五冊の岩波新書(2005年9月26日)
学生時代に岩波書店の本しか読まなかった様に思う。雑誌「世界」・新書・全書・文庫。戦前・戦中・戦後を生きながらえた、取り様によっては節操がない出版社と言えるが、まず岩波書店であった。
その中で印象に残っている五冊の新書がある。勿論内容はすっかり忘却の彼方であるが、読んだことだけは忘れることがない新書である。今日はそれらを列挙だけしてみようと思う。新書というところがどう考えても「あんちょこ」な姿勢であったと今更ながら反省はしているがもう遅い。
カー著(清水幾太郎訳):「歴史とは何か」
これは、高校までの「何時誰が何を」と覚えることが全く出来ない「さいら」にとっては、覚えることだけが歴史ではないという良い言い訳になった本である。
シュレーディンガー著(訳者は思い出せない):「生命とは何か」
物理学者が見た「生命」である。暗記できないことと実物を知らないために生物嫌いの「さいら」には、生物も面白いと暗示させてくれた本である。然し時は遅かった。「人間はどこまで動物か」も同時に思い出す新書である。それらに比較してオパーリンの「生命の起源と生化学」は有名な割りに余りにもちゃちな感じを受けた。
武谷三男編:「安全性の考え方」
これは科学と社会の関係を考えるときの「さいら」の基本的なスタンスになった。原発問題・公害等々を考えるときに必ずこの「安全性の考え方」と言う言葉が浮かんでくる。浮かんでくるのは決して内容ではない。書名だけである。
大江健三郎:「ヒロシマ・ノート」
原爆がどういうものであったか。それをどう伝えていくのか。勇気ある・地道な人々の生き様に新鮮さと驚きを感じた。マルクス・サルトルでは得られなかったヒューマンなものを感じた。とても叶わないことであるが、その様に生きたいと思うと同時に平和を考えるときの原点になっている。
斎藤茂吉:「万葉秀歌」(上下)
国語が全く出来なかった「さいら」でも詩歌を鑑賞することが出来ることが分かった。特に額田王のファンとなった。これは今でも時々開いてみるし、親しくしていただいた女性の方々へのお礼の品に使っている。
学生時代に岩波書店の本しか読まなかった様に思う。雑誌「世界」・新書・全書・文庫。戦前・戦中・戦後を生きながらえた、取り様によっては節操がない出版社と言えるが、まず岩波書店であった。
その中で印象に残っている五冊の新書がある。勿論内容はすっかり忘却の彼方であるが、読んだことだけは忘れることがない新書である。今日はそれらを列挙だけしてみようと思う。新書というところがどう考えても「あんちょこ」な姿勢であったと今更ながら反省はしているがもう遅い。
カー著(清水幾太郎訳):「歴史とは何か」
これは、高校までの「何時誰が何を」と覚えることが全く出来ない「さいら」にとっては、覚えることだけが歴史ではないという良い言い訳になった本である。
シュレーディンガー著(訳者は思い出せない):「生命とは何か」
物理学者が見た「生命」である。暗記できないことと実物を知らないために生物嫌いの「さいら」には、生物も面白いと暗示させてくれた本である。然し時は遅かった。「人間はどこまで動物か」も同時に思い出す新書である。それらに比較してオパーリンの「生命の起源と生化学」は有名な割りに余りにもちゃちな感じを受けた。
武谷三男編:「安全性の考え方」
これは科学と社会の関係を考えるときの「さいら」の基本的なスタンスになった。原発問題・公害等々を考えるときに必ずこの「安全性の考え方」と言う言葉が浮かんでくる。浮かんでくるのは決して内容ではない。書名だけである。
大江健三郎:「ヒロシマ・ノート」
原爆がどういうものであったか。それをどう伝えていくのか。勇気ある・地道な人々の生き様に新鮮さと驚きを感じた。マルクス・サルトルでは得られなかったヒューマンなものを感じた。とても叶わないことであるが、その様に生きたいと思うと同時に平和を考えるときの原点になっている。
斎藤茂吉:「万葉秀歌」(上下)
国語が全く出来なかった「さいら」でも詩歌を鑑賞することが出来ることが分かった。特に額田王のファンとなった。これは今でも時々開いてみるし、親しくしていただいた女性の方々へのお礼の品に使っている。