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ヘボン邸跡の碑について

2016-02-06 08:44:51 | 日記
 JR石川町駅から、首都高速神奈川3号狩場線に沿って、海に向って歩いていくと山下公園通りの一本手前に横浜地方合同庁舎があります。その敷地内にヘボン邸跡の碑があり、港が見える丘公園の大仏次郎・イギリス館などがある山手111番館から、更に、100m程歩いて行き丁字路を右ヘに行くとボン博士山手居住地跡があったので、「横浜山手中華街スケッチ散歩 著者・編集 吉村俊文」よると次のように記述があった。
 近代化というのは、最早都市の歴史や美術をも犠牲にせねば果たせないものなのだろうか。往時には堀川を挟んで外国人居留地間を結ぶ最重要の架橋だった谷戸橋も今や上空を飛ぶ首都高速道路の下敷きとなり、殆どコンクリート化石となりつつある。親柱には昭和2年7月竣工の銘板、やはり関東大震災直後架け替えられたものとかんがえられる。
 震災前は現在より約20メートル位下流、谷戸坂を下り切った地点にあったらしく明治20年すでに鉄製トラスト・ガーター方式の立派な橋として写真で残されている。しかもその背景に、かなり大きな合掌作りの建物まで撮られているのだが、それこそ旧横浜居留地39番のヘボン博士邸。現在は横浜地方合同庁舎が建っており、勿論その前庭には博士のレリーフを嵌めこんだ大きな石碑と掲示版。そして開港と共に来日、聖書の翻訳・和英辞典の編さん、医術の普及など幕末・明治初期日本文化の開拓に力をつくしたと手短なプロフイルも紹介され、なにかお座なりで物足りない感じである。
 たしかに、ジェームス・カーティス・ヘボン博士はアメリカ長老派教会の一宣教医に過ぎなかったが、安政6年(1859)来日、いまだ物情騒然、キリスト布教師未解禁、攘夷浪士の出没する劣悪な治安下に拘わらず3年間も神奈川成佛寺に滞在。先ず日本語の猛勉強。居留地が出来るや此処に転居。ヘボン式ローマ字を創案。聖書翻訳辞典の編さんの傍ら日本人有志らへの英語教育。後年、辞典の版権2千ドル(当時)も全額明治学院創立に拠出。
 更に、横浜指路教会の創立、その上に医療活動では、江戸の俳優沢村田之助の脱疽手術後、義足を態々米国より取り寄せたことは有名である。更に、眼疾治療をうけた岸田吟香が博士の高邁な人格に心酔して助手となり、辞典を出版手伝ったこと、また、ヘボン塾生ギダーもフェリス女学院を創立したこと。
 明治25年(1892)には山手245番へ転居したが、七面六臂の活躍は変わらず、10年後に一旦帰国するときは、長年ヘボン家に仕えたコックの牧野条七へその報い、また、養老資金にと点眼水の処方を伝授している。とにかく博士は連日この谷戸橋を往来したに違ないのである。
 一方、横浜もののはじめ考 編集・発行横浜開港資料館」には、文久2年(1862)頃、横浜に移転直前のヘボンのもとに、神奈川奉行から幕府の委託生9名に幾何と化学を教授してほしいというが依頼あった。その中に大村益次郎や原田一道、沼間守一がいたらしい。教えてみると学生たちはすでに蘭学を通じて相当な知識を持っていたので、英語の教授に絞ったという。
 横浜移転後も授業が続けられたが、翌年3月(1870)、生麦事件の処理をめぐって世情が不安定になり、学生たちも警備の部署につくために去って行った。同年11月林桃三郎(のち馨)がヘボン夫人から英語を習い始めて、高谷道男氏はここにヘボン塾の起源を求めて、翌年には、仙台藩の高橋是清・鈴木六三郎、大村大三郎の3人が入塾している。林はのち外相に、高橋は首相になっている。林の兄佐藤桃太郎や益田孝、服部綾雄、三宅秀もこの塾で学んだ。
 明治にはいると熟生の数が増え、O・M。グリーンやルーミス、ジェイムズ・バラの弟ジョンらが応援し明治9年、(1876)ヘボン夫妻の山手移転とともに、ジョンとバラが塾を継承し、バラ学校と呼ばれるようになった。明治13年(1880)、東京の築地大学校に合流、これが発展して明治19年(1886)に明治学院となる。22年、ヘボンがその総理に就任した。と記述があったので投稿いたします。  

(ヘボンの碑)

(ヘボンについての掲示)

(ヘボンの碑付近)

(高速道路したの谷戸橋)

(橋柱)

(ヘボンの居住地の門柱)

(ヘボンの居住家)

(居住地附近)