いやはや、大騒ぎでは有る。
大相撲と言えば、スポーツなのか、伝統芸能なのか。
その辺の解釈がはっきりしていないから、問題はこじれる一方なのだと思う。
そもそも、神事であったらしい。
それが証拠に、横綱はいまだに『しめ縄』をしめている。
今では止めてしまったらしいが、横綱は肥後熊本の『吉田司家』で奉納土俵入りを行っていた。
ちなみにフランスでは、大関は『CHAMPION=シャンピオン』。
横綱を『GRAN CHAMPION=グラン・シャンピオン』と訳し、さらに『DEMI DIEU=ドウミ・デュー(半神)』と解説する。
そして、江戸時代に於いて確立した越える事あたわぬ支配体制に、庶民が味わえる<反対性的>娯楽でもあった。
実力次第で、公家大名にもサシで体面出来る。
それが、<力自慢>である事による事が、力=権力であった時代に、庶民の側のヒーローと成り得た訳だった。
力を誇示するのは、武士とヤクザ。
その中間が<相撲取り>ででも有ったか。
要するに、歌舞伎者と同じ類いの存在であると言えるだろう。
明治維新で、旧来の伝統が一旦希薄になり、日清日露戦争の時を経て、急激な『愛国心』の高揚とともに、この種の伝統が再び台頭して来たのであった。
そして、戦後の混乱期を経て、日本が豊かさを求めて突っ走り始めたと、時を同じくして、人々に日々の努力の代償としての<夢>として、プロ・スポーツが一気に表舞台に躍り出る。
人々は、老いも若きも<ラジオ>にかじりつき、千代の山や吉葉山、栃錦や若乃花、に歓声を送り、巨人や阪神の試合に夢中になった。
テレビの到来で、それがさらに国民的規模にまで広がり、野球と相撲とは日本人の娯楽の中心に居座り続ける事と成る。
野球は、明治維新とともにアメリカからもたらされた。
方や、相撲は平安時代以来の、大和文化のシンボルの一つである。
和と洋。
そして、<和>の伝統の分野では、狭い範囲での閉じこもった世界で受け伝えられて行く事にが往々にしてみられる。
そのような環境の中で営まれる事は、一般社会の常識から、少しずつ乖離して行く傾向に落ちる事が有る。
ましてや<力士>たちは、高卒や、中には中卒で入って来る。
殆ど社会の仕組みや常識等を教わっていない状態で、いきなり<特殊な>社会にほうりこまれるのだ。
しかも、「土俵に金が落ちている」と教わり、土にまみれて精進し、出世して行く。
『関取』と呼ばれる、十両力士になるや、いきなり百万円規模の給料が、毎月転がり込んで来るのだ。
しかも、あらゆる<衣食住>が、「ゴッツァンです」のシステムなのだから、勘違いもしようと言うもの。
あの『朝青龍』の騒ぎも一緒です。
世間知らずの若者を、世間知らずで力士になった親方が指導するのだから、人間的成長なんて難しいに決まってる。
ましてや「勝ってナンボ」の世界である。
向かうところ敵無しだった朝青龍が天狗になったのもむべなるかなであろう。
しかも、タニマチが、<危ない人々>と来た日には、格闘技と混同してしまったとしても、攻められないだろう。
地位が人を育て、地位が人を堕落させる。
だからして、<バクチ>位しますわね。
もはや誰も、相撲を<神事>等とは思っていない。
と言う訳で。
野球賭博の何が、<そこまで>の大問題なのだろう?
ただ、誤解を招かない様に明記するが、賭博とは殆どの場合に於いて、<暴力団>が取り仕切っている。
その意味に於いて、ここはうやむやにしては成らない点である。
しかるに、野球賭博問題が表面化するに及んで、すぐさま<空騒ぎ>をして、直ちに<トカゲの尻尾>を切り落とす。
なんだかなあ~。
聞くに及ぶところ、『琴光喜』は親方の代理で賭けていたらしいでは無いか。
本人も、もちろん<遊んで>いたのも事実である事は、本人も認めている通りなのだろう。
しかし、問題の発端と成った、350万円の恐喝やら、数千万円の金の動きやら、取り立てやら未払いやら、恐喝やらは、全部大嶽親方の分だったらしい。
その大嶽親方が<解雇>処分となるのは致し方ないし、反論の余地もないが、『琴光喜』に関して、永久追放を意味する<解雇>までする必要が有るのか、どうも釈然としないのです。
聞けば『貴乃花』親方が、そこまでの処分に反対して、理事の地位に対して辞表を出す騒ぎにまでなったとか。
彼の良い分は。
「番付の最下位からでもやらせれば良いでは無いか」と。
ただでさえ、大関横綱陣に、日本人は二人しかいないと言うのに。
もちろん、日本人が二人しかいない、と言う理由で罪を許される訳では無い事は、言うまでもない。
しかし。
何か釈然としない。
そこで気がついた。
おかしいのは、賭博の大本である<暴力団>に対する捜査の事が、全く聞こえてこない、と言う事だ。
博打は、犯罪である(らしい)。
その犯罪に於いて、遊ぶ側と、胴元の側と、どちらが罪が重いかは、言うまでもない事だ。
その、胴元を放ったらかしにしておいて、遊んだ側だけをスケープ・ゴートにしてはいかのか?
琴光喜は、今回の事を抜きにすれば、有る意味で相撲協会に取っては<恩人>みたいな立場の力士だと思う。
日本人として、精一杯場所を盛り上げているではないですか。
貴乃花親方が言う通り、十両再末尾からでもやらせてやれば良い、と思うのは<反社会的>な考えなのだろうか。
しかも、彼は一切弁解らしい弁解をしていない。
大嶽親方の黒子で有ったのなら、もっとそれを言い張っても良かったくらいなのに、まるで優等生の如きお詫びコメントを繰り返すのみ。
もちろん当の大嶽親方は、ただただ低姿勢に徹して当たり前だが。
この辺に、何かの作為を感じてしまうのだ。
因果を含められて居るような。。。
いくら<伝統>だの<神事>だのと言っても、所詮は<娯楽興行>の世界に過ぎない。
世間知らずで、学の無い急に金回りの良くなった<若い衆>が、賭博にはまってとしても、世間を騒がす程の一大事とは思えない。
上の両名にしても、もっと違った対処が有ったのでは無いか。
背後の胴元で有る<暴力団>にメスを似れるまでの間、2~3年の間。謹慎させておけば良いだけの話にも思えてしまうのです。
博打が<反社会的>行為で法律違反であるならば、何故<博打>に区別をつけるにだろう。
何故<パチンコ>は違法では無いのか?
「追って沙汰の有るまで蟄居を命ず」
そして、背後の暴力団の追求に励むべし。
という感じでも良いのではないかしらん?
弟子に対する暴力致死事件を始め、何かと批判に曝される『日本相撲協会』が、いち早く延命て<トカゲの尻尾>をを切った、としか思えない。
いっその事、『財団法人日本相撲協会』という<特殊法人>を、事業整理してしまって、単なる株式会社にでもしてしまうか。
そうなる事を恐れての、今回に限っては、実に素早い対応では有った。
そんな下らない事より、民自両党が共に<増税>で一致している参院選の方が、日本の将来に取って、よっぽど一大事なのですが。
財務官僚の高笑いが、聞こえる。
日本の夜明けを覆してはならない。
大相撲と言えば、スポーツなのか、伝統芸能なのか。
その辺の解釈がはっきりしていないから、問題はこじれる一方なのだと思う。
そもそも、神事であったらしい。
それが証拠に、横綱はいまだに『しめ縄』をしめている。
今では止めてしまったらしいが、横綱は肥後熊本の『吉田司家』で奉納土俵入りを行っていた。
ちなみにフランスでは、大関は『CHAMPION=シャンピオン』。
横綱を『GRAN CHAMPION=グラン・シャンピオン』と訳し、さらに『DEMI DIEU=ドウミ・デュー(半神)』と解説する。
そして、江戸時代に於いて確立した越える事あたわぬ支配体制に、庶民が味わえる<反対性的>娯楽でもあった。
実力次第で、公家大名にもサシで体面出来る。
それが、<力自慢>である事による事が、力=権力であった時代に、庶民の側のヒーローと成り得た訳だった。
力を誇示するのは、武士とヤクザ。
その中間が<相撲取り>ででも有ったか。
要するに、歌舞伎者と同じ類いの存在であると言えるだろう。
明治維新で、旧来の伝統が一旦希薄になり、日清日露戦争の時を経て、急激な『愛国心』の高揚とともに、この種の伝統が再び台頭して来たのであった。
そして、戦後の混乱期を経て、日本が豊かさを求めて突っ走り始めたと、時を同じくして、人々に日々の努力の代償としての<夢>として、プロ・スポーツが一気に表舞台に躍り出る。
人々は、老いも若きも<ラジオ>にかじりつき、千代の山や吉葉山、栃錦や若乃花、に歓声を送り、巨人や阪神の試合に夢中になった。
テレビの到来で、それがさらに国民的規模にまで広がり、野球と相撲とは日本人の娯楽の中心に居座り続ける事と成る。
野球は、明治維新とともにアメリカからもたらされた。
方や、相撲は平安時代以来の、大和文化のシンボルの一つである。
和と洋。
そして、<和>の伝統の分野では、狭い範囲での閉じこもった世界で受け伝えられて行く事にが往々にしてみられる。
そのような環境の中で営まれる事は、一般社会の常識から、少しずつ乖離して行く傾向に落ちる事が有る。
ましてや<力士>たちは、高卒や、中には中卒で入って来る。
殆ど社会の仕組みや常識等を教わっていない状態で、いきなり<特殊な>社会にほうりこまれるのだ。
しかも、「土俵に金が落ちている」と教わり、土にまみれて精進し、出世して行く。
『関取』と呼ばれる、十両力士になるや、いきなり百万円規模の給料が、毎月転がり込んで来るのだ。
しかも、あらゆる<衣食住>が、「ゴッツァンです」のシステムなのだから、勘違いもしようと言うもの。
あの『朝青龍』の騒ぎも一緒です。
世間知らずの若者を、世間知らずで力士になった親方が指導するのだから、人間的成長なんて難しいに決まってる。
ましてや「勝ってナンボ」の世界である。
向かうところ敵無しだった朝青龍が天狗になったのもむべなるかなであろう。
しかも、タニマチが、<危ない人々>と来た日には、格闘技と混同してしまったとしても、攻められないだろう。
地位が人を育て、地位が人を堕落させる。
だからして、<バクチ>位しますわね。
もはや誰も、相撲を<神事>等とは思っていない。
と言う訳で。
野球賭博の何が、<そこまで>の大問題なのだろう?
ただ、誤解を招かない様に明記するが、賭博とは殆どの場合に於いて、<暴力団>が取り仕切っている。
その意味に於いて、ここはうやむやにしては成らない点である。
しかるに、野球賭博問題が表面化するに及んで、すぐさま<空騒ぎ>をして、直ちに<トカゲの尻尾>を切り落とす。
なんだかなあ~。
聞くに及ぶところ、『琴光喜』は親方の代理で賭けていたらしいでは無いか。
本人も、もちろん<遊んで>いたのも事実である事は、本人も認めている通りなのだろう。
しかし、問題の発端と成った、350万円の恐喝やら、数千万円の金の動きやら、取り立てやら未払いやら、恐喝やらは、全部大嶽親方の分だったらしい。
その大嶽親方が<解雇>処分となるのは致し方ないし、反論の余地もないが、『琴光喜』に関して、永久追放を意味する<解雇>までする必要が有るのか、どうも釈然としないのです。
聞けば『貴乃花』親方が、そこまでの処分に反対して、理事の地位に対して辞表を出す騒ぎにまでなったとか。
彼の良い分は。
「番付の最下位からでもやらせれば良いでは無いか」と。
ただでさえ、大関横綱陣に、日本人は二人しかいないと言うのに。
もちろん、日本人が二人しかいない、と言う理由で罪を許される訳では無い事は、言うまでもない。
しかし。
何か釈然としない。
そこで気がついた。
おかしいのは、賭博の大本である<暴力団>に対する捜査の事が、全く聞こえてこない、と言う事だ。
博打は、犯罪である(らしい)。
その犯罪に於いて、遊ぶ側と、胴元の側と、どちらが罪が重いかは、言うまでもない事だ。
その、胴元を放ったらかしにしておいて、遊んだ側だけをスケープ・ゴートにしてはいかのか?
琴光喜は、今回の事を抜きにすれば、有る意味で相撲協会に取っては<恩人>みたいな立場の力士だと思う。
日本人として、精一杯場所を盛り上げているではないですか。
貴乃花親方が言う通り、十両再末尾からでもやらせてやれば良い、と思うのは<反社会的>な考えなのだろうか。
しかも、彼は一切弁解らしい弁解をしていない。
大嶽親方の黒子で有ったのなら、もっとそれを言い張っても良かったくらいなのに、まるで優等生の如きお詫びコメントを繰り返すのみ。
もちろん当の大嶽親方は、ただただ低姿勢に徹して当たり前だが。
この辺に、何かの作為を感じてしまうのだ。
因果を含められて居るような。。。
いくら<伝統>だの<神事>だのと言っても、所詮は<娯楽興行>の世界に過ぎない。
世間知らずで、学の無い急に金回りの良くなった<若い衆>が、賭博にはまってとしても、世間を騒がす程の一大事とは思えない。
上の両名にしても、もっと違った対処が有ったのでは無いか。
背後の胴元で有る<暴力団>にメスを似れるまでの間、2~3年の間。謹慎させておけば良いだけの話にも思えてしまうのです。
博打が<反社会的>行為で法律違反であるならば、何故<博打>に区別をつけるにだろう。
何故<パチンコ>は違法では無いのか?
「追って沙汰の有るまで蟄居を命ず」
そして、背後の暴力団の追求に励むべし。
という感じでも良いのではないかしらん?
弟子に対する暴力致死事件を始め、何かと批判に曝される『日本相撲協会』が、いち早く延命て<トカゲの尻尾>をを切った、としか思えない。
いっその事、『財団法人日本相撲協会』という<特殊法人>を、事業整理してしまって、単なる株式会社にでもしてしまうか。
そうなる事を恐れての、今回に限っては、実に素早い対応では有った。
そんな下らない事より、民自両党が共に<増税>で一致している参院選の方が、日本の将来に取って、よっぽど一大事なのですが。
財務官僚の高笑いが、聞こえる。
日本の夜明けを覆してはならない。