瀬崎祐の本棚

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左庭  21号  (2011/12)  京都

2011-12-31 01:06:08 | 「さ行」で始まる詩誌
 「薔薇園にて(Ⅱ)」山口賀代子。
 薔薇園の薔薇の根元に埋めたもの、それは「おもいだしたくないこと」。それは、恥や酷い仕打ちや欺瞞だったらしいのだ。でも、もう埋めてしまったからわたしはそんなことは覚えていないのだ。埋めてしまえばわたしは忘れたことにできるのだ。埋めるという行為はそのためにある。

   いくつかのできごとをわたしは忘れている
   あるいはなまなましく記憶している
    なまなましい記憶はいずれ薔薇の養分として吸収され
    花咲かせるだろう

 たとえ記憶していても、埋められてしまったからには、記憶はもうわたしの中では記憶ではないのだ。私はこれで決着をつけるつもりでいたのだが、この作品の面白さはその先にある。

   かりに忘れられてしまったはずのものたちが
   どこかで
   記憶をおもいださせようと企んでいるのだとしたら
   陰蔽されたことを恨んでいるのだとしたら
   たとえそれが誰かの悪意であっても
   掘りおこされ おもいだされることを待っているのだとしたら

 ここで意志を持ったのはわたしではなく、埋められたものたちだ。埋められたものたちはわたしから切り離されたがゆえに、もういくらわたしが忘れたふりをしても、薔薇園で息をひそめて蘇るときを待っているのだろう。
 もちろん薔薇園はわたしの中にあるのだろうし、わたしはいつまでも薔薇園を見まわらなければならないわけだ。わだかまっている気持ちの有り様が巧みなイメージで構築されている。
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詩集「雪物語」  田中郁子  (2011/09)  思潮社

2011-12-27 22:19:56 | 詩集
 第7詩集。94頁に26編を収める。
 ”ノドの地”はカインが追放された土地の名だという。同名の作品は「山と山に囲まれた辺境」での作品。話者はそこで「限りない労役」をおこなうのだが、気づけばそこは「地の果て」だったのだ。土地にこだわらざるを得ない気持ちが我が身を地の果てにたどりつかせている。
 集中には「萌える草木」や「蝉の中の一本の樹」などのように、その土地で潰える命を見据えた作品がある。腹をすえた強さも感じられる。

   誰かの声が聞こえる
   さあ おまえも燃えておしまい実をとる人間もいない
   よろこんでもいいのだ
   めらめらと燃えておしまい稲田にお前の影はいらない
                            (「萌える草木」より)

 燃えていく樹に自己の姿を投影しているわけだが、それらと対を成すようにここに至る命をなつかしむ作品もある。たとえば「萩の家」では、虫干しのために萩の花がやってくる話。そしてタンスの引き出しを開けるとわたしを呼ぶ声がするのだ。そこにはわたしが生まれて百日目にかぶった帽子があるのだった。

   けれども知りませんでした
   帽子がこんなに年月を保存するなんて
   いつの間にかわたしを脱ぐなんて
   また 呼ばれているような気がしてふりむくと
   若い母親が買ったばかりの帽子を着せたわたしを抱いて
   オイデオイデをさせているのでした
   それはバイバイだったのかも知れません
                             (最終部分)

 ここでは誕生と死が裏表に寄り添っている。今まで生きてきたからこそ、オイデオイデとバイバイが同じ身振りであることがわかるのだろう。
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鶺鴒通信  μ冬号  (2011/12)  東京

2011-12-24 14:20:28 | 「さ行」で始まる詩誌
 財部鳥子の個人誌。小さな18頁の詩誌だが、自身の作品に加えて、ゲスト2人の詩、1人の俳句、1人のエッセイが載っていて内容は厚い。

 「聲」松岡政則。
 「生石(いきいし)。/ウマノスズクサ。」と呟くような2行ではじまる。作者の肉体がよばれているわけだ。しかし、次の1行でつまずいた。「あるくのなしうること、なりうるもの。」これは何だ? 続く行は、「聲にはいろんなものが雑じっている。」
 ”歩く”ではもちろんないだろうし、と考えていて、思い当たった、”或る句”の意だろう。発語した言葉が話者に跳ね返ってくる。しかしまた、発語しなかった言葉も話者に跳ね返ってくるのだろう。そんなことも全部ひっくるめたうえで、聲がその人なのだろう。

   イイタイコトとは別のことを口にしてきた。
   やましい喉をつづけてきた。
   聲はからだなのか、
   こころなのか。
   自分のどこが耻かしいのかわからないのは耻かしい。

 松岡の最新詩集は「ちかしい喉」だった。ああ、そうか、と思った。松岡にとって”喉”は”聲”を発する規管であり、その”聲”で納得のいく”句”を発することが出来ないままに生きてきたのだな、だから作者は「あやまりたい。」のだな、と思えた。
 そして、最後の1行で打ちのめされる。なんという鋭い1行だ。

   わたしの聲は犬を飼ったことがない。
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狼  19号  (2011/11)  神奈川

2011-12-22 22:58:03 | 「あ行」で始まる詩誌
 「月光についての曖昧で扇情的な覚え書き」加藤思何理。
 生まれた女児が少女になったら、柘榴の樹の根元に樽を結びつける。すると、柘榴に射した月の光が樽の中に溜まるという。
 幻想的な絵画を想わせる魅力的な場面である。ここで秀逸なのは、月の光という形をとらないものにまるで水のような形状的性格を与えているところ。そしてそれがなんの違和感もなく作品の中で提示されているところ。
 甕の中で月光は発酵して酒となる。その酒を飲んで「冬眠するようにゆっくりと優しい睡りに落ち」た少女の肉体の随所に、この発酵した月の光を摺り込む。すると、

   夜空の月が育つとともに少女の腹がゆるやかに膨らんでくる。その腹を絹と麻
   で交互に包んで愛でるように撫でてゆく。月がひときわ大きな満月になる頃、
   睡りつづける少女の丸丸と実った腹から、少女にそっくりの小さな少女が生ま
   れてくるだろう。だがその少女は少女ではない。すなわちそれは人間ではなく、
   たとえ眼を瞠き指先を動かしたとしても、少女のかたちをしたひとつの神聖な
   食べ物なのだ。

 特別な手続きを経て生成された神聖なものを肉体に融合させ、人以上のものを孕むという行為は、人が変容するためには不可欠の手順であるだろう。汚されていない少女という媒体も不可欠であるだろう。
 こうして静かに干されたその食べ物を噛みしめたとき、、月の光が溢れてくるのだろうか。すさまじいイメージを形づくった作品である。
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すてむ  51号  (2011/11)  東京

2011-12-20 19:20:36 | 「さ行」で始まる詩誌
 「首がにゅーっと」長嶋南子。
 夜ごとに子どもの首が長くなるのをみて、わたしも首にコルセットをつけて首を長くする。お前だけをそんな目には遭わせないと、それが母親の愛情というものなのだろう。
 でも、伸びてしまった首はどことなく締まりがないのだろうか、話者は伸びてしまったスカートのゴムひもを思いだしている、それを入れ替えてくれた母を思いだしている。あれも母親の愛情だったのだろう。
 子どもは、二階の部屋にいたままでおにぎりを食べようとして首を伸ばした。空腹だけれども部屋から出ようとはしなかったのだろう。そして、母がスカートのゴムひもを入れ替えてくれていた部屋で、おかっぱ頭のわたしの前のちゃぶ台にもおにぎりが乗っていた。おにぎりは、母から子どもへ与えられるものだったのだろう。

   ずっと夢のなかにいる
   いつになったら
   わたしは目覚めるのでしょう
   長くなった首は
   伸びきったゴムひもは
   どうにかなるものではありません
                      (最終連)

 どうにもならないことを知っているからには、話者は、もう目覚めることはない世界にいるのだろう。もうこれからは長くなった首で生きていく世界にいるのだろう。この作品を書いたからには、そうなのだろう。
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