?念仏講?(2006年12月17日)
正確には「念仏講」という言い方は間違っているかも知れない。がその様に聞いた。先日、妻の親戚宅で「念仏講」の忘年会の手伝いに行った。多分、念仏を唱える会だと思っていたが、どうもそうではない。
昔、土葬であった頃、今の火葬と違って、お葬式をするには多くの人手を必要とした。お葬式は自宅ですることもあり、専門の業者もない。近所の方々がお葬式のの手伝いをする昔ながらの地域的な斑である。いわばお隣さんである。いろいろと聞くと、その周辺での最も小さい「行動単位集団」であるようだ。その親戚の斑は17軒で構成されているそうだ。今は、お葬式の手伝いと言っても、そんなに人数は要らないのであるが、その単位は今も続いているそうだ。お葬式は、それ位の単位では、必ず毎年有るとは限らない。そう言うことも有ってか、年に一度17軒が集まって、忘年会をする習わしという。
その忘年会は都会の今風ならば、何処か会場を借りて行うのであろうが、何しろ昔からの大切な行事であるから17軒が回り持ちで、当番の家で行う。それが17年目に廻ってきた今年という訳だ。
当番の前年・前々年には台所を任せられている女性が出席して、その時の料理等を観察するそうだ。その時の接待よりも落ちることが無いようにするためである。仕出し屋から料理は取るが、それだけでは収まらない。他に、刺身・すし・煮物・和え物等々はその家でしなければならない。又、忘年会だから、当然ビール・酒・焼酎も必要であり、寒い冬のことであり、ビール以外は燗をしなければならない。終わると、洗い物等の後片づけもある。結構忙しいと言う訳だ。それで、手伝いに行った。
当番になると、かなりの負担であるが、まあ17年に一度のことである。お互い様と言うことだろうか。その忘年会の会費であるが、一軒につき「330円」だそうだ。安すぎると共に、半端な金額である。聞く所によると、その金額は昔々決められて、その時の「豆腐一丁」と「焼酎二本」の価格だそうだ。なかなか時代がかった金額である。と共に、料理は兎も角として酒だけはたっぷり飲む趣旨の昔の忘年会である。
追って、いつものことであるが、「さいら」は決して手伝ったのではない。邪魔にならないように、小さくなっていた。
夜回り(2006年12月21日)
団地の年末行事は二つ有る。一つは各家周辺の「外回り」の掃除。もう一つは「夜回り」。外回りは毎年妻の役目。「夜回り」は昨年から「さいら」の役目。昨晩は「夜回り」。団地は大きいので2班に分かれて行う。それでも、廻るのに約45分かかる。昔は、夜回りは「子供会」の仕事であったが、今は立派な自治会の仕事である。勿論、子供も付いてくるが、高齢化が進んで、殆どが大人である。子供が大勢の頃は大きい声を張り上げてくれたが、今はそうでもない。昔覚えた「マッチ一本 火事の元」とか「魚焼いても家焼くな」なんて標語は言わない。ただひたすらに「火の用心」だけである。
その「火の用心!!」の声も、周囲に煩がられるといけないためか、角角でしか張り上げない。だから、「火の用心」と言う時にはまず拍子木で「チョンチョン」と合図する。それから、「火の用心!!」。そして〆の「チョンチョン」何となくゾロゾロと歩いている。
それで今年は「写真機」を持って行った。この時期いつ頃か分からないが、イルミネーションで飾っている家がある。それを撮す魂胆である。残念ながら、旨く撮れていないが、一応掲載しておこう。実際はもっと明るく見えるのだが・・・。

イルミネーションと言うよりは・・・。

多数決(2006年12月31日)
いつもの更新時刻よりも早いが、大晦日にあたって、今年話題になった事柄を「多数決」の切り口で記事にしてみた。この記事の是非を多数決で・・・。
多数決で組織の意志決定をすることは、「民主主義」と言うか「大衆主義」の原点であり、有効な意志決定方法である。慰安旅行の行き先なんてレベルでも、幹事が独断と偏見で決めることがあるが、構成員の多数決で決めることが多い。確かに暴力・独裁から自由になる良いシステムである。そう言う意味で和歌山県知事汚職事案は県の最高意志決定機関である「庁議」が機能不全に陥っているところに遠因を求めることが出来る。
今年、北朝鮮の弾道ミサイル・核実験問題で討議された国連でも総会の議決は多数決である。しかし「国連安全保障理事会」でも確かに議決は多数決であるが、「負のオールマイティ カード」がある。「常任理事国」と「拒否権」である。これらは、表裏一体であるが、多数決ルール違反の様に思えてならない。しかも、国連総会の議決事項よりも安全保障理事会の議決の方が「有位」に立つ。二重の「多数決ルール違反」のように思えてならない。しかし、これは利害が背反する「政治の世界」と思えば納得できないことはない。
ところで、今、我が国では「利上げ」が、米国では「利下げ」が話題になっている。FRBや日銀の「金利誘導目標」も議決権を持った委員の多数決で決められる。経済の現状認識は同じデータであれば同じ結論になり、同じ誘導方向になるのが普通である筈と思いながら経済学入門書を読むとその点に関して最初に断りがあった。「・・・技術的結果と利害得失の分析には完全に同意しているとしても、目標設定の優先順位を巡っては意見が一致するとは限らない」。成る程経済学とはそう言うものかと思った。自然科学とは違うのだと思った。
更にところがと続く。少し前の話であるが、冥王星が「惑星でない」と結論された。天文学の発展に伴い、「惑星」の定義変更が行われたために派生的に出て来た結論である。が、それは、「国際天文学連合」での「多数決」であったことを思い出した。正直言って、これは参ったというか、白けた気分になった。今まで馴染んできた「水金地火木土天海冥」は「水金地火木 土っ天かい??」「ほんとかい??」と。自然科学者の事態収拾方策に対する不信感が頭を擡げてくる。
このように見てくると、多数決は実に色んな分野で使われていて、有効な意志決定方法であることに改めて驚いた。しかし、この多数決の原理も不適合な場合もある。それは「夫婦」間の場合である。他方が一方的に押しつけ、「独裁」したり、「暴力」することは論外としても、「口数の多さ」による多数(口)決で決めることも憚れる。
そこは二人の自然な阿吽の呼吸である。と言うのは易しいが・・・。
病気になる(2007年1月3日)
娘夫婦の会話から。若い娘家族はどうしても日頃は「動物性タンパク質」と「動物性脂肪分」が食卓に上がることが多い。それに反して「さいら」宅の最近は、「野菜ベース」の毎日。
娘はここぞとばかり「野菜」をてんこ盛りにして旦那に「はいどうぞ」の連続。最初は神妙にそのてんこ盛りの「野菜」を食べていたが、その内旦那が「そんなに野菜ばかり食べると、病気になるよ。」何となく旦那の言葉が分かる様に気がする。
地方自治体と民間企業(2007年2月27日)
地方自治体で多くの不祥事があった。我が県の首長もその例外ではなかった。民間企業では、某証券会社の粉飾決算、某製菓会社の管理不全等が巷を賑わしている。
所で、その後どのような事態になっているかを見てみると、地方自治体と民間企業の違いが鮮明に見えてくる。地方自治体では、その首長が辞表を出して、変わった。これで完全に一件落着である。会社で言えば経営責任者が退任したのと同じであろう。これら民間企業でも勿論経営責任者も変わった。そこのところは同じ様である。が、しかし、会社はそれだけで「一件落着」で済ますことが出来ない様相である。
金融商品にしても、お菓子にしても、「顧客」は自由に会社を選択できる。「顧客離れ」であり、そこから派生する「資金ショート」である。そのために、企業の自立存続も問題となって来る。地方自治体では、決して不祥事のために「資金ショート」に陥ることはない。その自治体の存続が問題となることはさらさらない。地方自治体と住民との関係は「独裁企業と顧客」の関係に近い。住民は引っ越ししなければ、その地方自治体とは縁を切ることが出来ない。選択の自由がないのと同然である。
独占企業の商品と同様、地方自治体から購入する、もう少し言えば、「購入させられる」商品も決して「充足感」を与える物ではない。そこで提案だが、せめて、「居住地に関係なく、自分の好きな自治体に、サービスの対価である税金を納付できる制度」を考えて欲しい。そうすれば、地方自治体も真剣に「改革」を実行することになるのではないか。そして、「納税」するのはその改革を確認してからでも遅くはない。
電話番(2007年3月3日)
電話番は嫌いではなかった。特に出先機関から本庁へ異動してきて、殆ど知識がない新人の頃の「さいら」には電話番は行政でどんな電話が掛かってくるかを知ることは大切だと思った。それで就業時刻よりも早めに出勤して、或いは、時には仕事もないのに残業をして、電話をまず取ることにした。その内に、要領の得ない電話では、手招きで呼ばれることもあった。下っ端なら、間違ってもフォローのしようがあるというわけだ。
当時未だダイヤルインではなくて、交換を通じて各課に電話が回ってくる。だから、時にはとんでも無い電話もある。特に電話を掛けた相手が何か「魚の名前」を言えば、即、我が課に繋がる。その中で時にはとんでも無い電話もあった。今日はその話である。若干の脚色を入れながらの話である。
交換手から「課が違うかも知れませんが、電話取ってくれますか?」いつものことなので「はい。はい。」。「○○テレビですが」報道関係は慎重に受け答えをしなくてはいけない。「はい」「ご存じでしょうか?△△番組を」「余り見ませんが知っております。」確か、お笑い系のバラエティ番組だ。「その番組の制作を請け負っている××会社です。」。「実はですね。お宅の県では」「ふぐ調理条例がありませんね。」「数少ないですよ。無い県は。」「探したんですよ」「そこでですね」「フグの肝をタレントに食べさせる番組を企画しているのですが、」「お宅の県なら、条例がないから構わないですよね・・・」「???」「違法にはならないですよね。」「ギョッ」敵もなかなかの勉強家だ。
そう言えば、歌舞伎俳優だったか、フグ毒に当たる事件も当時あった。某教授はフグの肝を食べるのが趣味で、精密な計りで、限界まで計って度々食べたそうだ。しかし、これも体調次第で、時には救急車のお世話になったことが数回有るとか。そんなことが頭を掠める。「まずい。」しかし慌てずに、余り電話の盥回しは気になるが、こと人命に関することだ。正確にしなければならない。「申し訳ないですが、本課では、その判断は出来ません。」「或るものが、食べても良いかどうかは、この課では判断できません。」「食品の安全に関することは別の課です。」「電話を廻しますので、」この話その後どうなったか知らない。
そして、調査なんかで漁船に乗ると、時々フグが入網することもある。その時漁師は「さいら」のために手際よく、海水をいっぱい使って調理をして、何処からか醤油と山葵を出してきて、「食べなよ美味いよ。」「未だ当たったことはないから。」
「安心して食べなよ。美味いよ。」そこまで言われると、食べないわけにはいかない。その漁師が一口食べてから、そして、少し間をおいて食べる。確かに美味ではある。と同時にその時ばかりは余りの美味しさに「条例がないこと」に感謝しながら・・・。
メンバーズ カード(2007年3月13日)
散髪をして貰っている時の話。「私の店も、三月からメンバーズ カードを始めました。」「はあ?」「お知り合いの方で、65歳以上の方がおられたら、会員になって下さる様にお進め下さい。」「お願いします。」「はあ。何か特典でも?」と「さいら」「会員はお安くなります。」「それは残念やなあ!。」「未だ65には少し足りませんわ。」と未練がましく言う「さいら」。
「実はですね。お客さん。」「このカードのことを或るお客さんに話したんですが」と続ける。「65歳以上の方に、メンバーズ カードを作りました。」「会員になって頂けますでしょうか?」「勿論会費は要りませんです。」「手間は掛かりません。直ぐ出来ます。」「メンバー会員の方は散髪代を安くさせて頂きます。」「会員になって頂けないでしょうか?」
そうするとそのお客さん。「ワシ、65以上に見えるか?ムッ」「毛はあんまりないけど未だ若いんや。ムッ ムッ」「ええ加減にせい!!失礼な!!」と怒られたんですわ。「それで色々と言い方を工夫しているんですわ。」「この言い方なら腹が立たないでしょう??」「お客さん!」「ごもっとも。ごもっとも。」
データ転記と入力(2007年6月8日)
「フィールドワークが全て」の仕事に一時従事したことがある。実験データなら多少面倒でも、再度同じ条件で行うことも可能である。しかし、フィールドのデータ、ある時のある場所のデータはそうは行かない。一回限りのデータで、再現不可能である。そのデータ取得のために数億の施設費と10名程の人件費がかかっている。数年後は、世界で利用される可能性も無きにしあらずである。
その得られたデータは、解析のため、或いはデータ集作成のために野帳からパソコンに入力し、転記される。これらの作業は非常勤職員であれ、通常職員であれ、入力ミス・転記ミスが一番の問題であり、細心の注意が必要とされる。印刷製本する時も、今は写真製版であるのでミスはないが、昔はそうでなかった。何回も何回も人を違えて読み合わせをする習慣を付けることが必要である。
勿論、入力・転記に要する時間よりも読み合わせに要する時間の方が遙かに多い。入力した人の間違いを意地悪く見つけて、その能力を評価しようと言うのでは決してない。人であれば、誰でも入力・転記間違いは起こすのである。
そして、原本である「観測野帳」は必ず永久に保存される。報告等に疑義が生じた時には、必ずその原本に立ち返って検討し直す。これが、フィールドワークという再現性のないデータの扱いの基本である。何を言いたいのかはお分かり頂けると思う。
正確には「念仏講」という言い方は間違っているかも知れない。がその様に聞いた。先日、妻の親戚宅で「念仏講」の忘年会の手伝いに行った。多分、念仏を唱える会だと思っていたが、どうもそうではない。
昔、土葬であった頃、今の火葬と違って、お葬式をするには多くの人手を必要とした。お葬式は自宅ですることもあり、専門の業者もない。近所の方々がお葬式のの手伝いをする昔ながらの地域的な斑である。いわばお隣さんである。いろいろと聞くと、その周辺での最も小さい「行動単位集団」であるようだ。その親戚の斑は17軒で構成されているそうだ。今は、お葬式の手伝いと言っても、そんなに人数は要らないのであるが、その単位は今も続いているそうだ。お葬式は、それ位の単位では、必ず毎年有るとは限らない。そう言うことも有ってか、年に一度17軒が集まって、忘年会をする習わしという。
その忘年会は都会の今風ならば、何処か会場を借りて行うのであろうが、何しろ昔からの大切な行事であるから17軒が回り持ちで、当番の家で行う。それが17年目に廻ってきた今年という訳だ。
当番の前年・前々年には台所を任せられている女性が出席して、その時の料理等を観察するそうだ。その時の接待よりも落ちることが無いようにするためである。仕出し屋から料理は取るが、それだけでは収まらない。他に、刺身・すし・煮物・和え物等々はその家でしなければならない。又、忘年会だから、当然ビール・酒・焼酎も必要であり、寒い冬のことであり、ビール以外は燗をしなければならない。終わると、洗い物等の後片づけもある。結構忙しいと言う訳だ。それで、手伝いに行った。
当番になると、かなりの負担であるが、まあ17年に一度のことである。お互い様と言うことだろうか。その忘年会の会費であるが、一軒につき「330円」だそうだ。安すぎると共に、半端な金額である。聞く所によると、その金額は昔々決められて、その時の「豆腐一丁」と「焼酎二本」の価格だそうだ。なかなか時代がかった金額である。と共に、料理は兎も角として酒だけはたっぷり飲む趣旨の昔の忘年会である。
追って、いつものことであるが、「さいら」は決して手伝ったのではない。邪魔にならないように、小さくなっていた。
夜回り(2006年12月21日)
団地の年末行事は二つ有る。一つは各家周辺の「外回り」の掃除。もう一つは「夜回り」。外回りは毎年妻の役目。「夜回り」は昨年から「さいら」の役目。昨晩は「夜回り」。団地は大きいので2班に分かれて行う。それでも、廻るのに約45分かかる。昔は、夜回りは「子供会」の仕事であったが、今は立派な自治会の仕事である。勿論、子供も付いてくるが、高齢化が進んで、殆どが大人である。子供が大勢の頃は大きい声を張り上げてくれたが、今はそうでもない。昔覚えた「マッチ一本 火事の元」とか「魚焼いても家焼くな」なんて標語は言わない。ただひたすらに「火の用心」だけである。
その「火の用心!!」の声も、周囲に煩がられるといけないためか、角角でしか張り上げない。だから、「火の用心」と言う時にはまず拍子木で「チョンチョン」と合図する。それから、「火の用心!!」。そして〆の「チョンチョン」何となくゾロゾロと歩いている。
それで今年は「写真機」を持って行った。この時期いつ頃か分からないが、イルミネーションで飾っている家がある。それを撮す魂胆である。残念ながら、旨く撮れていないが、一応掲載しておこう。実際はもっと明るく見えるのだが・・・。

イルミネーションと言うよりは・・・。

多数決(2006年12月31日)
いつもの更新時刻よりも早いが、大晦日にあたって、今年話題になった事柄を「多数決」の切り口で記事にしてみた。この記事の是非を多数決で・・・。
多数決で組織の意志決定をすることは、「民主主義」と言うか「大衆主義」の原点であり、有効な意志決定方法である。慰安旅行の行き先なんてレベルでも、幹事が独断と偏見で決めることがあるが、構成員の多数決で決めることが多い。確かに暴力・独裁から自由になる良いシステムである。そう言う意味で和歌山県知事汚職事案は県の最高意志決定機関である「庁議」が機能不全に陥っているところに遠因を求めることが出来る。
今年、北朝鮮の弾道ミサイル・核実験問題で討議された国連でも総会の議決は多数決である。しかし「国連安全保障理事会」でも確かに議決は多数決であるが、「負のオールマイティ カード」がある。「常任理事国」と「拒否権」である。これらは、表裏一体であるが、多数決ルール違反の様に思えてならない。しかも、国連総会の議決事項よりも安全保障理事会の議決の方が「有位」に立つ。二重の「多数決ルール違反」のように思えてならない。しかし、これは利害が背反する「政治の世界」と思えば納得できないことはない。
ところで、今、我が国では「利上げ」が、米国では「利下げ」が話題になっている。FRBや日銀の「金利誘導目標」も議決権を持った委員の多数決で決められる。経済の現状認識は同じデータであれば同じ結論になり、同じ誘導方向になるのが普通である筈と思いながら経済学入門書を読むとその点に関して最初に断りがあった。「・・・技術的結果と利害得失の分析には完全に同意しているとしても、目標設定の優先順位を巡っては意見が一致するとは限らない」。成る程経済学とはそう言うものかと思った。自然科学とは違うのだと思った。
更にところがと続く。少し前の話であるが、冥王星が「惑星でない」と結論された。天文学の発展に伴い、「惑星」の定義変更が行われたために派生的に出て来た結論である。が、それは、「国際天文学連合」での「多数決」であったことを思い出した。正直言って、これは参ったというか、白けた気分になった。今まで馴染んできた「水金地火木土天海冥」は「水金地火木 土っ天かい??」「ほんとかい??」と。自然科学者の事態収拾方策に対する不信感が頭を擡げてくる。
このように見てくると、多数決は実に色んな分野で使われていて、有効な意志決定方法であることに改めて驚いた。しかし、この多数決の原理も不適合な場合もある。それは「夫婦」間の場合である。他方が一方的に押しつけ、「独裁」したり、「暴力」することは論外としても、「口数の多さ」による多数(口)決で決めることも憚れる。
そこは二人の自然な阿吽の呼吸である。と言うのは易しいが・・・。
病気になる(2007年1月3日)
娘夫婦の会話から。若い娘家族はどうしても日頃は「動物性タンパク質」と「動物性脂肪分」が食卓に上がることが多い。それに反して「さいら」宅の最近は、「野菜ベース」の毎日。
娘はここぞとばかり「野菜」をてんこ盛りにして旦那に「はいどうぞ」の連続。最初は神妙にそのてんこ盛りの「野菜」を食べていたが、その内旦那が「そんなに野菜ばかり食べると、病気になるよ。」何となく旦那の言葉が分かる様に気がする。
地方自治体と民間企業(2007年2月27日)
地方自治体で多くの不祥事があった。我が県の首長もその例外ではなかった。民間企業では、某証券会社の粉飾決算、某製菓会社の管理不全等が巷を賑わしている。
所で、その後どのような事態になっているかを見てみると、地方自治体と民間企業の違いが鮮明に見えてくる。地方自治体では、その首長が辞表を出して、変わった。これで完全に一件落着である。会社で言えば経営責任者が退任したのと同じであろう。これら民間企業でも勿論経営責任者も変わった。そこのところは同じ様である。が、しかし、会社はそれだけで「一件落着」で済ますことが出来ない様相である。
金融商品にしても、お菓子にしても、「顧客」は自由に会社を選択できる。「顧客離れ」であり、そこから派生する「資金ショート」である。そのために、企業の自立存続も問題となって来る。地方自治体では、決して不祥事のために「資金ショート」に陥ることはない。その自治体の存続が問題となることはさらさらない。地方自治体と住民との関係は「独裁企業と顧客」の関係に近い。住民は引っ越ししなければ、その地方自治体とは縁を切ることが出来ない。選択の自由がないのと同然である。
独占企業の商品と同様、地方自治体から購入する、もう少し言えば、「購入させられる」商品も決して「充足感」を与える物ではない。そこで提案だが、せめて、「居住地に関係なく、自分の好きな自治体に、サービスの対価である税金を納付できる制度」を考えて欲しい。そうすれば、地方自治体も真剣に「改革」を実行することになるのではないか。そして、「納税」するのはその改革を確認してからでも遅くはない。
電話番(2007年3月3日)
電話番は嫌いではなかった。特に出先機関から本庁へ異動してきて、殆ど知識がない新人の頃の「さいら」には電話番は行政でどんな電話が掛かってくるかを知ることは大切だと思った。それで就業時刻よりも早めに出勤して、或いは、時には仕事もないのに残業をして、電話をまず取ることにした。その内に、要領の得ない電話では、手招きで呼ばれることもあった。下っ端なら、間違ってもフォローのしようがあるというわけだ。
当時未だダイヤルインではなくて、交換を通じて各課に電話が回ってくる。だから、時にはとんでも無い電話もある。特に電話を掛けた相手が何か「魚の名前」を言えば、即、我が課に繋がる。その中で時にはとんでも無い電話もあった。今日はその話である。若干の脚色を入れながらの話である。
交換手から「課が違うかも知れませんが、電話取ってくれますか?」いつものことなので「はい。はい。」。「○○テレビですが」報道関係は慎重に受け答えをしなくてはいけない。「はい」「ご存じでしょうか?△△番組を」「余り見ませんが知っております。」確か、お笑い系のバラエティ番組だ。「その番組の制作を請け負っている××会社です。」。「実はですね。お宅の県では」「ふぐ調理条例がありませんね。」「数少ないですよ。無い県は。」「探したんですよ」「そこでですね」「フグの肝をタレントに食べさせる番組を企画しているのですが、」「お宅の県なら、条例がないから構わないですよね・・・」「???」「違法にはならないですよね。」「ギョッ」敵もなかなかの勉強家だ。
そう言えば、歌舞伎俳優だったか、フグ毒に当たる事件も当時あった。某教授はフグの肝を食べるのが趣味で、精密な計りで、限界まで計って度々食べたそうだ。しかし、これも体調次第で、時には救急車のお世話になったことが数回有るとか。そんなことが頭を掠める。「まずい。」しかし慌てずに、余り電話の盥回しは気になるが、こと人命に関することだ。正確にしなければならない。「申し訳ないですが、本課では、その判断は出来ません。」「或るものが、食べても良いかどうかは、この課では判断できません。」「食品の安全に関することは別の課です。」「電話を廻しますので、」この話その後どうなったか知らない。
そして、調査なんかで漁船に乗ると、時々フグが入網することもある。その時漁師は「さいら」のために手際よく、海水をいっぱい使って調理をして、何処からか醤油と山葵を出してきて、「食べなよ美味いよ。」「未だ当たったことはないから。」
「安心して食べなよ。美味いよ。」そこまで言われると、食べないわけにはいかない。その漁師が一口食べてから、そして、少し間をおいて食べる。確かに美味ではある。と同時にその時ばかりは余りの美味しさに「条例がないこと」に感謝しながら・・・。
メンバーズ カード(2007年3月13日)
散髪をして貰っている時の話。「私の店も、三月からメンバーズ カードを始めました。」「はあ?」「お知り合いの方で、65歳以上の方がおられたら、会員になって下さる様にお進め下さい。」「お願いします。」「はあ。何か特典でも?」と「さいら」「会員はお安くなります。」「それは残念やなあ!。」「未だ65には少し足りませんわ。」と未練がましく言う「さいら」。
「実はですね。お客さん。」「このカードのことを或るお客さんに話したんですが」と続ける。「65歳以上の方に、メンバーズ カードを作りました。」「会員になって頂けますでしょうか?」「勿論会費は要りませんです。」「手間は掛かりません。直ぐ出来ます。」「メンバー会員の方は散髪代を安くさせて頂きます。」「会員になって頂けないでしょうか?」
そうするとそのお客さん。「ワシ、65以上に見えるか?ムッ」「毛はあんまりないけど未だ若いんや。ムッ ムッ」「ええ加減にせい!!失礼な!!」と怒られたんですわ。「それで色々と言い方を工夫しているんですわ。」「この言い方なら腹が立たないでしょう??」「お客さん!」「ごもっとも。ごもっとも。」
データ転記と入力(2007年6月8日)
「フィールドワークが全て」の仕事に一時従事したことがある。実験データなら多少面倒でも、再度同じ条件で行うことも可能である。しかし、フィールドのデータ、ある時のある場所のデータはそうは行かない。一回限りのデータで、再現不可能である。そのデータ取得のために数億の施設費と10名程の人件費がかかっている。数年後は、世界で利用される可能性も無きにしあらずである。
その得られたデータは、解析のため、或いはデータ集作成のために野帳からパソコンに入力し、転記される。これらの作業は非常勤職員であれ、通常職員であれ、入力ミス・転記ミスが一番の問題であり、細心の注意が必要とされる。印刷製本する時も、今は写真製版であるのでミスはないが、昔はそうでなかった。何回も何回も人を違えて読み合わせをする習慣を付けることが必要である。
勿論、入力・転記に要する時間よりも読み合わせに要する時間の方が遙かに多い。入力した人の間違いを意地悪く見つけて、その能力を評価しようと言うのでは決してない。人であれば、誰でも入力・転記間違いは起こすのである。
そして、原本である「観測野帳」は必ず永久に保存される。報告等に疑義が生じた時には、必ずその原本に立ち返って検討し直す。これが、フィールドワークという再現性のないデータの扱いの基本である。何を言いたいのかはお分かり頂けると思う。