瀬崎祐の本棚

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詩集「蜜雪」 月村香 (2018/07) 思潮社

2018-08-28 16:48:37 | 詩集
 ほぼ正方形の判型91頁。
 横書きで、左頁に日本語で書かれた作品、右頁にはフランス語で書かれた作品が対のように印刷されている。あとがきのような部分を読むと、作品はまずフランス語で書かれたようだ。そして「日本語をフランス語の訳としてではなく、別の詩編として添えてみました」とのこと。私(瀬崎)はフランス語を読むことはできないので、二つの言語の作品の関与の有り様については評価不能だった。日本語の部分だけを読んだ。

 作品はすべて1行20文字の散文型で、Ⅰでは1頁にぴったりとおさまる11行、Ⅱでは1編が22行、残りは13~15行の矩形に印字されている。
 「夏」。どの作品も基本的に独白体であり、句読点なしに印字されている。そのために息苦しさのようなものも伝えてくる。それは独白する話者の息苦しさである。

   (略)           でも彼を探す
   ことは昔のことでもう今は新たな飛行のはじ
   まり決して動き回ってはだめ待って待ってあ
   なたの彼の飛行機の便はもっと後だからわた
   しはどこどうしてここにわたしはいて夏だわ

 周りの情景はまったく目に入らず、ただ自分の関心事だけが世界を構築しているようだ。そうやって記載した世界が話者を周囲から隠してくれることを無意識のうちに意図しているようだ。頁を繰るにしたがって、読む者もまた周りから隔絶されていく。

 「きょうはねかせて」。完全に混乱して、いかれているわたしは、何度も会いたがっている彼とはもう限界なの、とつぶやいている。

   (略)           きょうは誘わ
   ないでね夢の中にもこないのよあなたはわた
   しを呼ぶときまるでたくさんの石を投げるよ
   うあるいはあなたって男だったり女だったり
   色々な物に着替えるのねもうわたし慣れたわ

 理屈もなにもない、この捉えどころのない感情の波が意外に心地よく感じられてくる。眠気の中の感情は醒めているようで、それでいてとても甘い。毒のようだ。
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詩集「補陀落まで」 北條裕子 (2018/08) 思潮社

2018-08-24 17:32:54 | 詩集
 第4詩集。81頁に18編を収める。
 観音菩薩の降臨する場所へ向かおうという意志をあらわしたタイトルからも、この詩集に込められた作者の思いはくみ取れる。具体的には、7年前になった亡くなった母への追慕である。

「群青」は、「群青を孕んだ朝/あのひとは逝った」と始まる。すると、世界は乾き、山並みが街を閉ざしていくのだ。この日がくることを頭では理解していても気持ちは受けいれていないようだ。

   もう還ってこないのですか
   暗がりで ようやく
   いなくなったあのひとに 問いかけると
   そこは とうに
   異郷なのだった

 あのひとを欠いた世界はすでに変容していたのだろう。こうして、この詩集では言葉は単なる事象を越えたものをあらわそうとしていて、余韻を残しながら積もっていく。

「聖域」。心が訪れるべき”聖域”はどこかと自問している。

   せめて 艀でもあればいいのだが
   からだごとたゆたう艀は
   この小さな水の広がりには 見あたらない

 そして沼の水に映るかたちをただ見ているのだ。確かなものをつかもうとしても、そこにあるのは「かたちのない水」だけなのだ。やりようのない不安定さが表出されている。自分の根に当たるようなものを失っているのだろう。ここから進む方角だけでも見つかるようにと思わないでいられない。「詩を書いている時には、それらの死者とつながっているだろうか」とあとがきに記す作者にとって、大切な意味を持つ詩集だったのだろう。

 「死んでしまった母と無数の死者たちに」という副題が小さくついている作品「願生」については、詩誌発表時に感想を書いている。
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詩集「ストークマーク」 犬飼愛生 (2018/08) モノクローム・プロジェクト

2018-08-21 22:52:17 | 詩集
 第3詩集か。135頁に30編を収める。詩集タイトルの”ストーク”は”sork”で、いわゆる”マタニティ・マーク”と似た意味合いだろうと思われる。山田兼士、北川朱実、江口節、コタニカオリの栞が付く。

 「夜のガーデン」。話者は女性が孕み子を産むことに根源的な悪の匂いを感じているのかもしれない。もちろんそれは逆説的なことでもある。何人もの子どもを(なにごとかから)引き受けて「振り返ってはダメ!/母なんだから/母なんだから」と、己の分身を自虐的に捉えている。あるいはこのように自分を叱咤激励することによって耐えているものがあるのかもしれない。

   風船が空に飛んで行って
   大勢の妊婦たちが
   噴水のまわりをのろのろと行進して
   もはや
   誰も振り返らないで
   夜の中で子どもたちを産んでいく

日常生活には、当然ことながら他者がいる。幼い子供もいればお父さんだっている。大切なのだけれども、だから少し困ってもいる。
 「水都」。妊婦の身体は水に浸されている(これは医学的にも正しい比喩だ)。だから「手漕ぎボートで都を/渡」り、「さっきのボートからせえので叫ばれる/あなた! 遅れるわよ!」と。

   お世辞か
   願いごとみたいなことを
   ドクターともあろうひとが
   いうのが意外だったけど
   診察室はすでに
   青く浸水していて
   魚たちが回遊している

 他者を体内に孕みそして育てるということは、いっとき異世界で生きているようなことなのかもしれない。
 残渣をすべて吐き出してしまいたい衝動があるかのように、言葉が紡がれている。深刻な内容の言葉であっても存外に軽くあしらわれている。ここで必要とされたのは、言葉の意味ではなく、言葉を紡ぐという行為そのものだったように思える。
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詩集「軸足をずらす」 和田まさ子 (2018/07) 思潮社

2018-08-17 19:02:58 | 詩集
 第4詩集。106頁に29編を収める。装幀・組版は岡本啓。

「極上の秋」。わたしは「はがれやすい皮でできてい」るので「今日のわたしを一枚めくる」のだ。季節が移ろえばわたしもまた新しくならなければならないのだろう。話者の口調は明るく、何気ない風を装ってはいるが、ということは、かなり引きずるものを抱えているということでもあるのだろう。

   支持する人を
   始末して
   生田の公園はからっぽだ
   もう、ここには用はない
   理由があってもなくても
   靴底は新しい
   行きなさいと声がする

 それこそ「たくさんの比喩」が巧みに情景を組み立てていて、軽さの奥に潜む気持ちを差しだしてくる。かなり翻弄される。それが作品を読む心地よさにつながっていく。
 作品は、他者の中に紛れてしまった自分を取り戻そうとして雑踏を彷徨ってもいるようだ。順番に並んでいても「後ろに並んだ人から/自分を/捨ててこいと急かされ」(「呼ばれる」より)、「わたしと/わたしでない人と」はまざってしまっている(「挨拶」より)。

 「お茶ノ水を降りていく」では、「だれのために/何をするか」を途惑っている。他者と上手にすれちがうことさえもできないような、焦燥とも困惑ともつかないものに話者は捕らわれているようだ。そんな自分の正体が明かされてしまうことを恐れてもいるようだ。

   いいたいことの半分もいえないから
   本屋街は沈んでいる
   急かされるように
   肩をこわばらせ
   神保町へと
   ずりずり
   せかいの谷間に降りていく

 評価の高かった前詩集「かって孤独だったかは知らない」だったが、私(瀬崎)は今回の詩集により惹かれた。それは外部事象に凭りかかる部分が少ないところで自分と対峙していたからだった。
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接吻 中本道代 (2018/07) 思潮社

2018-08-14 22:35:07 | 詩集
 第8詩集。選詩集である現代詩文庫を別にすれば10年ぶりの詩集で、125頁に41編が収められている。装幀・絵は直野宣子。

冒頭におかれた「帰郷者」。久しぶりに訪れると、山肌の傾斜地の田畑の境目は崩れており、どこからか猪が押し寄せてくるのが故郷だったのだ。そこに話者の原点はあるのだろう。「ぶどうの果汁を叔父と/風の吹く野原で飲んだ」のが故郷だったのだ。そして、

   遠い日
   谷川の石の下に埋めたノートから
   小さな秘密の文字の群れは流れ果てていったか

 抑制された感情発露があり、切り詰められた緊張感が漂っている。

この詩集では広島の地で育った作者についてくる記憶も詩われている。「空が裂けた土地の小学校」では「人の傷んだからだを/焼けたからだを」研究している建物のある山へ上ったりもしたのだ(「ハイキング」)。私(瀬崎)もよく上った比治山だと思われるが、たしかに8月の広島の空はどこまでも終わる高さがない様に思われる。作品「日付」ではあの日のことが詩われている。
夏があり、九月があり、そして冬がある。季節は否応なく過ぎて、その移ろいのなかで研ぎ済まされた感覚があらがうこともなくどこか深いところへ潜りこんでいく。それは、あの終わりのない夏の空へどこまでも上がっていくのと同じ意味だ。

 「雪の行方」。雪が降り、ベランダの花が萎れる、そしてその雪は溶けて水溜まりになっている。しかし、「そこには秘密の熱があり」「無限の遠さ」を孕んでいるのだ。

   除外されて見る空の色は他の誰にも見えない
   松の葉はまばらに伸長して空気を突き刺している
   もう立ち上がれないと埋(うず)もれた声が呻いている
   しがみついていた木椅子を離れどこに行ってしまうのか

 目にした何気ないような現象もこの世界を動かしている何ものかを担っている。話者もまた担われている存在であることを静かに受けいれている覚悟のようなものがここにはある。

 紹介したい作品、詩句はいくらでもある。「くちびるの端に血を流して/朝が昼へと入れ替わる」(「別の九月に」より)、「見つめ合った/瞳と瞳を貫いた稲妻がからだ深く入り込んだために/離れることのできないものが/形を失っていった」(「逝ける日」より)。なんて、うっとりとしてしまう。
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