晴れのち曇り、時々パリ

もう、これ以上、黙っていられない! 人が、社会が、日本全体が、壊れかかっている。

「何故、一般人に<量刑>まで決めさせるのか?」 『裁判員』制度に疑問を感じる。

2010-11-25 23:55:07 | 社会問題
石巻の3人殺傷事件の「当時18歳の少年」の犯人に対する、裁判員裁判の結果<死刑>判決が下された。


私個人は、若い頃は(かなり青かったので?)「死刑制度」には反対の立場に立っていた。

しかし、人生の歩みが増える毎に、犯罪と処罰に関する考え方が、かなりラディカルに変わって来てしまった。

いかんせん、日本にはあまりにも「短絡的」で「我が儘」な凶悪犯罪が多くなり過ぎてしまった。

何かの統計に依ると、殺人事件の数は、今日より「戦前」の方がずっと多かった、と聞いた事が有る。

具体的な数字は知らないので、確かな事は解らない。

しかし、感覚的に捉えると、私が若かった頃は、今の様に酷い事件が多発する様な事は無かった様に思っている。


とにかく、毎日の様に全国のどこかで人が殺されていると思えるくらい、「殺人」が頻繁にニュースをにぎわせる。

失恋して、相手を殺す。
一方的な思いが通じなかったから、殺す。
ゲーム代欲しさに、殺す。
乱暴しようとして、抵抗されたから、殺す。
乱暴して、自分の身元がバレない様に、殺す。
乱暴して、事件そのものがバレない様に、殺す。
交差点で、肩が触れたから、殺す。
目線が合ったから、殺す。
公園で寝ているホームレスが、弱そうだから殺す。
父親が、偉そうだから、殺す。
母親が、勉強勉強と、ウザイから殺す。
兄弟より劣っていて、比較されて悔しいから、殺す。
仲間でつるんで、その中の一人を面白半分に、殺す。
意味も無く、たまたまそこに居たから、殺す。
何故殺したのか、自分でも解らないまま、殺す。




読んでいて、気分が悪くなりませんか?

私には、ここ10年くらいの日本社会は、完全に常軌を逸している、と思えてならない。


その、殺人に至る前提としてあるのが、あらゆる欲望を我慢出来ない、未熟な人間の排出される、歪んだ日本社会が有る。


「昔は・・・」と言い出すと、年を取った証拠だとか言われるが。

しかし、昔は「分相応」とか、「我慢」とかというか価値観が、生きていた。
道徳心や、公徳心、等と言う規律が、有効であった。

誰しも、欲望はある。
しかし、人は求める物が全て与えられる訳では無い。

その事を、理解して居ない人種が増えて来た様に見える。


方や、あまりにも「物質」に汚染され過ぎた日本社会、が有る。

バブルが生み出した、「拝金思想」は、その後の日本人の価値観を、変えてしまった。

世は、おしなべて競争社会。

それにしても、以前なら、スタートでつまずいても、何とか自分自身を立て直せる様な、精神的余地が、社会的に存在していた様に思う。

いまは、高校進学で、中学進学で、極論すれば小学校の「お受験」の結果で、その後の5~60年の結果が見えてしまう。

チャンスを掴めなかった層の中には、それで人生に於いての「切磋琢磨するべき努力」を放棄してしまう子供達が、出で来るのだ。

後は、目先の享楽に生きるのみ。

仕事はつまらない。
周りの大人達は、自分勝手で、嘘つき。
社会はださい。

それで。

同じ環境の仲間を求めて群れる。
彼氏、彼女を求める。
酒を飲み、ゲームに熱中する。
バイクを暴走させる。
あるいは、「オタク」な分野に没頭する。

その為には、携帯が要る。
そして、その為には、カネが要る。


まあ、ステレオタイプな記述をしてしまったが、大方はこのような流れの中に捕われてしまう、若者達が居る事は、否定出来ない筈だ。

そして、何か気に入らなければ、すぐに爆発する。

手っ取り早く、その場の欲求を満たそうとする。

目の前の、その時の欲求に立ち塞がる「障害」に対して、暴力でしか解決する手段を考えつかない。

その後の、その行動がもたらす結果や、波及効果等に、全く思いが至らない。


このような世代を生み出して来たのは、親の世代であり、現代の社会であり、今までの政治である。

そのような、「恐るべき子供達」を生み出して来た社会の、構成要員の一人として、責任を感じなければならないと、痛切に思う。


しかし、今この場で、現代社会論を述べるつもりは無い。


言わんとする事は、裁判の在り方に付いてである。

本年度から、『裁判員制度』が実際に機能し始めた。

そして、最初から危惧されて居た問題点が、クローズアップされて来たと思う。


▶石巻3人殺傷 裁判員「一生悩み続ける」 少年に死刑判決(毎日見出し)

>重圧で押しつぶされそう

>閉廷後の午後6時、裁判員2人が会見に応じた。男性裁判員は「正直何とかできなかったのかなあ」と語り、下を向いて涙をこらえた。2人は、裁判や重い判決を振り返り、次のように感想や考えを語っている。(A=30代会社員男性、B=年齢・性別非公表)
【毎日新聞/11月25日(木)23時33分配信】


これまで私は、「犯罪者の更生」に重きを置き過ぎて、「犠牲者とその家族の苦しみへの配慮」が、あまりに軽視されている、と不満であった。

たとえ、心神喪失状態であったとしても、たとえ、育った家庭環境が不幸であったとしても、たとえ「未成年であった」としても、重大な過失を犯してしまったからには、その罪の重みに相応しい「償いをさせるべき」だと思って来た。

全く問題がない優等生が、本当の出来心で「始めて」万引きをやってしまって、心から悔い改めている、と言う様な場合であれば、その子の将来を慮って、匿名性を守り、更生への努力を促す必要は、有るだろう。

しかし、身の程知らずの我が儘で、無垢の命を残忍に奪い去ったりすれば、その犯人の性格が「それほど純真でない」事が明らかであれば、「更生を期待する」と言う事は、一部の大人達の自己満足なのでは無かろうか、と思って来た。

イスラム法の原点である、「目には目を、歯には歯を」という発想は、有る部分で正しいと思う。


そこへ持って来て、『裁判員』という、犯人とも被害者とも立場が異なる、いわば第三者が「精神的に傷つく」事が起こって来る、という新たな問題点が起こって来たのだ。

素人考えででも、「一体、何故素人に量刑を判断させるのか」という疑問は、最初から抱いていた。

最近の私は、「死刑反対論者」に対して、有る一定の距離を置きたい心情になって来ている。

それにしても、法学上の素人が、「<死刑>を決める」と言う事は、やはり並大抵の事では無いと想像出来る。

一体何故、「日本の裁判員制度」は、判決に置ける『量刑』まで判断しなければならないのだろう。

量刑を判断するのは、法律のプロである「判事」に任せれば良いのでは無いのか。

アメリカの『陪審員』の如く、<無罪>か<有罪>かの判断だけ、では何故ダメなのだろうか。

一体、誰がこの様な法律を、作ったのだろう。

実社会の、人間の楽しみや苦しみを感じ取れない『官僚』達が、机上の空論で作文した結果に違いないとは言え、国会審議の時にそのような議論は、出なかったのか。

一介の「市民」に、未成年に「死刑を求めさせる」事の、精神的苦痛は、必要の無かった「強制された苦痛」以外の、何物でもない。


私の心情を白状すれば、「犯人の反省」や「更生の可能性」等、何の意味も無い事である。

もし家族の誰かが「無惨に殺されたら」、裁判結果等に捕われずに、あらゆる非合法な手段を講じてでも、直接犯人を殺してやるつもりである。


しかし、裁判員に「死刑判決を下させる」ことには、反対せざるを得ない。

「裁判員制度』は、陪審制度に沿って、無罪か有罪かの判断に関わるだけで良い。

コメント (17)
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