後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「何故か私は広々とした草原が大好きです」

2024年03月10日 | 写真
こんな広々とした草原が東京都にあるのは奇蹟のようです。近所にあるのです。
今日も行きのんびりと風景を眺めて来ました。
光は春ですが冷たい風が吹いていました。
なお写真の中の月日はカメラの間違いです。


「教養としてのキリスト教・・・復活祭とは?」

2024年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム
キリスト教のことを知れば欧米人の考え方が分かると言います。文学や絵画彫刻や音楽がもっと味わい深くなるとも言います。ですから多くの日本人は教養としてキリスト教を身につけています。
今年は3月31日の日曜日が復活祭です。キリスト教の復活祭です。
そこで復活祭の意味やその重要性について簡単に書いてみたいと思います。
簡単に書いてしまえば復活祭はキリストが十字架にかけられ処刑され、3日後に生き返ったことをお祝いするお祭りです。
キリストが生まれた日はクリスマスとして日本でもお祝いの食卓を囲む人が多く、日本の重要な歳時記として定着しています。12月24日のクリスマスはヨーロッパの原始宗教の冬至祭を踏襲しました。
その一方で復活祭は日本ではあまり有名ではなく、一部のクリスチャン関係者だけが祝っています。
復活祭は春の到来を祝うお祭りを踏襲していますので、日本でももっと有名になっても良いと思います。しかし「一旦、死んだ人が生き返る」という不自然さ、不合理さがあるので日本では受け入れらなかったのでしょう。
しかしキリスト教徒にとっては復活祭は一番重要な祭日です。ある意味ではクリスマスよりも非常に重要な祭日です。
その理由はキリスト教信仰の中心をなすのが、キリストが生き返り、その後、天に登って神の右の座に着いたという事実を信じることなのです。そして最後の審判の時が来ると、キリストは再び帰って来ます。そして全ての死者の肉体も蘇り、復活するのです。
復活祭とはイエス自身の生き返りを祝い、全ての死者の生き返りを祈る重要な祭日なのです。
上に書いたことはあまりにも荒唐無稽なことですね。少なくとも大部分の日本人には受け入れられない空想に過ぎません。私も本物の日本人ですから復活祭が日本へ受け入れらなかった事情は痛いほど良く分かります。なにせ仏教にはそんな空想論は皆無なのです。
さてそれはそれとして少し復活祭に関連した写真を見てみましょう。
写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E6%B4%BB%E7%A5%AD です。
この絵画は生き返ったキリストが弟子たちの中心に立っている光景です。ある弟子は本当に生き返ったキリストなのかと疑って眺めています。トマスはキリストの脇腹の傷跡に指を入れてみて、「これは本物の生き返ったキリストだ!」と納得します。
この絵は欧米人なら誰でも知っています。彼等の心の中にある原風景なのです。
日本人も心の中にいろいろな原風景を持っています。
文化の違いや考え方の違いは心の中にある原風景の影響を受けている場合も多いと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料============================
マルコの福音書 16章 復活したイエス
1 翌日の夕方、安息日が終わると、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤ、それにサロメの三人は、さっそくイエスの遺体に塗る香料を買い求めました。
2 その翌朝早く、日が昇るとすぐ、女たちは香料を持って墓へ急ぎました。 3 女たちには気にかかることが一つあり、道々、そのことばかり話し合っていました。どうしたら、あの大きな石を入口から取りのけることができるかということでした。 4 それがどうでしょう。墓に着いてみると、あの重い石は動かしてあり、入口が開いているではありませんか。 5 中に入ると、右のほうに白い服を着た青年(天使)が座っています。女たちはびっくりして、息も止まるほどでした。 6 その青年がおもむろに口を開きました。「そんなに驚くことはありません。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのでしょう。あの方はもうここにはおられません。復活されたのです。ごらんなさい。ここが、あの方の納められていた場所です。 7 さあ、行って、ペテロやほかの弟子たちに、『イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前もって言われたとおり、そこでお会いできるのです』と知らせてあげなさい。」
8 婦人たちは震え上がり、転がるようにして墓から逃げ帰りました。そして、あまりの恐ろしさに、この出来事をだれにも話すことができませんでした。
9 〔さて、イエスが復活されたのは日曜日の早朝のことで、最初にイエスにお会いしたのはマグダラのマリヤでした。彼女はかつて、イエスに七つの悪霊を追い出していただいたことがありました。 10-11 マリヤはすぐさま、悲しみに打ちひしがれて泣いている弟子たちのところへ行き、「大変です! イエス様は生きていらっしゃいます。私、実際にお目にかかったのです」と話しました。しかし弟子たちは、マリヤの言うことを信じようとしませんでした。
12 その日の夕方、二人の弟子がエルサレムから田舎へ向かう道を歩いていました。そこへイエスが現れましたが、とっさには、だれだか見分けがつきませんでした。以前とは違った姿をしておられたからです。 13 やっとイエスだとわかると、二人はエルサレムに飛んで帰り、ほかの弟子たちにこの出来事を知らせました。しかし、だれも彼らの言うことを信じませんでした。
14 その後、十一人の弟子たちが食事をしているところにイエスが現れ、彼らの不信仰をとがめられました。「どうして、わたしが復活したと言う者たちの証言を信じなかったのですか。」 15 それから、こう宣言されました。「全世界に出て行きなさい。すべての人々にこの福音を宣べ伝えるのです。 16 信じてバプテスマ(洗礼)を受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。 17 信じる人々はわたしの権威によって悪霊を追い出し、新しいことばを語ります。 18 蛇をつかんでも、毒を飲んでも害を受けません。病人に手を置けば病気は治ります。」
19 こう語り終えると、イエスは天に上げられ、神の右の座につかれました。 20 弟子たちは命じられたとおりに出て行き、あらゆる所でこの福音を宣べ伝えました。主が共に働いてくださったので、数々の奇跡が起こり、弟子たちの教えの確かさが証明されました。