたと思う。
母親はその「トマト」を切って、その種の部分を丁寧にお匙で取ってから「さいら」に差し出した。多分、種の部分は愛する幼子に取って身体に良くない、消化が悪いと思ったのであろう。母親のその作業を見ていてあのドロリとした種の部分を食べたくて仕方がなかった。非常にその種の部分が美味しそうに思えた。
今でも思うのであるが、生のトマトはあの種のあるドロリとした部分が命ではないかと。トマトを丸かじりして思う存分種の部分を食べるようになったのは随分後のように思う。
注:トマトは野菜に分類されているようです。
スイカの種
同僚にスイカを食べるのが異常に速い人が居た。その同僚が言うには「スイカはガブッと齧り付いて、食べるのが美味しい。」確かに、スイカはスプーンを使って上品に食べるよりも、その方が美味しい感じがする。
しかし、彼のスイカの食べ方を見ていると、どうも、「ガブッと齧り付く」だけがその速さの秘訣では無さそうであった。彼は、「種」を出さないのである。「種は?」と聞くと「そのまま飲み込んでしまう。」「盲腸にならんのか?」「絶対にどうもない。」「胃の中からスイカが生えてくることもない。」「なるほど。そうか。」と言う訳で「さいら」もそれ以降、はしたないのは、いつものこととスイカの種はそのまま飲み込むことにした。
ひまわりの種
「トマト」から始まった最近の記事は「種シリーズ」のようになってしまった。発想の転換が出来ないのも「加齢」のなせるところ。と言う訳で、他に話題も見つからないので、序でに、今日も「種」の記事を続けよう。
小学生の頃、みんな、未だ未だ貧しくて、「お八つ」なんてものは、おろか何時も空腹の状態であった。同級生が「ひまわりの種は食べられるよ。」「食べれる」と聞けば、なんでも食べる悲しい時代である。
花壇のひまわりの枝を折って種を二人で。皮を剥くのが少々難儀ではあったがただ、黙々と。一つ摘んでは口へ。二つ摘んでは口へ。狂言の「附子」ではないが、止まらない、止まらない。帰って暫くするとお腹がゴロゴロ
梅干しの種
これも小さい頃の話で恐縮です。梅干しの種をどうしても食べてみたくなった頃が
ありました。当時は未だ未だ歯も丈夫で、何とか硬い種の殻を割りました。中から、少し柔らかい実が出て来て、味わいました。特段美味しいというものではありません。梅干しを食べる都度、種の殻を割ることに集中してと言うか、意地になって種を食べていたのです。
ところが、お婆さんに、「梅干しの種は食べてはいけない。」「梅干しの種は食べるものではない。」「食べると身内に良くないことが起こる。」その話を聞いて何も疑わずに、梅干しの種を食べることを止めた従順な時代の「さいら」です。
ビワの種
そろそろシーズンであるが、ビワの種は大きい。ビワの実を買っているのか、種を買っているのか分からない。勿論ビワ農家になる訳がない。大きすぎてスイカの種のように飲み込んでしまう訳には行かない。このビワの種、「種なし何とか」の技術を使えば、出来るに違いない。何とかならないのかと思っていた。多分、出来ることは出来るのであろうが、種を抜いた「ビワ」は貧相なビワで売れないであろう。だから造らないのだろうと勝手に考えていた。
念のため、「種なしビワ」を検索すると、矢張り、有る。想像外の立派な「種なしビワ」であった。是非に普及をお願いしたい。
柿の種
柿を食べる時に「柿の種」は意外と苦手である。切り方によっては「種」が隠れて、更に種なし柿が有るために思わず、「ガブリ」と噛んでしまう。その時、運が悪いと思い切り「種」を噛んでしまう。切れ目を入れて、種の所在が分かるようにしてくれる時は嬉しいが、「さいら」宅ではその様な切れ目を入れてくれる訳がない。
柿の種というと話題になるのは米菓の「柿の種」である。それなら心配はないが、年齢と共に「柿ピー」は同じ様な心配をしなければならない。加齢とは嫌なものである。
種シリーズもこれで「種」切れです。