瀬崎祐の本棚

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詩誌「ERA」 Ⅲ-18号 (2022/04) 埼玉

2022-04-30 20:53:20 | 詩集
全国から参集している同人は30名。80頁。

「観覧車」草野早苗。話者は観覧車に乗ると「生きている時間の上り坂と/ある時からの下り坂を」思うという。これにはなるほどと思わされた。話者はハスキー犬に似た男友達を呼び出して一緒に観覧車に乗っている。彼は「水色の瞳で外を見て」いて、最終部分は、

   私も人の生きていく道のりを思いながら
   港の灯や暮れゆく低い山々の輪郭を見ている
   男友達は光の角度で
   犬に似た人であったり
   人に似たハスキー犬であったりする

観覧車が一回りする間にゴンドラの中で過ぎていく時間は、長い人生から切り取られた特別なひとときなのかもしれない。

「旋律」北原千代。月浴みの浴槽はいつしかみずうみのうえの小舟になる。そしてオルガンが鳴り、湖底の泥がまさぐられる。この作品の最終部分は、

   わたしたちは彷徨いやまぬ古代湖だった
   定められた位置をさがして
   肥沃の地を割りすすむ旋律だった

月の光、静かに横たわる湖、オルガンの音色。それらが作り出している幽玄な世界の中で、話者は今ここでの現世の存在から浮き上がっていく。「古代湖」という言葉が効いている。わたしたちが湖であり旋律であるという認識は時空を超えていくのだろう。

「反響、ともにあるひまわりの試練」吉野令子。極限状態での生きることが描かれている。時に反芻されるその言葉は重く、苦しげである。一語一語を力を振り絞るように発語しているようだ。

   つれだって生きてゆくのだという深い思い 連れだって生
   きてゆくのだという深い思い いまわたくしたちは 横に並
   んで歩こうよと語りかけるあなたからの言葉の束を握る手にし
   っかりと力をこめている

作品には反戦のメッセージなどの政治的な言葉は全くない。しかし註にはタイトルの”ひまわり”は同名映画によるものであることが記されている。あの哀愁に満ちた旋律とともに画面いっぱいに映されたひまわり畑はウクライナでのロケだった。作者の思いはこの地で起きていることに在ったのだ。

私は今号には「亡失の人」を発表した。これは詩誌「交野が原」に発表した「遺失物係り」と対をなす作品。新型コロナの感染状況は高止まりではあるが重症例は顕著に減少している。今号の合評会が対面で行えることを祈念している。
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詩集「DEATHか裸(ら)」 福田拓也 (2022/03) コトニ社

2022-04-26 18:39:42 | 詩集
149頁に32編を載せる。巻末に穂坂和志の解説がある。

「ハウスダスト」。半島の街や新疆ウイグルを猥雑にさまよい、話者は今は核汚染の首都圏で「死体のように生きている」。

   その人と
   合体した空の風
   となり
   奇妙な体となってぼくたちは
   風景よりも大きく
   ふくれあがる

”合体”と言われても、通常のような男女の性的な営みは想起されずに、文字通りに融合した肉体という異形のものが立ち上がってくる。これは他には類をみない暴走のホラー詩なのだが、それを現出させることによって対峙しようとしている世界があるわけだ。ぼくたちは「複数の絡み合った/奇妙な肉体」として進もうとしている。

いくつかの作品では、詩集タイトルにも見られるような当て字が乱舞もする。たとえば「死の声」では、「子割れた火等と死手/火等玉として/慕苦は都内をサ魔酔う」と書かれて、ルビを追えばその読みは「こわれたひととして/ひとだまとして/ぼくはとないをさまよう」となる。ここには、読みとして伝えてくる言葉の意味と、見るものとして伝えてくる文字の意味とが、重なりあって提示されている。

「鏡山」。ぼくが歩いている鏡山では、絶えず変化して見えるさまざまな顔はぼくの顔が無限に反映されているだけなのだ。そこにいるぼくは、他者のぼくにかこまれているのだろうか。そして聞こえてくる声はわからない言葉で語っているようなのだ。「沈黙そのもの」のぼくなのだが、「ささやきによってぼくは語られそしてぼくは生まれる」のだ。

   (略)
   いくつかの星座が
   ぼくの身体に刻された文字を形作るが
   その文字群は
   どこの言語にもない文字であり
   しかも絶えず消え去っては
   また変貌して現われる
   決して完結しない星座

見えるもの、聞こえるもの、溢れるほどのそれらに囲まれていながらすべてが自分を疎外しているような感覚がここにはある。一つ前の作品「草、草、草!」でも、大学の講師控え室に向かった話者は「誰かの肉体を借りているだけ」の存在のものとして「無数の断片的なイメージ」になっていた。拠るべきものを求めて彷徨っている話者の姿が強く伝わってくる。

表紙カバーには作品の一部などが型押しであしらわれ、裏カバーには解説の一部が一面に印字されている。溢れるような言葉が圧倒的な勢いで迫ってくる詩集であった。
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詩集「生の練習」 前田利夫 (2022/04) モノクローム・プロジェクト

2022-04-22 18:35:49 | 詩集
第2詩集。109頁に22編を収める。

「朝」には、今日もこれから始まる生を感じる幻影が端正に描かれている。遠くの水仙が呼吸をしているあわが水の中をのぼっていき、赤い空が野一面をおおっているのは「世界が/こころやさしい人の/手を放した」からだろうと思えるのだ。

   脂ぎった手で窓をあけると
   言葉の破片が流れていく
   それは やがてローム層のように
   誰も知らない遠くで
   積もっていくのだろう

詩は、気持ちの奥にあったものを言葉にして取り出そうとするものだと思うのだが、本詩集の作品ではそれが大変に素直におこなわれている。寓話のような設定で展開される作品もあるのだが、その寓意も飾り物ではなく、こういう表現でしか気持ちが表せないといった素直さが感じられる。

「中二階」では、その窓を外から眺めている私と、その部屋の窓辺で私がやってくるのを待っている私が登場する。どちらが本当の私でどちらが私の妄想の私なのか。主体の在り様が溶けあう作品だった。(私事になるが、私(瀬崎)も「泳ぐ男」という似たような構造の作品を書いたことがある)

「蒼い思考」は6章からなる作品。夜の公園のベンチ、雨のなかの塔、亡くなった父の羽毛ふとん、などが私の脳裏に絡みつくようにあらわれてきている。そのあらわれるものの脈絡の無さと、それなのにどこかを引きずるような繋がり具合が面白い。

   たびたび その部屋にある
   漆塗りの仏弾に線香をあげると
   父がすぐうしろに座っている感覚が
   からだ一面にひろがり
   ほそい芯で灯っている胸に
   父の視線が突き刺さってくる
   夕暮れのような視線
   心拍が激しく血液を流れて
   私のからだは 殻におおわれた

これらを繋げているのは、作者がこれまで生きてきた日々から生じた言葉であるだろう。他の人には語れなかった唯一の物語がここに生まれてきているわけだ。だから作品最後は、「私は寝返りをうった// 白い羽毛ふとんのなかで」。

作品は3部に分けられているのだが、Ⅲでは寓意がとりはらわれて作者がそのまま話者となってあらわれてきていた。やはり潔く素直な作者だった。それは強さから来ているのだろう。
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詩誌「潮流詩派」 269号  (2022/04)  東京

2022-04-15 20:13:40 | 「た行」で始まる詩誌
67年間を季刊で発行されている凄い詩誌。故・村田正夫の意志を継いで、今は麻生直子が編集発行人となっている。79頁。

特集1は「とら」で、それにちなんだ15人の作品が並ぶ。
「橋の三人」水島英己。古希をすぎた話者は、歩道橋の上からの車列を眺め、自分はまだどこかへ行くことができるのだろうかと自問しているようだ。それがかないそうにもないことの自覚は、鬱屈した思いとしてあるようだ。だから、中国で修行を積んだ三人の老人たちの逸話に惹かれている。彗遠は、友との語らいに自らに課した禁を失念させるほどに熱中できたのだ。そんなものが今の自分に残っているだろうか、との自問があるのだろう。

   心中の虎はとっくに死んでしまったが
   「臆病な自尊心」や「尊大な羞恥心」がまだ疼くこともある
   そんなとき、机上の写真立ての中の
   蕭白筆の「虎渓三笑図屏風」の三人の笑いに
   しばらく耳を傾ける

私(瀬崎)自身も身につまされる思いが伝わってくる。

「それなりの、マスコット」長瀬一夫は特集からは離れた作品。近くにチェーンのドラッグストアができたりしながらも店を続けている古い薬局が描かれている。店の入り口のシャッターの外には「トイレットペーパーが行儀よく並」べられているのだ。どんどん変化していく街の賑わいからは取りのこされそうな店なのだろうが、それでも毎朝、トイレットペーパーは並べられる。

    雨の日は、ちょっとだけ入り口に寄せ、
   トイレットペーパーは、
   マスコットのように、行儀よく並んでいる。

飄々とした詩いぶりの作品で、それにふさわしいどこか飄々とした薬局の店構えが浮かんでくる。話者も薬が必要になったときはこちらの薬局で買っているのだろう。

特集の2は「追悼・高良留美子」で、生前の写真、麻生直子選の作品抄が載っている。
長く親交のあった麻生の追悼文「高良留美子さんを想う」はその人柄や業績をよく伝えてくれるものだった。日本詩人クラブ主宰でおこなわれたタゴール生誕百年祭を記念したインド旅行の際のエピソードも記されていた。タゴールを我が国に紹介したのが高良留美子氏の母・高良とみ氏であることを、私(瀬崎)はその旅行に参加するまで知らなかった。とても学ぶことの多かった旅であったことを懐かしく思いだした。
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詩誌「地上十センチ」 28号  (2022/01)  東京 

2022-04-12 22:21:04 | 「た行」で始まる詩誌
和田まさ子の個人誌。毎号の表紙を飾るフィリップ・ジョルダーノの絵も楽しい。

今号のゲスト、平田俊子の「落合」。
落合で人と会う約束をしたという話者。あっけなく亡くなったKが住んでいたのが落合であり、U子叔母さんの葬儀をしたのも落合だったというようなことを話者は思いだす。しかし、すぐに話者は「Kという友人などいない/熱のせいで夢をみたのだ」と言い、棺の中で笑ってた「U子という叔母など」もいないと言う。それらは熱のせいで観た悪い夢だというのだが、実際には、落合という地を話者の魂だけが彷徨っているような感じでもある。最終連は、

   落合で会う約束をした
   駅で待ち合わせ
   しばらく歩いて
   斎場に向かうことになりそうだった
   待ち合わせの相手はKだ
   U子叔母さんも来るかもしれない

おそらく、もう夢ではすまない地点に話者はたどりついてしまっているのだろう。そこで話者は死者たちと再会しなければならないのだろう。

「きょうの眺め」和田まさ子。
この作品の話者も街を歩き「見る人になっている」。しかし街はどんどん変容している。そこでは街が呼吸をして生きているようなのだろう。そこを彷徨う人の時間も街角に囚われているのかもしれない。

   節分には歳の数だけ豆を食べなさい
   これだけは守っている親の言いつけ
   角を曲がれば膨張した過去が出てくると思うから
   わっと泣こうと身構えている身体
   いつも首はそれに怯えている

最終部分は「行って帰ってこないと/きょうは決めている」。話者は眺めの中に溶けていってしまうのだろうか。それが街を歩く意味だったのだろうか。
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