上司(←この言葉も使いたくない、先輩がいいかな)は、大きな声を出して、叱っていいのか。
基本は、上司は、いや部下も、職場で大きい声を出してはいけない。
特に私なんか、岸見一郎さんの以下の本を読んだりして、「叱らないリーダーシップ」を実践してきた。
岸見一郎さんは、怒っても叱ってもダメ。feedbackするだけでいい、っておっしゃる。
怒るのも叱るのも同じですよ、と。区別できませんよ、と。
一理ある。
いや、一理どころか二理も三理もある。
この本は、すべての上司が読んで欲しい。パワハラ研修の必須本です。
私も基本的に、怒らない、叱らない。feedbackをする。
しかし。
それでも、ごく稀に、怒る(ないしは叱る)ことがある。1年に1回くらい(アラフィフになって、加齢とともに怒りやすくなっていないかはやや危惧している)。
これは基本的には「期待値」の問題。期待を裏切られると人間は怒る。これは人間である以上、感情がある以上、どうしようもない。
例えば。
1 教育ママ/パパ
あんなに送り迎えしてサピックスの採点してるのに、子どもの成績が一向に上がらない、、
そんな時に教育ママは怒る。感情的になる。期待を裏切られるから。
2 スポーツの英才教育
いつもキャッチボールして、あんなにバッティングセンターに連れて行ってあげているのに、野球が上手くならない、、
そんな時に野球英才教育オヤジは怒る。感情的になる。期待を裏切られるから。
って例を挙げると、要するに、「期待を裏切られるから怒る」ってのが分かる。
ではなぜ期待するのか。
時間。
時間を投下しているから。
投下資本としての、教育のために時間を割いているから。
だから期待する。
だから、パワハラ防止のためには、
A (過度な)期待をしない
B (そのために、過度な)時間を使わない
これしかない。
このABをやらずに、アンガーマネジメントなんかやっても、無意味。
7秒待てば怒らない!? そんな簡単な、表面的な、表層的な話ではない。
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だいぶ脱線しました。
言いたかったのはこう言うことではなくて(上記はかつても紹介したこと)。
上司は大きな声を出していいのか。
出していいとして、どんなシチュエーションか。
今の(48歳@令和5年の)私のアンサーとしては、「大きな声を出すことがあってもいい」と思う。
どういう時か。
後輩/部下が「舐め腐った」「舐め切った」態度を示したとき。
私も6年?くらい前、後輩弁護士の「舐め腐った」態度に、<これは大きい声を出して叱るに値する>と思ったので、「あえて」大きな声を出したことがある。そのシチュエーション(事務所内の場所)、後輩の表情まで、まざまざと覚えている。
「咄嗟に」大きな声が出てしまったのではない。
「あえて」大きな声を出しました。教育のために、それがいいと思ったから。ある意味、「怒ったフリ」をしました。
「舐めた」態度や、「甘えた」態度には、大きな声を出さない。
「舐め切った」態度、「舐め腐った」態度には、大きな声を出すことはやむを得ない。
これが今のところの私の基準です。
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では、「舐めた」と「舐め切った/舐め腐った」の違いは奈辺にありや。
やっぱり「時間」なんですね。
本当に新人だったら、時間を使っていない。だから期待しない。
だから「舐めた」態度をとっても、それは「舐め腐った」と捉えられない。そう受け取られない。
だから、本当に新人に対しては大きな声を出さない。優しく教育する。
しかし。
1年も教育してきた。俺の考えはもう十分に分かっているだろう。一流の弁護士になるために、世界最高の弁護士になるために、中山国際法律事務所に入って来たのではないのか。
それなのに、そんな「舐め腐った」態度をとるのか。
ってな、期待を裏切られた怒りが、「舐めた」態度を、受け手の私にとって「舐め腐った」態度として受け取らせる。
やっぱり、投下した時間に比して、部下・後輩の成長が著しく劣るときに、期待が裏切られた感を上司は感じる。
「舐めた」と「舐め腐った/舐め切った」の違いは、投下時間(期待値)の差、なんですね。
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別の切り口で説明します。
稲盛和夫さんが、人生や仕事の結果を
考え方✖️熱意✖️能力
で評価している。
舐め腐った/舐め切った態度というのは、この3つのうち、特に前二者の「考え方」「熱意」に欠けている。
また、長年教育したのにそれはないだろう、という期待の裏切られ感は、「能力」にも多少分類され得るかも。
単なる能力不足に対して、大きな声を出してはいけない。
単なる「甘い」「舐めた」態度に対しても、大きな声を出してはいけない。
しかし。
考え方、熱意、及び能力の3つにおいて、部下・後輩が、期待値を大きく外れる「舐め切った」「舐め腐った」態度をとったときに、上司・先輩が、教育のために、あえて大きな声を出すことは、私には否定することができない。
それもやむを得ないのかな、と思う。
それがベストとは思わないが。
例を見てみよう。
78歳で、JAL再生の際に、JAL幹部に向かっておしぼりを投げつけた稲盛さんなら、舐め腐った態度に対しては、迷わずデカい声を出している。
ってか、有名な経営者(孫正義、柳井正、永守重信、三木谷浩史、イーロン・マスク、ビル・ゲイツあたり)は、確実に怒鳴りますねw
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カリスマ経営者が怒鳴るから、我々も怒鳴っていい、なんて乱暴な議論はしません。
しかし。
聖人君子のように崇められ、誰からも人格者と慕われた司馬遼太郎も、たしか『街道をゆく』シリーズの、東北あたりの回で、書いていた。定食屋の親父が舐め腐った態度を取った、的な文脈で。
世の中には、大きな声を出さないと分からない奴もいる
と。
おお。
人格者の司馬さんでさえも、大きな声を出して人を叱るということがあるのか。
この驚きは、この司馬さんのエッセイを読んでから四半世紀くらい、ずっと頭に残っている。
ま、司馬さんも、昔の、明治の人だから、令和の今にそのまま当てはめようとは思いませんが、、
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だいぶ長いブログになりました。たぶんここ数年で最長。
それくらい、「部下に大きな声を出して叱る」ことの是非は、難しい、、、
いい解やヒントがあれば教えてくださいませ!
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後記:インテグリティ研究会の方から、
(1) 「人として」許せないときに大きな声が出ちゃう
(2) 本気で生きている人ほど、そうせざるを得ない瞬間がある
という示唆をいただきました。なるほど。