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横浜町会所碑について

2016-04-16 07:57:35 | 日記
 JRの関内駅方向から、みなと大道通りを桟橋に向って歩いていくと横浜市開港記念館敷地に「横浜町会所跡の碑がありましたので、横浜町会所日記 横浜町名主 小野兵助の記録 横浜開港資料館編集・発行によると次のように記述されていたので、投稿します。
 横浜町会所というのは、安政6年(1859)横浜開港と同時に設置された行政機関で、開港場の中心部にある町々の様々な事務を取り扱った役所である。この役所については、神奈川奉行所の管轄下に置かれ、数人の総年寄と町名主によって運営されていたことが判明している。また、開港当初の横浜町、太田町、戸部町の3つの市街地があったが、横浜町会所では、この内、横浜町と太田町の町政を担当していた。開港当初の総年寄は、保土ヶ谷宿名主の苅部清兵衛と横浜村名主の石川徳衛門で、町名主は、横浜1丁目が金指六左衛門、二、三丁目が田沢徳兵衛、四、五丁目が清五郎、太田町が源左衛門であった。これらの人々、町会所に詰め、神奈川奉行所の市在取締や定廻りの指示を受け、町政に携わった。
 もっとも、これらのメンバーは必ずしも固定化したものではなく、市街地の拡大・業務の増加・政治体制などによって、変化していった。
 まず、万永元年(1860)には、総年寄に神奈川宿の石井源左衛門が加わった。また、文久元年(1861)には、苅部清兵衛が病気により辞職したが、その後、清兵衛の子が総年寄に就任、明治元年(1868)まで、石井・苅部・石川の3家が総年寄年として町政を監督した。また、文久元年(1861)8月の「横浜武艦」よれば四、五丁目の名主が、清五郎から久次郎にと、名主など幾多交代がある。
 その後、明治元年(1868)6月には、新政府によって、行政機構の改変が行われ、従来の総年寄と横浜町の7名主を廃止し、新たな総年寄1名・横浜町名主1名を公選することが決められている。選挙の結果は、総年寄に苅部清兵衛、名主に小野兵助が当選し、選挙が行われにかった太田町名主の太田源左衛門を加えた3名が横浜町会所を運営することとなった。
 さらに、幾多の変遷があり、それは、名主が5人、横浜各町を2地区に分け、横浜5カ町、境町、洲干町、弁財天町の名主に小野兵助・島田源次郎、太田町、末広町、入船町、駒形町、相生町、高砂町、小松町、住吉町、新浜町、若松町、常盤町、真砂町、緑町、尾上町、湊町、羽衣町の名主には、太田源左衛門・梅田半之助・岡本鉄之助がそれぞれ就任している。そして、明治4年には、総年寄が市長、名主が副市長と改正された。
 一方、これらの者の職務については、明治元年(1868)に定められ、名称は「惣年寄・名主取扱規則」と定められ、具体的内容は、住民から申請する諸請願、訴訟、地所拝借願、渡世願、上地届、退身届、養子相続届、人別出入に関する届を扱うほか、町会所の諸入用に関する業務や外国人と日本人との売買品についての調査をする。加えて、治安に関する記述も多く、収得品の届、捨子、行倒人、盗難、水死人なども散見されており、小野日記には、これら業務につて詳細に記されている。とありました。