後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「青雲の志を抱いて郷関をいづる」

2024年03月28日 | 写真
戦後の貧しさが漂っていた頃の仙台の思い出です。主な道路の中央しか舗装されていず、風の日は砂ぼこりが舞っていました。
私はその砂埃りの道を自転車で高校に通っていました。その高校は旧制の中学校がそのまま高校なった学校です。旧制中学のドイツ語や漢文の先生が熱心に教えていました。特に漢文の先生は情熱的にいろいろな漢詩を朗読しながら教えてくれたのです。
何度も青雲の志を抱いて郷関をいづるという文を教えていたのです。
若い私はその教えを文字どおり信じ、人生の道しるべにしました。
この「青雲の志」は唐時代の張九齢の次の漢詩の中に出てきます。若い頃の青雲の志を懐かしんでいる漢詩です。
この教えに従って私は仙台を飛び出してオハイオ州に留学しました。
私が青雲の志を抱いてオハイオ州立大学へ行ったのは1960年の夏のことでした。
私は故郷、仙台の友人や親類の見送りを受け、羽田を飛び立ちました。主翼に4個のプロペラが勢いよく回っているノース・ウエスト機で太平洋を渡りました。
大学では指導教官のセント・ピエール先生が歓迎してくれて、いきなり9月の学期から博士コースの講義を3課目聴きなさいと言います。
その指導教官のセント・ピエール先生を懐かしく思います。講義を聞いたスパサー先生を懐かしく思います。茫々60年以上前のことでした。
そこで懐かしい二人の先生の写真を示します。

この写真は私どもの結婚披露宴でのセント・ピエ-ル先生(右)とスパイサー先生(中央)です。私どもは左に写っています。
懐かしさのあまりセント・ピエ-ル先生とパイサー先生の写真をお送り致しました。


「アメリカでの質素な結婚式とレセプションの写真」

2024年03月28日 | 写真
結婚は人生の重大なことです。私は67年間幸福な結婚生活を続けています。今日は私どもの結婚に関する写真です。
67年前の1961年、私共はオハイオ州のコロンバス市で結婚しました。とても簡素な結婚式と質素なレセプションでした。しかしオハイオ州立大学の先生方や同級生が一生懸命世話をしてくれました。感謝の気持ちは今でも忘れません。もう67年にもなるので写真に写っている自分は容姿も完全に変わり、全くの他人のようになりました。結婚式とレセプションの写真を掲載します。
1番目の写真は我々の結婚を報ずるオハイオの新聞記事です。
 
2番目の写真はオハイオ州立大学の中にある結婚式場へ牧師さんが来て式をあげている場面です。私の左後ろはケン・ローリイという同級生で私の付添人をしてくれました。右端の半身だけ映っているのがケン・ローリイの奥さんのゲイルです。

3番目の写真は結婚式に出席してくれたはオハイオ州立大学の金属工学科の先生方と同級生です。

4番目の写真は結婚式の後のレセプションの写真です。レセプションはダウンタウンのディッシュラ―ヒルトンホテルで行いました。左の人が私の指導教官のセント・ピエール教授です。セント・ピエール教授の右に私の父は立っていましたがこの写真では人陰になって写っていません。

5番目の写真はデョッシュラ―ヒルトンホテルで行ったレセプションに出てくれた同級生です。

6番目の写真はレセプションに出てくれた同級生の奥さん達です。
結婚式とレセプションには内木先生夫妻や秦先生夫妻も出てくれました。内木先生と秦先生の奥さんは色鮮やか和服姿でした。
同級生の2人はレセプションの後で残った大きなウエディングケーキを私どもの家に届けてくれたのです。おかげで私どもは数日間ケーキを美味しく食べました。
7番目の写真は無事に結婚した直後の私どもと私の父の写真です。私どものアパートの駐車場でした。

今日は私どものオハイオ州のコロンバス市での結婚に関する写真を示しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「我が人生で一番感動した若い頃のアメリカ留学」

2024年03月28日 | 日記・エッセイ・コラム
幸運にも老境まで健康に生きてきました。長い人生には嬉しいこと、悲しいこと、苦しいことなどいろいろありました。しかし我が人生で一番感動したことは若い頃のアメリカ留学でした。
今日は私のアメリカ留学のことを書きたいと思います。
私はフルブライト留学生として1960年から1962年まで、オハイオ州立大学の金属工学科に留学しました。初めての外国体験でした。
その時アメリカ人はいつも私を励ましてくれ、好意溢れる支援を惜しみなく与えてくれたのです。今でも感謝しています。
例えば博士過程で実験装置を作ったときのことを思い出します。その装置の完成には大学に付属した機械工場のニールさんという職人がひどく親切に協力してくれたのです。
1番目の写真はオハイオ州立大学のロードホールという建物ですが、その一階の右の部屋にその実験装置を作りました。2階には講義室がありました。インターンットからお借りした写真です。
そして学科主任のフォンタナ教授が励ましてくれたのです。そしてフォンタナ教授の秘書のヘレンさんもいつも親切にしてくれました。
同級生もノートを見せてくれたり、英語のできない私を助けてくれました。
そしてもう一つの忘れ得ぬ経験は、指導教官のセント・ピエール教授夫妻が我々の結婚式の仲人をしてくれたことです。 妻を日本から呼び寄せ、オハイオで結婚式を挙げたのです。 それは1961年のことでした。
セント・ピエール教授夫妻が結婚式や披露宴の会場などを手配してくれたのです。その上地元の新聞に私共の結婚の記事や写真が大きく掲載されるように手配してくれたのです。地元の新聞はコロンバス・ヂスパッチといいました。

アメリカ人の親切さは留学した大学の人だけでなかったのです。見ず知らずの人も困っている私共を助けてくれたのです。
例えばオハイオ・キャバーンという鍾乳洞へ家内と生後6か月の娘と行ったとき車が故障しました。周りはぼうぼうたるトウモロコシ畑です。途方に暮れていると、一台の車が止まってくれました。
2番目の写真はその時乗っていた車と妻です。自分で撮った写真です。
若い男が私の車のボンネットを開け、これは重症だと言います。そしてロープで私の車をかなり遠方の町の修理屋まで引っ張って行ってくれたのです。この様な体験は数回しました。
このような体験をすると何時までもアメリカ人への感謝の気持ちが残るのです。それが人間として当然ではないでしょうか?
老境にいたった今、それらを静かに思い返しています。
懐かしのでオハイオ州の写真もっと出します。
3番目の写真は夏のオハイオ州の平原です。インターンットからお借りした写真です。
4番目の写真はよく走った道路の風景です。インターンットからお借りした写真です。

5番目の写真は大学の正門前のオハイオ州立大学の看板の写真です。
大学は中心街からノース・ハイ・ストリートを北に行った所にありました。

6番目の写真はオハイオ州立大学の全体の航空写真です。インターンットからお借りした写真です。
中央にある芝生の広場とそれを囲む建物群の写真です。このような広い芝生の広場がもう一つありました。芝生の中に交差している通路は学生たちが芝生を踏まないように舗装した通路です。

7番目の写真は大学の近くのノース・ハイ・ストリートに面した店です。よくアメリカ人の同級生とコーヒーを飲みに行ったものです。インターンットからお借りした写真です。
私が妻と娘と一緒に帰国したのは1962年の秋でした。帰路にパリやロンドンを回りました。

茫々、あれから60余年です。親切に接してくれた全ての人に感謝しています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)