Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

谷大二(さいたま)司教様の「船員の日」メッセージを読んで:谷司教様はどんな「神」に祈るのか?

2007年07月10日 | エキュメニズム関連情報
アヴェ・マリア!

日本カトリック難民移住移動者委員会 委員長 谷 大二(さいたま司教)の「船員の日」 メッセージ 2007年が発表されている。

====引用開始====



 教皇庁移住移動者司牧評議会は、7月8日(7月の第2日曜日)を「船員の日」(Sea Sunday)と定め、世界中の信徒に船員たちのために祈るよう呼びかけています。日本カトリック難民移住移動者委員会も船員たちとその家族のために祈るよう、皆様に呼びかけます。

 さて、今年のポスターは七福神をイメージしたものです。「カトリック教会なのに神々のポスターを作るとは何事だ」と怒られそうです。そこで、なぜ七福神なのかを少し説明しましょう。七福神の神々のうち大黒(だいこく)・毘沙門(びしゃもん)・弁才(べんざい)はインドのヒンドゥー教、布袋(ほてい)は中国の仏教、福(ふく)禄(ろく)寿(じゅ)・寿(じゅ)老人(ろうじん)は中国の儒教からきています。この6人の神々に日本の恵比寿(えびす)が入っています。いかにも日本らしい神仏習合的な信仰です。しかし、実にインターナショナル(国際的)ではありませんか? しかも、七福神は船に乗って、と書かれた俵を積んでいるのです。日本は17世紀から鎖国時代にはいりますが、それ以前はペルシャから中国にいたる多くの国々との間に、船による貿易、豊かな交流がありました。アジア各地に日本人街もできていたほどです。この貿易は経済的な豊かさをもたらしたばかりでなく、多くの文化的な豊かさももたらしました。なにしろ、インドや中国の神々が日本の神々と一緒になって、船に乗っているくらいですから。七福神は豊かさをもたらす船員のシンボルだったとも言えるでしょう。

 さて、現代はどうでしょう。私たちの生活物資の90%は海外からの輸入でまかなわれ、その99%は船に頼っています。昔以上に、船員たちの労働に頼っていることになります。しかし、船員たちと私たちとの間に人間的な交わりや文化的な交流はどの程度あるのでしょうか。船員のことに心を配ることはあるでしょうか? 確かに、経済的な理由から船員たちの上陸時間は短くなり、港での憩いのひと時もままなりません。だからこそ、そのひと時を応援するために、船員司牧(AOS)が必要なのです。そして、離れ離れで生活せざるを得ない船員とその家族のために、サポートし、祈る必要があるのです。

 厳しい環境の中で働いている船員たちのために祈ってください。かれらが私たちの生活を根底で支えていることに感謝し、彼らの航海の安全と家族の幸せをに祈ってください。そして、関心のあるかたは、当委員会またはAOS(Apostleship Of the Sea)に連絡をとって、一緒に活動に参加してください。


2007年7月8日
日本カトリック難民移住移動者委員会
委員長 谷 大二(さいたま司教)

====引用終了====


【コメント】

 私たちの生活物資、大自然、命、平和など私たちの存在そのものまで全ては唯一の天主に依存し頼っている。そればかりではない、私たちの超自然の命、超自然の祝福と聖寵は、私たちの主イエズス・キリストによりイエズス・キリストを通して来る。真の天主は肉体を取って人間となり私たちのうちに住まわれた。「そうだ、私たちは、そのみちあふれるところから、恩寵に次ぐ恩寵をうけた。なぜなら、律法はモイゼを通じて与えられたが、恩寵と真理とは、イエズス・キリストによって私たちの上に来たからである。」(ヨハネ1章)

「私にとどまっていて、私もまた彼のうちにいるなら、その人は多くの実を結ぶ。なぜなら、私がいないと、あなたたちにはなに一つできないからである。私にとどまらない人は、枝のように外に投げすてられて、枯れはててしまい、人々にひろい集められて、火に投げいれられ、焼かれてしまう。」(ヨハネ15章)

「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエズス・キリストを知ることであります。」(ヨハネ17章)

 真のインターナショナル(国際的)とは、真理において一つとなること、一致することだ。全宇宙を創りそれを保ち給う天主の御子が、人間とその社会問題を解決するために人間となって、ある意味で「国籍の区別のない」聖なるカトリック教会を創った。そこで罪を赦された人々が、全世界どこででも一つの信仰を持ち、一つの言葉を話し、天主にまで到達することができるように。王であるイエズス・キリストがその角石(おやいし)となり基礎をおいた。

 カトリック教会こそ人類が知る唯一の完璧な国際社会組織だ。何故なら、復活して聖父の右に座し給う私たちの主イエズス・キリストが、ご自分の設立した新統治に、天の王の玉座から聖霊を送り給うたからだ。バベルの塔の建設時に受けた天罰と反対のことが起こった。イエズス・キリストの教会は「天主が設計し、建造される、たしかな基礎をもっていた」。「かれは、主なる天主によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家をおさめ、その国は終ることがありません」(ルカ)天主の御子は、人となり、人類社会の問題を解決するために真の平和のための理想社会(ユートピア)を創った。今から2007年前に真の意味での「新世界秩序」を創った。それが聖ペトロの船であり、新約の第二の「ノエの方舟」であり、母にして聖なるカトリック教会だ。

 ところが、谷大二司教様は、私たちの主イエズス・キリストのことに心を配らない。谷大二司教様の船は、ペトロの船ではない。何故ならその船の中には、イエズス・キリストの名前も、その贖いの道具である十字架も見あたらないからだ。谷司教様の船には七福神が乗り、宝と書かれた俵だけが積まれているからだ。谷司教様は、いったいどんな「神」に祈るというのだろうか? 谷司教様の信じる「神」は、神仏習合的な神々であり、司教様は、インドや中国の神々が日本の神々と一緒になったこの世の(文化の??)豊かさを信じておられる。これは私たちの主イエズス・キリストが私たちに教えて下さった信仰でも聖福音でもない。

「彼らは、私があなたから出たものであることをほんとうに認め、あなたが私をおつかわしになったことも信じました。その彼らのために、私は祈ります。この祈りはこの世のためではなくて、あなたがくださった人々のためであります。かれらはあなたのものです。・・・正しい父よ、この世はあなたを知りませんが、私はあなたを知り、この人たちも、あなたが私をお遣わしになったことを知るに至りました。あなたが私を愛してくださったその愛が、彼らにもあるように。」(ヨハネ17章)


聖ピオ十世はこう言う。
カトリックの教えに従えば、愛徳の第一の義務とは、誤った考えをそれがたとえそれがいかに誠実な心から出たものであったにせよ、容認することでもなく、あるいは私たちの兄弟が陥っている誤謬や悪徳に対する理論上のもしくは実際上の無関心にあるのでもありません愛徳の第一の義務とは、それと反対に兄弟の物質的福利と共に、その知的、道徳的な改善を図る熱意に存するのです。カトリックの教理はさらに、隣人に対する愛は、全ての者の父であり人類家族の目的である天主への愛にその源を有していること、またその愛(隣人愛)は私たちがその肢体であるところのイエズス・キリストのうちに存しており、他人にすることはイエズス・キリストご自身にすることに他ならないことを教えています。これ以外の他のいかなる種類の愛も全くの幻想であり、不毛で儚いものです。

「そして今、尊敬する兄弟たちよ、深い悲しみに沈んだ心で私は、シヨンのカトリック主義はどうなってしまったのだろうかと自問します。嗚呼、以前は非常に明るい期待を抱かせてくれたこの組織、活き活きとして勢いがみなぎっていたこの流れは、現代における教会の敵どもによって利用されてしまいました。今やあらゆる国々で企てられつつある世界統一宗教を打ち立てるために、ある大きな棄教的運動の中のあわれな一支流と化してしまいました。そしてこの世界統一宗教とは、いかなる教義、位階制も持ち合わせず、精神の規律も無く、情念に歯止めをかけるものも無く、自由と人間の尊厳の名のもとに(もしもそのような「教会」が立ち行ってゆけるならば)合法化された狡知と力の支配[する状態]ならびに弱者および労苦するものらの圧迫を世界にもたらしてしまうでしょう。」

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ルフェーブル大司教著
『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』

第一章
■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味
■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?
■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。
■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか
■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか
■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?

第二章
■ 本来の意味での「信教の自由」:人間人格の尊厳は、真理を考慮に入れない自由には存しない。
■ 19世紀の教皇たちはこぞって、いわゆる「良心と諸信教の自由」を排斥した
■ 諸教皇は、何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?
■ 信教の自由とその新たな「根拠」:およびそれへの反駁
■ 真理探求の自由は宗教的自由の根拠となり得るか
■ 宗教無差別主義について確認しておくべき点
■ 信教の自由は人間人格の基本的権利なのか、歴代の教皇様は何と言っているか?
■ 聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非 (つづき)
■ 世俗の共通善、カトリック宗教とその他の諸宗教
■ 真の宗教に対して国家が取るべき奉仕の役割
■ 教会と国家との関係
■ 宗教的寛容
■ 宗教的寛容についての結論

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31 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
信じられない! (ステラマリス)
2007-07-11 02:44:56
 この司教様が司教として政治運動をされることについての批判は多いですが、ミサ(典礼)に対して、どう向き合っておられるのかも疑問に感じています。
 与った10回ほどのごミサのうち、お説教でクイズをされたことがほとんど。助祭叙階式においてさえ・・・です。また、仏教の明恵上人や一遍上人の話を何回聴かされた事でしょう。イエズス・キリストではなく・・・
 一信徒が世間話をするのではなく、一司祭でもなく、公会議に出席できる尊敬されるべき司教様が、教会の公の最高の典礼であるミサで何を語るべきなのか、熟慮されるべきだと思います。
 しかし、この、お若い司教様に遠慮して誰も苦言を呈さないためか、彼の価値観は正当化されたままです。
 
 「船員の日」なら、船路を示す海の星、マリア様の御保護を願う方が多いでしょうに…異教の神々ですか。

 近日中、またお目にかかります。一日何十分間、神様のことだけ(祈り・黙想)に時間をささげておられるのか、お聞きしたい気持ちです。向いておられる方向性が問題ですね。
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つぶそう悪徳司教 (伝統防衛大臣)
2007-07-11 10:31:35
歴史上悪徳司教は少なくないが、これは史上まれにみる悪徳司教である。

愛人や少年と姦通するのはスキャンダルになるのに仏教や七福神と姦通するのはスキャンダルにならないとでもいうのか。

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(++) (/)
2007-07-11 10:40:50
共産主義過激派などの無神論者と姦通する司教もおられるのですから、なんでもありなのでしょう。
このポスターは一司教の責任問題ではすみません。
日本のカトリック中央協議会の組織として作ったものなのですから。
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美しく品位ある日本語を使いましょう! (Unknown)
2007-07-11 16:00:46
 美しく荘厳で品位ある典礼を愛される方なら、美しく品位ある日本語を選びましょう! 姦通などという単語を、十戒の引用以外で使わないでください
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Unknown (キリストの「キ」の字もない説教)
2007-07-11 19:36:35
>仏教の明恵上人や一遍上人の話

こういう話なら、カトリック司教ではなくお坊さんに聞いた方がいいと思うのですがねぇ…

野菜を買いに八百屋に行って、無理に肉を買わせられたようなものか。
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それが悪いと知っている?!?! (AFOX)
2007-07-12 22:36:13
>「カトリック教会なのに神々のポスターを作るとは何事だ」

わかっているながらなんでやるのかな????
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/ ((++))
2007-07-12 23:06:07
谷さんは司教の肩書きを返上し、明日から背教の肩書きを使ってください。
谷背教。
大をつけてもいいかもしれません。
谷大背教。
この人にはもう様なんてつけません。だってこうした形で自分は三位一体の神を信じていないと公言している人物ですから。
司教以前にカトリック信者ですらない。
この人は叙階式でほんとうにカトリック司祭を叙階したいという意向をもっているのでしょうか。それ以前にほんとうに聖変化をしようという意向をもってミサをしているのでしょうか。告解の秘蹟はどうでしょうか。
このポスターによってひきおこされる躓きを前にしては、リベラルがルフェーブル大司教が引き起こしたとレッテルをはる離教行為すらかすんで見えるのですが。
ピオ10世会に対してなされるレッテル貼りに対していろいろ迷っていましたが、今こそ教会の敵がはっきりわかりました。
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罪を憎んで人はゆるしましょう。 (AFOX)
2007-07-12 23:21:21
聖伝ミサを立てなければならない時は近いです。
そのとき彼の心に良心の呵責が起こるはずです。
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やっぱり、おかしい・・・!!! (ステラマリス)
2007-07-13 17:03:47
 船員の日(7/8)には、全く気づかなかったこのポスター、今日のミサ後、見つけました。教会入り口正面、谷司教様のお写真の真下に貼ってありました。
 ポスターの面積2/3が、異教の神々の絵と名前、ご丁寧にも、真ん中の赤い文字はアルファベットで神々の名前が書いてあります。
 船の絵が淡いトーンなので、かえって、中央の青い文字2行が目立ちます。その、主語・述部を取り出すと、「七福神は、船員のシンボル」となります。冗談じゃありません

 こういう絵って、子どもが、じっと見ますね。「この人だれ?」と訊かれたら、私は困ります。(しつこいですが)もし船の帆先に小さな十字架があり、その上にが輝いていて、STELLA MARIS とあれば、「これは、海の星でね、マリア様のお名前なのよ。マリア様はね、・・・」と説明しますが・・・。

 諸宗教の神学は、キリスト教(カトリックの教え)を相対化し、民間信心・迷信やご利益宗教と同じレベルに引きずり下ろそうとするのが、私は耐えられないです。
 
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元はと言えば (侍者2)
2007-07-13 23:35:26
教会のトップが率先してアッシジの諸宗教会議なんかを開催したからです。

【質問】教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのでしょうか?・・・ 続き
http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/864e0a32a9a2a36c8391140a97b033c7

アシジは「ニュー・エイジの始まり」(ヨハネ・パウロ二世)
http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/c7888f4ad062844fca12a45a755236e2

ダブルスタンダード?! 聖伝主義に対する態度とエキュメニズム
http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/f62fcf848ec2f006249a4c24afc972c1
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