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木曽冠者義高之塚についてNO80(西23)

2019-07-27 10:35:14 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 (木曽)義高は、義仲の長男である。義仲は、かって頼朝に怨まれて兵を向けられ、あやうく戦いなるほどに切迫したことがあった。このときに、義高は人質として鎌倉に送られ、義仲はかろうじて頼朝と和解することができたのであった。
 義高は、それから頼朝に養われ身となり、頼朝の娘(大姫)を妻とするようになった。その後、義仲は頼朝に再度攻められることになって、粟津の地で討死してしまった。義高は身の危きを思い、鎌倉を脱出したのだが、入間川(埼玉県)のほとりで捕えられ、斬られてしまった。義高の塚は、この碑の立つ所の西南約二百メートルのところで、木曽免という地の田の中にあったのであるが、延宝年間(1673~1681年)に、ここに移したという。
 旭将軍義仲が烈しく、しかも豪快な短い生涯であったそのあとをうけついで、不幸な運命にほんろうされた薄命の貴公子義高の首は、ここに葬られ、永遠に眠っているのである。

 {参考}
 木曽義高
 承安三年(1173年)に義仲の子として生まれたが、11歳のときに、頼朝の不興を蒙った義仲の頼朝への心つかいから、鎌倉へ人質として送られることになってしまった。翌年、父義仲が頼朝の配下に攻められて近江の国粟津の地で敗死するや、その約3カ月後に、武蔵入間川原まで逃げたが、頼朝のさし向けた追っ手につかまって殺されてしまった。時に年12歳であった。

碑文の「頼朝ノ怨ヲ招キ……」
 頼朝が伊豆で挙兵したのが治承四年(1180年)8月であったが、それより一カ月遅れて頼朝の従兄弟にあたる木曽義仲が、木曽の山中に兵を挙げて、怱ちのうちに木曽路、信濃路の平家方を撃破し、その勢いはあたるべからざるものがあった。
 その頃、甲斐で挙兵した源氏の武田信光は、義仲の威勢を見て、わが娘に義仲の子である義高を婿として迎えることを望んだが義仲はこれを辞した。この縁組には頼朝も一役買っていたのであろうか、木曽・武田両家縁組みの不首尾から、頼朝は義仲を中傷するようになった。そしてさらに、頼朝・義仲の叔父にあたる源行家が、墨股で平家と戦って大敗し頼朝の不興を買った折、義仲はその行家をかばって自分の陣に迎えるということをした。
 この二つのことは、いずれも頼朝の感情を刺激し、対義仲への心情を悪化させてしまったようで、碑文にある「頼朝ノ怨ヲ招キ」とは、おそらくこの辺のいきさつを指しているのであろう。

 義高の脱出
 吾妻鏡は、義高が鎌倉を脱出するようすをかなり詳しく述べているが、それによると、
4月21日(元暦元年―1184年)は、夕方の頃から幕府の屋敷内がものさわがしくなった。これは志水冠者義高が頼朝の婿であるとはいえ、今は父義仲が頼朝の敵として殺されたので、その子である義高がどのような心を頼朝に抱いているかわからぬとあって、義高殺害の企てが、頼朝より内々の指示として身近の壮士に命ぜられた。
 頼朝も政子も、去年義高を鎌倉に迎えて以来、娘の大姫の婿にと、かねてより思い定め、大姫もすでにその心になっていたところへ、この思いがけない指令が下ったのである。
屋敷内の女房達はこのことを聞き知り、いそぎ大姫に義高の危険を知らせた。大姫は、驚いて、仕える女房たちの手を借りて義高を女房の姿に変装させ、夜の明けきらぬ早晩のうちに、女房たちが義高を囲むようにして屋敷をぬけ出し、外に隠しおいた馬に乗せた。その馬の蹄は綿でつつみ、足音のひびかぬようにとの心くばりまでして、少しでも遠くへとのがれ去らせた。
そして義高の寝室には、義高と同じ年でいつもそば近く仕えていた海野小次郎幸氏という者が入って、夜具の中に臥し、髻だけを出して、義高がなお寝ている風をよそおっていた。
日中となってからは、義高の常の居間に出て、日頃のようにひとりで「すごろく」を打っていた。義高は「すごろく」がすきで、幸氏はいつもその相手をしていたので、義高が今もいるかのように装っていたのである。屋敷内の男も女も常と変わらぬふるまいを続けていたが、晩になって義高の脱走はついに発覚してしまった。
頼朝は非常に怒って、海野幸氏を捕縳すると共に、堀藤次親家はじめ多くの軍兵を方々の路にわかち走らせて、義高を捕え殺すことを厳命した。大姫はこれを知り、肝をつぶす程に仰天しあわてた。

義高の再期と大姫
 二十一日早曉に鎌倉を脱出した義高は、ひたむきに北に馬を走らせたが、埼玉県を流れる入間川のほとりまで来たところで、頼朝の命令で追って来た堀藤次親家の部下内藤光澄につかまってしまい、ついにあたら十二歳の生涯を果ててしまった。
 二十六日になって内藤光澄が鎌倉に帰り、義高を斬った顚末が報告されたが、この事実は公表をさし押さえ、大姫にも当然知らせなかったのであるが、その耳に入らずにすむものではなかった。
 大姫は義高の悲運を漏れ聞いて、悲しさのあまり、遂に汁、飲み物を断つ程に思いつめてしまったのであるが、母の政子は、大姫の心中を察しては、まことに切ない思いであったし、屋敷内の男も女も、それぞれに皆歎きのうちに沈んでしまった。
 大姫はその後、衰傷のあまり床についたままになってしまい、政子もそばに仕える人々も、憔悴の毎日にひどくなるようすに居たたまれぬ思いであった。そして政子は、頼朝のとった冷酷な処置を憤り、義高を誅することの仔細を内々にも大姫に知らせて、納得をさせることをしなかった心づかいの足りなさを、きびしく責め立てたのであった。
 これに対して何とも言いのがれのしようがなく追いつめられた頼朝は、6月27日になって、義高を誅殺した内藤光澄の、さきの功名を剥奪して、義高殺害の下手人という汚名を被せて斬罪としてしまった。まことに無惨、あわれな光澄であった。
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 吾妻鏡によると、4月26日に義高斬罪の知らせが鎌倉に入ると、義高に心寄せる者共が甲斐・信濃に潜んで不穏な動きがあるとして、その数日後の5月1日には、軍兵を出して彼等を征すべしとの指示が出されている。又5月2日には、義高誅殺の事を聞き知って、鎌倉に馳せ集まり、諸国の御家人が群をなして市中に満ち、市中はたいへんな騒ぎになったと伝えている。
 義高とその背後にある木曽氏支持のともがらは、頼朝がこれを軽視できぬほどの力を持っていたことを物語る事実であろう。なとと言う記述がありましたので、投稿いたします。
 これをもって、鎌倉の碑に係る紹介を終了とともに、私のブログ投稿を終了させていただきます。
 長い間ブログを鑑賞いただきありがとうございました。お礼申し上げます。

(木曽冠者義高之塚の碑)

(常楽寺)「この碑の安置所」