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大江宏元邸阯についてNO29

2018-08-04 10:12:47 | 日記
「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
 大江氏の家は、代々学者の出たことで有名である。かつて大江匡房は、源義家に兵法を教えたことがあり、大江広元は匡房の曽孫にあたる。その広元は、義家の子孫である頼朝に招かれ、京都から鎌倉に来て、頼朝のそば近くに仕え、重要な計画に加わっていた。
 幕府草創の大事業には、広元のつくった功績がきわめて大きかったので、相模の国の毛利の荘を頼朝から与えられた。そのゆえに、広元の子孫は毛利氏を名乗っているのである。
 そして、不思議なめぐりあわせで、幕府創設に大きな働きをした者の七百年後の子孫が、幕府を倒し、王制復古の先導者となったのである。
 此の地は、その毛利氏の祖である。大江大膳大夫の邸宅のあった所である。
 参考(大江広元)(1148年~1225年)
 元歴元年(1184年)源頼朝に招かれ鎌倉に下り、10月には公文所の別当となり、源頼朝の側近にあって、幕府草創の大業に画策すること多く、その貢献により頼朝の深い信任を得た。
 広元は、もともとは大江氏であるが、中原姓を名乗るようになって、鎌倉下向後、再び大江姓に復した。兄親能も頼朝、頼家、実朝に仕え大きな働きをしている。
 全国に守護、地頭をおくことは広元の献策であり、頼朝の歿後は、北条時政らと政務を合議して、将軍の廃立、畠山重忠、平賀朝雅、和田一族追討などについては、いずれもその議に加わっていた。
 出家してからは覚阿と号したが、承久の乱(1221年)には、鎌倉にとどまり、政子を助けて種々積極的な画策にあたった。嘉禄元年(1225年)6月、広元は78歳で歿した。その翌月に政子が歿し、北条義朝はその前年に病歿している。
(毛利荘)
 相模国毛利庄は、神奈川県厚木市荻野にあった。大江李光は、広元の第四子であるが、毛利庄の地頭職を与えられてより、毛利姓を名のるようになった。毛利入道とも号していた。父広元の没後十五年にわたって(1233年~1247年)評定衆の一員として幕府の要務にあずかっていた。
 戦国の世に、中国地方に大きな勢力を張った毛利氏、また江戸幕府の末に吉田松陰、木戸孝允、伊藤博文を始め多くの人材を世に送り出し、明治維新の大業を成しとげる大きな役割になった毛利藩も、広元の後裔である。武家政治の覇府としての幕府草創に、重要な働きをなした広元の子孫が、武家政治を否定し、王政復古を主唱し、幕府崩壊の原動力となったとは、まことに皮肉なめぐりあわせといわねばなるまい。
 (広元邸の付近)
 広元の邸は、滑川をはさんで大慈寺と相対し、大慈寺の隣りには、五大堂明王院があって、今も寺の一部が残っている。当時の武将として、梶原景時、河越重頼(源義経の妻は重頼の女である)、平広常らの邸があり、滑川にそって金沢六浦に抜ける六浦路は、金沢方面からの物資流通路として重視された。光触寺にある塩なめ地蔵は、この路が金沢方面から朝比奈切通をこえて、塩を運搬したことを物語るものであろう。
 幕閣につらなる要人の、邸宅地域とも言えるこのあたりであるのに、今はそのおもかげをしのぶ何も残らず、ただ六浦路と滑川のみ往時のままにあるばかりである。などと言う記述がありましたので、投稿いたします。

(大江宏元邸阯の碑)

(碑付近の住宅街)

(碑付近の住宅街)