後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ドイツのライン川の風景」

2024年03月29日 | 写真
ライン川はスイスアルプスのトーマ湖が源流です。そこからボーデン湖に入りドイツ・フランスの国境を北に向かい流れ、カールスルーエの少し南からドイツ国内を流れ、ボン、ケルン、デュッセルドルフ、などを通過しオランダ国内へと入ったあとロッテルダム付近で北海に注いでいる大河です。
全長1,233キロメートル。そのうちドイツを流れるのは698キロメートルです。ドイツにとっては特に重要な川であり、ライン流域を主軸のひとつとしてドイツ史は展開してきたのです。ライン川の写真を示します。

1番目の写真はスイスのシャッハウゼンにあるライン川の大きな滝です。以前ドイツに住んでいた頃に何度も家族と見に行った懐かしい大滝です。

2番目の写真はドイツのコブレンツ付近を流れるライン川です。コブレンツからは観光船が出ます。

3番目の写真は中世の古城です。ライン川の両岸には中世の古城がたくさんあります。

4番目の写真は葡萄畑とライン川です。ライン川の両岸はワインの産地として有名です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「青雲の志でドイツにも留学、そしてハプスブルグ家のこと」

2024年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は「青雲の志を抱いて郷関をいづる」という記事を書きました。
私が青雲の志を抱いてオハイオ州立大学へ留学したのです。1960年の夏のことでした。何故か、「青雲の志」という言葉は私の心に長く住み着いて今度はドイツに留学しました。
ドイツには1969年の夏から1970年の秋まで1年4ケ月住んでいました。
そして一番吃驚したことはヨーロッパは国々や地域によって文化の非常に違うということでした。
日本から眺めると西洋文化という一つの文化があるように見えますが、住んでみると国々や地域によってそれぞれ歴史や文化が非常に違うのです。
ドイツも北では「こんにちは」はグーテンターグと言いますが、私共が住んでいた南ドイツでは「グリュースゴット」と言います。言葉だけでなく考え方が違うのです。
シュツットガルトでアパートを探しましたらシュバーベン出身の人以外には貸さない家主が多いのです。シュツットガルト地方は昔、シュバーベン王国だったのです。要するに地元の人にしか貸さないのです。新聞広告にはっきり「 シュバーベン人に限る」と明記してあります。

さてヨーロッパの中世の文化を眺めるとハプスブルグ家の影響が大きかったことに気がつきます。
中世のハプスブルグ家がヨーロッパのあちこちに広大な領土を所有していました。ハプスブルグ家は軍隊も持っていました。
日本では産業革命以後のイギリス、フランス、ドイツ、アメリカの文明を熱心に取り入れて富国強兵を実行し幾つもの戦争をしました。
従って産業革命より古い中世のヨーロッパの文化をとかく軽視する風潮があります。
しかしヨーロッパ文化へ与えたハプスブルグ家の影響を調べてみるとヨーロッパのある重要な側面が見えて来るのです。
ハプスブルグ家は武力と婚姻関係を利用してヨーロッパ全土に領土を広げ、幾つもの王国を作り、その王達の生殺与奪の権力を手中に収めた一家だったのです。
中世から近代にかけてヨーロッパ全土に支配権を及ぼし、「ヨーロッパは同じ文化圏」という考え方を定着させたのです。
ヨーロッパの歴史でそのような一家はウイーンのハプスブルグ家とフィレンツェのメディチ家です。
この2つの家だけが有名なのは王様の権力以上の権力を握っていたからです。
王位継承権をハプスブルグ家が握っていたのです。
これは日本人にとって理解しにくい事情です。ですから日本ではハプスブルグ家のことはあまり学校では丁寧には教えません。
それではハプスブルグ家の領土はどのくらい大きかったかを一番目の写真の地図で示します。

1番目の写真は1547年時点でのハプスブルク家の領土を黄色で示した図です(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83…)
ハプスブルグ家はオーストリアを中心にした領土とスペインを中心にした領土に別れていました。
そして中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の指名権、継承権を握っていたのですから驚きです。
現在も、ハプスブルグ家の子孫は婚姻によりスペイン、ベルギー、ルクセンブルクの君主位継承権を保持しております。
そしてこの一家の本拠地はウイーンのシェーンブルン宮殿にありました。

2番目の写真はがウイーンのシェーンブルン宮殿です。(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83…)
そして多くの王国(公国や帝国を含む)の連合として、1526年から1804年まで「ハプスブルグ君主国」が存在したのです。
その歴史は複雑ですが、ご興味のある方は末尾に付けた参考資料をご覧ください。
「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻によってでも所領を増やしていったのです。
その例はマリア・テレジアが数多くの娘たちを各国の王子と結婚させたことでもよく知られています。その結果、ヨーロッパの数多くの王族が親戚関係になり、現在のヨーロッパ統合のEUの成立の背景になっているのです。現在のヨーロッパ連合や通貨の統一はこのような歴史の影響があるのです。
現在も日本では、日本ハプスブルグ協会が「文化芸術サロン」というブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/operafestival/8729389.html)を発表しています。
ハプスブルグ家がこのように現在の日本へもつながっていると思えば不思議な気がします。
ハプスブルゲ家の詳細は末尾の参考資料にあります。
最後に1969年の夏から秋の3ケ月間のドイツ語研修で私が住んだローテンブルグ・オプ・デア・タウバーの写真を示します。

それはそれとして、 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)
===========参考資料=================
ハプスブルク家(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83…)(ドイツ語: Haus Habsburg)は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系。古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の家系となった。また、後半は形骸化していたとはいえ、ほぼドイツ全域を統べる神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)の皇帝位を中世以来保持し、その解体後もオーストリアがドイツ連邦議長を独占したため、ビスマルクによる統一ドイツ帝国から排除されるまで、形式的には全ドイツ人の君主であった。ヨーロッパ随一の名門王家と言われている。以下省略。