「人はよいものとして造られた。だから自由とはよいことをすることです」
カトリック教会のX神父の言葉ですが。
「人は悪い」とか「人は悪くない」という弁証法的な否定の運動を繰り返すよりはその方がハートに届いてよいと思う。
「人はよいものとして造られた。だから自由とはよいことをすることです」
カトリック教会のX神父の言葉ですが。
「人は悪い」とか「人は悪くない」という弁証法的な否定の運動を繰り返すよりはその方がハートに届いてよいと思う。
「ああいう人にはなるまい」
他人からそのように言われる前に積極的に反面教師の役割を引き受ける人。
そういう人にとっては「悪いことをするのはよいこと」なのだ。
「人を生きやすくすること」
「善とは何か」と問われたらそう答えることにしている。
でも個人の自由を無制限に求めると他者の自由は侵害される。
「何で私の愛は受け入れられないのだ」と迫られることになる。
そこで法による交通整理が必要になる。
けれども「××するな」という禁止規範は自由を制限し葛藤を生じさせるので悪のようにも見える。
しかしそれは人間社会に平和をもたらすためになくてはならないものだ。
このように「善が悪を生み、悪が善をもたらす」のが現実の世の中なのだ。
また悪いことをするのが楽しい人にとっては悪いこととはよいことなのだ。
だから依存的になるのだ。
善悪の問題はそれほど単純じゃないのだ。
相手を否定する時にしか自由を感じられない人。
将来苦労すると思うよ。
なんだかんだ言っても相手に依存してるから否定する相手がいないと自分の本心がわからなくなるのだ。
『続プシコの解体心書』予定より一週間以上早く届きました。
あとは『真プシコの解体心書』を完成させるのみ。
がんばる。
二項対立的に物事を捉える人が敵視した相手を自分の意見に従わせるまで叩こうとするのはそれで敵対的な関係を解消できる(平和になる)と思い込んでるからだろう。
つまりそれでよいことをしてるつもりなのだ。
欠点のない人はいないからやろうと思えば誰でも悪者に仕立て上げられる。
そんなことをするよりは大目に見てあげた方がよい。