瀬崎祐の本棚

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詩集「しのばず」 青木由弥子 (2020/10) 土曜美術社出版販売

2020-11-27 20:03:38 | 詩集
第3詩集。矩形の判型で101頁に25編を収める。

 「坑道」。本に残された言葉を頼りにして、どこか暗く深いところへ降りていこうとしている。その先に続く坑道を歩み、話者は風化して壁に埋めこまれて残されていた過去と向きあう。

   地図だけを残して消えた男 右の壁には私を抱いている腕 左
   の壁には荷造りをする後姿 噛み砕くと舌の上で溶け わずか
   な苦みがのどを降りる これでもう あなたを探さなくていい

あなたを見失った私はこの坑道の底からどこへ行くことができるのだろうか。最終連はただ1行、「天井の剥落が始まった 私は静かに息をしている」

 「あとがき」には「大切な人、大事な人との、出会いと別れ」があったとあるが、この作品を始めとして喪失を感じるものが少なくない。しかし、「立ち去った者は行き過ぎたのではない、呼びかけるものとして戻ってくる」とする作者の気持ちがその喪失感を埋めようとしている。
 詩集の表題作「しのばず」には、今生の息が風にとけたあなたとの印象的な会話の部分がある。

   --遅かったでしょうか
   --いや、これからだよ

 立ち去ったものをもう一度自分の中に蘇らせて、新しく始まるものがあるのだ。

 「白く、ゆれる」は、もう今はいなくなった人が名前を教えてくれたハンカチの木を見ている。話者は、名前の由来にもなった白く大きな苞をひろい、

   手にしていた本にはさんで押し花にしました。
   --この本はいいね。
   (そうでしょう、向こうに抜けていく沈黙がある)

 それは静かな明るさを伝えてくる白さだったのだろう。押し花になった苞葉は「宛先のない手紙として/風にゆだね」られるのだ。こうして、作者は失ったものをそのまま受け止めてどこかへ言葉を届けようとしている。
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「59」 22号 (2020/11) 北海道

2020-11-24 18:39:39 | ローマ字で始まる詩誌
1959年生まれの3人が集まっている詩誌。24頁で、それぞれが詩1編と論考やエッセイなどを書いている。

金井雄二は「菅原克己が「死の灰詩集」論争で得たもの」を書いている。当時、この詩集については賛否両方の意見があったようだが、鮎川信夫はかなり鋭い批判の文章を発表している。その論に対して菅原克己は強く反発したのだ。しかし金井は、「菅原は鮎川の意見に、真実を見てしまったのではないだろうか?」と推測している。これまでも金井は菅原克己論を書いてきているが、この論考も菅原克己を親身になって捉えようとしていることがよく判るものだった。

「大学」伊藤芳博は、下宿の階段を上がるときに「タタタタタッ」と追い越されたというもの。そしてその頃の大学では「それまでの自分と/それからの言葉が/螺旋の段々を追い越したり/追い越されたり」していたのだ。最終連では、追い越したり追い越されたりした「タ」が言葉に染みついている。

   欠けタところには
   いろいろなヤツがやっタきて
   ときには(タが
   自分やこタばを
   信じないでよい日もあタッ

訳の分からないユーモアがあり、楽しい作品。

その伊藤の連載「詩を読む21」では新保啓の詩集「朝の行方」からの作品が紹介されていた。寡聞にしてこれまで新保啓の作品は知らなかったのだが、こんなに好い詩を書く人がいたのだと教えられた。感謝。

岩木誠一郎のエッセイ「最後の一曲」は、人生の最後に何を聴きたいかというもの。ロック好きの岩木はある曲を挙げていたのだが、困ったことに、「その曲を聴きながら人生の終わりを迎えたいと言ったことが自分に暗示をかけ、その曲を聴いている内に死ぬのではないかという強迫観念にとらわれ」て、その曲を聴くことができなくなったという。オチの付いた見事な結びは、

   このことを教訓として「人生の最後に読みたい一編の詩」については、絶対に決めないで
   おこうと思う。

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詩集「ゆめみる手控」 岩佐なを (2020/10) 思潮社

2020-11-21 10:43:26 | 詩集
 92頁に70編。作者の版画が、表紙カバーには多色で、本文には16葉がモノクロで載っている。
 作品タイトルはすべて二文字で、目次にはそのタイトルが矩形にびっしりと印字されている。なかには意味のとりにくいものもあるのだが、実はこれは作品の冒頭の二文字を切り取ったもの。たとえば「する」という作品の1行目は「するめ噛んでみせ」なのだ。タイトルなんてこんなものさ、とでも言っているかのようで面白い。

 「幼少」は6行の作品。全行を引用する。

   幼少の砌よりはぐれ蜘蛛だった
   網をはって毎日くらしている
   ひっかかった訪問者は
   喰ってしまうので
   話し相手にはならない
   孤独だが贅沢は言いますまい

 すべての作品は4~10行で1頁に収まる長さとなっている。帯には「素描詩」と銘打っているが、たしかに、あるひとときに訪れた感興をさらりと書きとめたといった趣がある。この作品では自虐的な面を見せながらも、同時にどこか肩すかし感も漂わせている。

 「三歳」の前半では、直人が脱皮したぬけがらのことを老いた母が呟く。そこで、

   やや信じて出かけてみると
   五月晴れの紺碧に
   巨大鯉のぬけがらがさわさわさわさ
   群れをなして泳いでいた
   祝景

なぜ巨大鯉のぬけがらなのか、意味の取りようなどできるはずもなく、そんなことを必要とする作品ではないが、とにかく最終行の「祝景」という言葉には、ああ、なるほど、その通りだと思わされる。

 これらの作品がいつ頃書かれたのかは不明だが、今のわれわれを覆っている困難な状況下でだったのかもしれない。しかし、ここにはどこかのほほんとしているような図太さある。強さが感じられるといってもいいだろう。そんな作品を書くことによって己の均衡を保っているのだろうか。
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詩集「蟻」 高岡修 (2020/09) ジャプラン

2020-11-17 17:56:15 | 詩集
 第19詩集。87頁に30編を収める。二重カバーの装幀も作者自身によっており、銀色の斑を散らした一つ目の黒いカバーが「高岡修詩集」という文字以外を覆っている。そのカバーを外すと、「蟻」という大きな文字がいっぱいにあらわれ、その文字にいくつもの小さな蟻がとりついている。大変に凝らした意匠となっている。

 作品は1行のものから40行余りのものまでと変化に富んでいるが、そのすべてが蟻を題材にしたものとなっている。「空」は4行の作品。

   蟻の巣穴の入口に
   引きずり込もうとしてできなかった空が
   丸く小さく
   引っかかっている

 機知に富んだ作品で、小さな蟻の巣穴の入口と、その上に拡がる無限大の空を対比させている。巣穴の中から見上げた空は入口の大きさしかないわけで、入りきらなかった空がそこで引っかかっていると捉えた視点には、道理を越えた意欲のようなものがあるのだろうか。

 「命題」では、「寂寥の質量を計測しつづけること」が蟻たちの責務だとする。そしてただ一つの命題は、

   生涯にわたって巣穴から出ることのない蟻たちの寂寥の質量と
   地表で殺された蟻たちの悲哀の質量が
   どう釣り合うか
   である

 ここに留まれば寂寥はどんどんと深いものになっていくのだろう。そしてここから出かけることは、悲哀でしかない死の危険と引き替えであることを覚悟しなければならない。多数の生命はいずれその両者で釣り合うとしても、自らのただ一つの生命はそのどちらに与すればよいのだろうか。そんな風に踏み潰されて裂けた蟻の脳凾からは「漆黒の氷河が流れ出ている」のだ。(「舗道の上で」より)

 作者は、前詩集では収めた作品のすべてで胎児を題材にして、さまざまなアプローチをおこなっていた。今回の詩集では蟻を題材にして、哲学的とも言えるような普遍的なものを引き出そうとしているのだった。
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詩集「幻力」 一色真理 (2020/10) モノクローム・プロジェクト

2020-11-13 21:43:08 | 詩集
 第11詩集。100頁に24編を収める。
 作者の作品のざっくりとした感想といえば、悪夢のような、ということになるのだろう。しかし、ここにある作品が異様なほどに気味が悪いのは(褒め言葉です、念のため)、悪夢となる事柄をもたらしている理由があるからだ。悪夢にはそれを観る理由もあるわけで、それが実は気味が悪いことなのだ。これまでの作品でも重要のモチーフとなっていた父母は、通奏低音のように横たわっている。母は浴槽や池で溺れて死に、「ぼくは父を殺して、便器の水に沈め」るのだ。

「鱗」、「黒子」は詩誌に発表されたときから大変に印象に残る作品だった。体に鱗が生えているきみ、そして顔全体(いや、体全体か)が黒子である黒子。なぜ、そのような体の一部に目に見える異常が発生したのかは判らないままに、そのために世間とは馴染めず、疎外もされている。もちろん、話者自身もそうなのだ。「鱗」では、

   とうとう最後の鱗を失ったとき、いつのまにかぼくは鱗がなくても
   生きていける者に、自分が変わってしまったことに気づいた。

   おれが「父親になる」ということだと、ぼくも遠い昔に父親から告
   げられたことがあった。

作者のこれまでの父親が登場する作品と読み合わせるとき、鱗が生えていること、それを失うことが血脈と絡みあいながら迫ってくる。

 詩集の終わり近くに「河野くん」が登場してくる作品が3編ある。ボーイズ・ラブの衣装を纏った官能的な作品なのだが、そこでは少し捻れた感情が不安定に揺れている。ぼくは河野くんに憧れたりしていて、二人はそっくりなのに「鏡に写したように/何もかも反対」なのだ。もしかすれば、河野くんは話者に寄りそうもう一人の自分なのかもしれない。河野くんがなにかを引きうけてくれていることによって、ぼくがここに立っていられるのかもしれない。

   どっと子どもたちの歓声が上がった。泣き腫らした片目が、白黒の
   夜空にころがっている。二つに引き裂かれ、河野くんに見捨てられ
   た半分だけの野苺みたいに。
                         (「野苺」終連)

表紙カバーには「幻力」という詩集を見上げている目が描かれている。そしてカバーを捲ると、その詩集は青空の遙か高みへ遠ざかっているのだ。作者もこの詩集の作品を自分の手の届かないところへ放したのだろう。
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