瀬崎祐の本棚

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詩集「二十歳できみと出会ったら」 高啓 (2020/12) 書肆山田

2021-02-28 18:25:56 | 詩集
 第6詩集。107頁に17編を収める。

 一言でいえば、骨太の物語詩ということになるだろうか。物語といっても語られる内容は己のことであって、いわばその語り口が物語的なのだ。語るべき自分を対象化して冷静に叙述している。小難しい理屈やレトリックを駆使した詩とは一線を画した、剛球一直線の詩である。そのために読み物としてすこぶる面白いものになっている。

 表題作「二十歳のきみに出会ったら」は、未だ幼い(おそらくは孫なのだろう)”きみ”に話しかけている作品。六つのきみと出会ったらこんなことをするだろう、十のきみと出会ったらあんな事をするだろう、とやさしく言葉が続く。やがて”きみ”は話者が出会う女性そのものの象徴となっていく。”きみ”は中年を過ぎ、老年となり、介護される肉体となっていく。

   おまえはおれより五十七年も遅れてこの世に生まれた
   それに少しだけおれに似てる
   おまえと恋をすることはない
   だから
   おれはもう誰とも恋することなく死んでいくだろう
   そう戯れに口ずさんでみる

 後半の5編は山形新聞の「ふるさとを詠う」という連載企画によるもの。山形の地にある飲み屋街の路地、山形大学、キャンプ場などを訪ねての作品である。若い頃に自分が関わりを持った地というのは、懐かしさと同時に、今の自分からふり返ったときには若さゆえの恥ずかしさも連れてくるようだ。言ってみれば、そんな自分を思い出させてしまう、どこかで自己嫌悪をおぼえる場所なのかもしれない。しかしそれは、その地によってそれだけ強く自己が育まれてきたということでもあるのだろう。
 「ザンゲ論」では、話者は懺悔しながらその坂を上る。最終連は、

   ザンゲ坂は死兆を湛えつつそこに在る
   けれどそれはおまえを赦す坂ではない
   ぷふぃ、
   そんなことわかっているさと嘯きながら
   ゼイゼイ ホウホウ
   この夜もまたおれはその坂をのぼる

 硬い拳が撃ちつけられてくるようなインパクトのある詩集であった。

註:この感想内容は「山形新聞」2021年2月24日発行の文化欄「郷土の本」に書いた書評を元にしている
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詩集「庭園考」 塩嵜緑 (2020/12) 書肆山田

2021-02-25 18:31:41 | 詩集
 第3詩集。100頁に22編を収める。

 短い詩句で行替えをして綴られた言葉は、息継ぎのリズムをそのままあらわしているようだ。たとえば」「マグノリアの咲く庭に」では、「貴方と午後のお茶を飲」んでいるのだが、庭の薔薇は咲きほこりの時を過ぎて、名残の花が自らが存在しことをアピールしている。そんな薔薇を見て、

   貴方は
   もう庭いっぱいに薔薇を植えているのに
   まだ足りない
   と言いながら
   新しい恋人を見つけてきては
   穴を掘る

 貴方は終わりの時を埋めるものをどこまでも捜しているのだろうか。そんな貴方の行為が愛しいような、哀しいような気持ちになってくるようだ。

 作者の思いは作品の行の移ろいとともに歩んでいる。詩行が短いのは、おそらくは発語と思いの同時性に依るのだろう。だからその短さには臨場感がある。

 「雨」。西洋紫陽花の葉を打つ真夜中の雨の音がしている。見えるものはなく、ただ聞こえることによって伝わるものもあるのだろう。

   肩をかるく
   叩かれて
   私の背のかたちを知ることがある
   そういう感じ

 とても繊細な感覚だが、理屈を超えてわかるところがある。なるほど、こういう感じか。

 花や蝶、そして幼子と、作品の題材は作者の庭でその小さい生命を躍動させる。それらと向かい合った作者の思いも小さく震えて言葉を発している詩集だった。
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詩集「数千の曉と数万の宵闇と」 伊藤浩子 (2020/10) 思潮社

2021-02-22 11:07:11 | 詩集
 125頁に27編を収める。
 3つの章に分かれているのだが、Ⅰの作品は読む者にかなりの緊張を強いてくる。立ち上がってくるものの孕んでいる緊張感が半端なものではないので、読む者もそれに対応できるだけの状態を作らなければならないのだ。それほどに作品は堅い言葉で、堅いものたちを描いている。

 たとえば「斜光」は、「〈もの〉から剥離されたことばが浮遊する、巨大なホテルのロビーに集い、戯れている。」と始まる。何かのイベントがあったようで、そのざわめきも去った後に、何が残っているのか。最終連は、

   アンビバレンツを背負った夜明けに、沈鬱な身体は重みを増し、ひ
   とつずつ部位を確かめながら復元されていく。
   孤絶には、抵抗し、従属する掟があった。
   置き去られた手紙を開封するように、それは否応なく頭上に訪れる。
   覚醒という名の祝祭、ホテルのロビーは微熱に酔う。

 他者との繋がりを受容しながらも、その場からの立ち去りも希求しているようだ。余韻から来る微熱は気怠いものなのだろう。

Ⅱでは肉体感覚が作品を支える部分もあり、他者の受容も素直なものになっている。5つの作品からなる「Series」では、「光の航路、継ぐように/名を呼ぶ/お前の声が続いている」(「dessn#1」最終連)、「わたしは/わたしに似ているあなたの名をつぶやき始める」(「dessin#2」最終連)と柔らかさが滲んでいる。

Ⅲの「部屋」は20の断章からなる作品。部屋には夕闇が迫り、また朝が訪れ、午睡のまどろみの時もある。その場所で男が夢を見たり、女が怯えたり小さく笑ったりしている。

   指先にそっと触れただけで振り向かず、また声さえかけられなかった宴を、
   北の果ての青空の元に展げている。
   柔らかな四肢を持つものたちが集う一夜に灯はなくとも明るい夕翳に(夕星
   に)この身體をあずけてみたい。
                               (「ⅴ」より)

 そんな人たちを容れた部屋は、話者自身であるのだろう。詩集タイトルでは暁の数と宵闇の数が合わないが、夥しい暁が訪れたとしてもその10倍もの闇がその後には続いているのだといった気持ちなのかもしれない。

 作品の堅さは発話する気持ちが堅いということなのだろう。温度も失っているようなその堅さに耐えた発語なのだろう。その堅さを支える覚悟が潔い詩集だった。
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「詩遊」  68号  (2021/12)  大阪

2021-02-17 17:39:17 | 「さ行」で始まる詩誌
B5版、31頁に、16人の同人が2~3篇ずつ作品を載せている。

「あの崖」林美佐子。
あなたとイチョウの並木道を歩き、その果てに在る崖を覗きこむとテレビやマネキンが投棄されていた。

   一人のテーブルで
   コーヒーがこぼれて
   テーブルの端は崖でした
   すごい崖ですね
   イヤどこにでもある崖だよ
   投棄のテレビにメロドラマが映るよ
   マネキンがしなを作るよ

どこにでも、誰にでも崖はあって、いつのまにか世間からは投棄されているわけだ。最終2行は「マネキンを私だとでもおっしゃいますか/崖の底で私はあなたを待つ」。いつもながらに林の作品には悪意が渦巻いている。それでいて少し居心地が悪いユーモア感もただよっていて、独得の肌触りの作品となっている。

「残り火」美津島チタル。
線香花火が燃えていて、座敷わらしが遊んでいるのだ。「今日、嫌なことがありました」と告げると、線香花火は落ち、座敷わらしは黙って丸くなる。最終部分、

   座敷わらしを強く抱きしめると
   ぱちんと弾けて消えてしまった
   眼を閉じると
   線香花火が瞼の裏を
   ぱちぱちぱち

他人には窺い知れない微かな気持ちの揺れを可視的に捉えている。この切なさは誰でもが共有できるのではないだろうか。

「鎌八幡」冨上芳秀。
作者が文学散歩として訪れた寺に鎌八幡があったのだ。鎌八幡は、真田幸村が榎の大木に鎌を打ちつけて勝利祈願したことから始まるという。そして今は悪縁断絶の祈願になっているとのこと。新しい出会い・ご縁を願うのではなく、今の縁から逃げたいのだ。そのために打ちつけられた「夥しい鎌は苦悶し、叫んでいる」のだ。そしてそんな鎌を打ちつけられて、

   付きまとわれ、痛めつけられ、苦しみ悶えながら、なお未練が残る
   の情念の苦悩を鎌八幡の榎は傷つきながら引き受けて立っているの
   であった。

今の生き様から逃れたいという願い、それは自分の今の存在を否定することでもある。そこまで追い詰められた者のすさまじい情念である。
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「森羅」 27号  (2021/03) 東京

2021-02-15 14:42:36 | 「さ行」で始まる詩誌
 池井昌樹が手造りで発行しているB5版の二人誌。毎号表紙には和風模様の小紙片を貼り、隔月刊を続けている。

 「大鰻」粕谷栄市。
 理想の暮らしを夢想している。それは山あいの川で毎日毎夜、鰻をとる生活だ。しかしそんなことは「何があっても、それだけのもので、とりたてて、人に語ることでない」のだ。つまるところ、

    たぶん、私には何のゆかりもないものだが、つまりは、
   どこかで死ぬために、今日も、私は、太川の舟に乗って
   いるということだ。

粕谷はこれまでの作品でもくり返し、人がこれまで生きてきたことの意味、そして、これから死んでいくことの意味を書いてきている。そのことを、それこそ真剣に考え続けている。

 「龍骨」池井昌樹。
池井は時折りこのように散文詩を書く。今作では、立食い蕎麦屋や駅蕎麦屋で出会った「構われたくない風情の人」を描いている。それは他者からの干渉を拒絶し、また己の他者への思惑を断ち切った姿である。孤として生きていることである。最終部分は、

   うまく言えないのだが、変貌し続ける万象の中で唯一変
   貌しない思い、「生きていたい」。心の内壁を掻き毟る
   その熱い渇望が、私の裡から、一筋の龍骨のように今も
   込み上げてくるのである。

 二人の詩作品の他に、今号では名篇再読として田中冬二「法師温泉」を紹介し、池波正太郎の「田中冬二の世界」という小文を載せている。個人的なことを書くと、私(瀬崎 )は今でも田中冬二の作品「海の見える石段」とか「レーキサイド・ホテル」が好きである。

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