瀬崎祐の本棚

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詩集「束」  阿部嘉昭  (2015/10)  思潮社

2015-10-29 09:04:36 | 詩集
 第8詩集。オンデマンドで発行されており、153頁に72編を載せる。
 作品タイトルはすべて漢字一文字で揃えられており、さらにすべての作品は20行で書かれ、見開き2頁に収まっている。これらの作品は今年1月からの6ヶ月間で書きあげられている。
 「管」は、「たったひとりだけ/とおいせかいからの/ひかりをうけている者が/きれいだとよばれる」とはじまる。
 作品のなかでは時間が動くことはほとんどない。作品は今だけを捉えており、それは作者の今が析出しているともいえる。物語は過去に寄りかかることはなく、また未来にもたれることもない。ただこの時に佇んでおり、そういった意味では作品世界の描かれ方は短歌的といえるかもしれない。

   きれいなはだのさだめは
   さきゆきからぬれそぼって
   いまの迂遠をしるすのみ
   きっとにぶらねばならない

「穴」では、日記にうるむところを見つけている。「おぼえのないひとの/おぼえのない手あしが」きらきらと反り、「しきさいにながれ」て「かたちがずれてにじ」んでいるのだ。

   しめりおえたわらいを
   みずから頬にうすくぬり
   こもれびをおりていたなら
   うるむ場所もわたしのなした
   たにんの容器の穴だろう

 個々の作品というよりも詩集としての総体に圧倒されてしまう。これだけのたゆたうような言葉に身をまかせていると、日常生活が言葉で埋もれていくのではないかとさえ思える。しかし、すべての作品を20行で書ききるといった制約を自らに課しているように、そこには自分の言葉を厳しく律しているものがあるのだろう。
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詩集「艸の、息」  松岡政則  (2015/09)  思潮社

2015-10-27 19:18:02 | 詩集
 第6詩集。90頁に24編を収める。
 松岡の作品では”艸”が核にある。「生来、まつろわぬ身」は「艸をはなれて艸をする身」であるし(「くさわた」より)、話者は「艸の時間になるのをま」ち、「艸のこどもに還っていく」のだ(「野歩き」より)。”艸”は血脈でもあるようだし、共同体を支えている土地そのものでもあるようだ。生きている身体の源に繋がっているようにも感じられる。
 「たまもの」は、正直なところ、なにを言っているのかよく判らない。判らないのだが、なにか真面目に書かれていて、「あら艸どもの棲みきった息」や「命がけでついた嘘」が謎のままで染みこんでくる。

   川原にはがんらい名前がない道がない。
   川に足を浸してみるそうやって聲を清潔にする。
   水のなかの足とひかり足とひかり鮴がちょこっと動いた今今。

 終わり近くには前詩集につづくような台湾を舞台にした作品が置かれている。
 「南澳火車站」。異国の街の路地を彷徨い、探し当てた食堂で思いの外にうまかった食事をとり、しかし鉄道の切符がとれずに佇んでいる。異国の地に我が身を置いたときにはじめて見えてくるものもあるのだろう。

   嫌われないように傷つけないように誰もが器用に過剰に生きている、
   その不潔。名づけようのないものを悲しみといってみる、その不潔。
   見すぎた気がする。いいやまだなにほどのものも見ていない気がす
  るその不潔。黙っている不潔。

 剥き出しの感情がこちらにむかって突き刺さってくるような気迫を感じる。それは、いくら辛くても、いくら寂しくても、共感も同情も拒絶している気迫である。
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詩集「私の男」  高木敏次  (2015/09)  思潮社

2015-10-24 11:25:17 | 詩集
 93頁。15の章に分けられた「私の男」ただ1編が載っている。
 作品は「私のことを/私の男と呼んだ」とはじまる。呼んでいるのは誰だ? とにかく「あちらに向かって」旅立たなくてはならない。それが書くことの意味であるだろう。
 「男は私を探し」ているのだが「私は男を信じない」のだ。それに、そもそも「誰が男なのか」? 私が私の男ではなかったのか? このようにして彷徨いがはじまる。

   男はいつの間にか/
   ここまで迫っている
   すぐに水かさは増すだろう
   急がねばならない
   遠くから
   追われているのだ   (「三」より)

 私は森の中に隠れ、バスで移動して、やがては私が本物の私なのかも混沌としてきているようだ。
 
   合い言葉はいらない
   ここを行こうと
   男に目配せをする
   たったひとりで
   追われているのだ
   うわさを信じるなら
   もう少し
   私をしてもよい    (「十一」より)

 私が私であるためにはどこを彷徨えばよかったのか。作品は次のように終わっていく。

   果てまで
   歩くことができるなど
   私なら信じない
   誰にも言えない
   男などいない     (「十五」より)

 彷徨いの果てに、”私の男”はどこに存在することが意識されたのだろうか。
 「あとがき」で作者は、「願いは始めること、終えることを書きあげることであった」とある。さらに「始めること、終えることとは見失うことでもあったのだ」という。
 私と、もう一人の私、その二人の私の、はるかに距てられた間隙が世界に飲みこまれているようであった。
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詩集「カナリア屋」  田中裕子  (2015/09)  土曜美術社出版販売

2015-10-22 16:39:23 | 詩集
 第4詩集。93頁に21編を収める。
 好きだった家族の皆に取り残されて、誰もいなくなってしまった家の庭でひとり佇んでいるような静かさを感じる詩集であった。
 「ことり」では、風にゆれる枝に「か細いけれど熱い指で逆さにぶら下が」ることりを見ている。木の葉は落ちていき、わたしは「手紙の最後にさようならと/書かなくなった」のだ。

   風のゆくえ
   秘かな尖端のトレースはきっと
   さようなら
   その中に
   小さな全体重をかけて
   ことりは今日の枝をける

 話者も「風に耐えている」からこの作品が生まれたのだろう。
 「凪」では、おそらくは病床にある父と一緒に、見舞いの家族が集合写真を撮ろうとしている。「いま父は時間に固められ」て、その中に父の「いのちが棲んでいる」のだ。

   シャッターを切るのは
   いつも自分以外のだれか
   そう思ったら
   遙かかなたの凪のなかで
   難破する自分が見えた

 このときまでには家族のあいだではいろいろな確執もあったのだろう。最後の時が近づいたゆえの平穏さがかえって哀しいようだ。
 中学の修学旅行の時に母が作ってくれたおにぎりのことを書いた作品「おにぎり」は、自死した同級生の話とあいまって切なさを残している。
 巻頭の「カナリア屋」については詩誌発表時に感想を書いている。
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詩集「フィラメント」  小川三郎  (2015/09)  港の人

2015-10-19 19:05:58 | 詩集
 第5詩集。正方形の版型で60頁足らずの軽快な装幀。14編を収める。
 すべての世界が”私”の独白で成り立っている。
 「日常」。私はあなたとふたりで「日常を歩い」ているのである。いろいろな場所でいろいろな人がいろいろなことをしているのが日常のようなのだ。でも、私は日常を卒業したようなのだ。ここにある日常という言葉には、微笑を浮かべたような不気味さがまつわりついているようだ。

   私はついに馴染めなかった。
   だから身体をくねらせて
   泳ぐように
   生きたのだけど
   細くなって
   やがてちぎれて。

 私が過ごしてきた日常は、結局はそういうことなのだった。そして、最終連は奇妙な違和感をかかえて差し出されてきている。いったい、「そうなってみるまで/わからないなんて/かわいそうだ。」と言っているのは誰なのだろう? 意識としては、”私”が形づくった世界を見つめている話者がいるのか。おそらく日常をなんとかこなしている話者は、それゆえに自分から分離させた“私”を必要としたのだろう。
 「未明のひと」。未明の寒い境内で誰かが焼かれているのだ。それは「愛など少しも必要としない/うらやましい形」で、「燃える炎の内側で/記憶と名前が失われていく」のだ。そのひとの身体を燃やすこと、あるいはそのひとの身体が燃やされること、それを世界は要求したのだろうか。最終連は、

   これで今日は
   誰も死なないはずだ。
   やさしい気持ちを持った人は
   ここよりずっと
   眺めのいい場所に住むのだろう。

 未明のひとは自己犠牲のひとだったのだろうか。その人が燃えた炎によって、世界は朝を迎えることができたのだろうか。
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