瀬崎祐の本棚

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詩集「無限抱擁」 倉橋健一 (2021/09) 思潮社

2021-11-29 11:43:42 | 詩集
第10詩集。123頁に28編を収める。
一編一編がそれぞれの面持ちで立ち上がってくる。それぞれの作品が自分の立ち位置はここだという風に腰を据えて読む者に迫ってくる。強さがある。

「隠れキリシタンの里で」。隠れキリシタンが火刑にされた地を訪れようとした話者は、河原で石投げをしていた少年と目線があう。特別な地には特別な物語の力が根付いているのだろうか。話者は「あの少年はきっと(自分の)姉さんを密告したのだ」と確信する。そして少年は行方しらずになった姉さんを思って石投げをしているのだ。

   ああ姉さん、その肩先は漆黒の蝋燭の焔だった、異様に美しく艶めいて輝いていた
   だから村長に告げるべく駆け込んだのだった
   それが夢のなかだったか夢から覚めたあとだったか夢から醒めるのを繰り返している夢の連続だったか

やがて、少年とわたしは混じり合いはじめてしまう。この地の物語は話者を、そして作者をも取りこんでしまうのだ。しかし話者は「蝙蝠たちの時刻、火刑台の跡地へはまだたどりつかない」。だからいつまでも物語に絡めとられたままなのだ。それが特別な地を訪れた者が引き受けなければならないことなのだろう。

「日暮れ時の不安」。坂道、うす汚れた窓ばかりの商店街、夕照、話者の前を過ぎる野ねずみ。話者は「ここにはもう他者の痛みに眼差しを注ぐ人など居ない」と感じている。話者は廃墟の階段を伝い、野ねずみを食餌にするハブの館に入ったりする。不安からの彷徨だが、それは日が暮れていくという残りが限られた時間の中にある焦燥でもあるのだろう。どこで、何をすれば、残された時間は不安から解き放たれたものになるのか、という彷徨であるのだろう。

   限りなくここに留まりたい願望が
   やがて来る気の長い闇への怖い思いとかさなって
   しばし不動金縛りになって佇んだまま
   寸毫も動けない意識のなかで
   今しがた擦れ違ったばかりの人形ばかりが甦る

やがて話者は「ひと気のない廃墟のまちで/そのまんま/私自身/人形になっていく」のだ。

安易な抒情をふりすてた緊張した言葉が起ちあがっている。そこには、その緊張から生まれてくる抒情性があり、それが作品の背後にいる作者の生身を感じさせてくれる。どこまでも生身の作者の発している言葉だったのだ。
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詩集「孔雀時計」 藤井雅人 (2021/10) 土曜美術社出版販売

2021-11-26 21:31:48 | 詩集
第8詩集(他に選詩集1冊)。89頁に28編を収める。
ほとんどの作品は詩誌「孔雀船」「ERA」に発表された際によんでいたのだが、このように1冊の詩集にまとめられると作者のもつ世界観がより鮮明になってくる。

「時の驚愕」は、「ハイドンの交響曲「驚愕」に寄せて」との副題が付いている。この曲には静かな演奏に居眠りしかけた聴衆をティンパニーの音で起こそうとしたという逸話が残っているのだが、そのような曲であることの知識の有無で作品の受け取り方は異なってくるだろう。だから作品としては、それを超えたところで作者に生まれてきたものを描く必要がある。作者はこの曲の”驚愕”について、「時の歩みにひそむ途方もない打撃」としている。しかし、

   置き時計に飼い慣らされていた時間が
   ある時ぴたりと止まる
   津波の轟音のなかで
   地震の縦揺れのなかで
   爆弾の破裂音のなかで
   突然世界よりも重くなった時間が
   盤面にとどまり もう過ぎようとしない

止まるはずのない時の歩みをも震撼させるようなことがあるのだと作者は詩う。安寧からは遠く離れた時間があるのだ。最終部分では「それでも 時は過ぎていく」としている、「すべての美しいものを幻影に変えながら」。

「福島原発事故哀歌」には、「三十三間堂で」の副題が付く。

   堂宇をうめつくす
   千体の仏のしじま

   音もなく浸食される
   われらの地

   無辺際のあわれみは
   矩形の壁でくぎられ

三十三間堂に並ぶ仏像の永遠性・安寧と、原発事故がもたらした不可逆の厄災が対比されている。すべての連が2行となっており、短く途切れているような記述と相まって、それ以上言葉を繋ぐことのできない切羽詰まった心情をよくあらわしている。ただ、最終連はやや直截に過ぎたか。

表題作の「孔雀時計」については詩誌発表時に簡単な感想を書いている。

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詩集「おだやかな洪水」 加藤思可理 (2021/09) 土曜美術社出版販売

2021-11-22 10:38:14 | 詩集
第8詩集。やや縦長の判型で133頁、装幀はいつも好いなあと思う長島弘幸。

最終頁の目次には64編のタイトルが表示されており、その中の6編は”interlude”となっている。さらに作品は”sequence”として00から57までの番号が附されているのだが、52に当たる「遠吠え」は欠落しており掲載頁は000頁となっている。その意図は判らなかった。

主に散文詩型で書かれた作品は、どれもどこかが奇妙な物語を孕んでいる。それは日常の風景からは浮きあがっているような不安定な物語である。
たとえば「sequence02 出産」は、臨月の妻が駅のプラットフォームで産気づく。そして「汗ばんだ叫び声をあげ」て妻は出産する。

   だが妻の子宮から生まれてきたのは、嬰児ではなく水だ。夥しい水、大量の水が、どんど
   ん股間から溢れ出す。
   そうしてぼくの靴や足首が透きとおった水にひたひたと浸かってゆき、その事態に驚いた
   ぼくがただ立ちすくむうちにも、水は否応なく流れつづけ、眼下の黒い川が着実に増水し
   て、今やプラットフォーム全体が徐徐に水没してゆく。

やがて身体が膨らんで緑の小舟になった妻に乗りこみ、ぼくは海を目指すのである。

夢は当人の深層心理を無意識のうちに映像化するという。この詩集の作品は、いわば作者の深層心理を意識的に取り出して(取り出せないのが深層心理ではあるのだが・・・)言語化したものと言える。それぞれの作品をsequenceとして連番をふっているのは、描かれた事象がたとえ表面上はかけ離れたものであっても、その奥にあるものは作者の中でひと続きのものとして存在しているからだろう。
もちろん繋がっている事象もある。病の親友とか、叔母から譲られた青いポルシェとか、不在となってしまった妻とか。詩集全体で物語は大きくうねってもいるのだ。
interludeのうち「インタヴュー」と題された3編は、まるで作者が作品成立の打ち明け話をしているかのようであった。

「sequence41 裏庭」。湯船の底から浮かびあがってきた死んだ魚からはオレンヂ色の卵がこぼれ落ちる。ぼくはその卵を「ぼくの秘密の場所」である裏庭の片隅に埋める。二週間と七日が経って(なぜか三週間ではないところが面白い)、

   ふと憶いだしたぼくは、乳精を使ったオクローシュカと、リンゴンベリィのジャムをたっ
   ぷり塗ったライ麦パンの朝食のあとで、こっそりその場所へ行ってみる、すると黒い地面
   から小さな緑の芽が顔を出している。
   この芽がいずれは母親の樹に生長するのだろう。ぼくは穏やかな気持ちでそう思う。

死んだ魚の卵から植物が生えてくるという不気味な異種間の生命連鎖を、話者は穏やかな気持ちで受け入れている。そこには細部にまでこだわったレリーフのような記述がまとわりついている。
やはりこの詩集は覚醒した話者の見る白昼夢だったか。
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詩集「十二歳の少年は十七歳になった」 秋亜綺羅 (2021/09) 思潮社

2021-11-18 20:58:26 | 詩集
第4詩集。やや縦長の判型100頁に25編を収める。

表題作「十二歳の少年は十七歳になった」は、あの震災に遭った5年後の少年を励ます作品。

   海が目の高さまでやって来て
   握っていたはずの友だちの手を
   離してしまった瞬間から
   きみの時間はずっと止まったままだ

動かない時計の秒針に指を触れれば「時間はきっと立ち上がる」し、「空間がきみを抱きしめる」と詩う。最終連は「傷はまだ癒えていないけれど/今度はきみが/青空に詩を書く番だ」。
このように、この詩集の作品はどれも柔らかな優しさで包まれている(でも、固い優しさ、とか、柔らかい意地悪さ、というものはあるのだろうか?)。

「馬鹿と天才は紙一重」は、挟み込まれている用紙の裏表に「天才」と「馬鹿」と題された作品が印刷されている。その二つは実はまったく同じ詩句が行の順を逆にして印刷されているのだ。文字通りに紙一重で同じ内容の提示順を変えているのである。提示順が変わるだけで天才は馬鹿になり、馬鹿は天才になる。皮肉と諧謔がここにはある。

「人形痛幻視」は、洒落たことば遊びのようにして始まる。「ソーセージ」と「メッセージ」、そして「一卵性メッセージ」。そこから次第に豊かな内容の深みへ降りていく。踏切の遮断機が降りてきみは幼くなり、鳴りやまない警報音に「人は一度生まれて一度死ぬ」のだ。このような作者の作品の独特な魅力は、ふわりとした感情に支えられた理知的な面白さである。とても親しみやすいイメージを展開しておいて、その奥にあった意味を差し出してくる。本人はいやがるかもしれないが、それを寺山修司から受け継いだ資質だと捉えることもできるのではないだろうか。素晴らしいことである。

   きみの人形が地上に落とした呼吸
   白い骨と黒い血の無声映画
   目を開いても意味の見えないことばたち
   脳髄を食いちぎる影がコンクリートに横たわる
   夢から覚めると
   見えないものしか見えない

何を見ようとしての幻視なのだろうか。見えるものは何時のものなのだろうか。最終連は「きっときみは/近くまで来ているよ」。

「部屋のカーテンを開けて」からの4編は、一見危うい繋がりをもって関係していく。それについては詩誌発表時に簡単な感想を書いている。
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詩集「向こうの空に虹が出ていた」 勝嶋啓太 (2021/08) アオサギ

2021-11-15 16:56:44 | 詩集
第6詩集。7編を収めるが、その中の1編は3章からなる長詩となっている。
絵本の表紙を思わせる高島鯉水子の色彩豊かな装幀、それに丸ゴチック体の印刷文字がこの詩集の内容によく合っている。

どの作品も”ぼく”の独白体となっている。作品世界はぼくの目を通して見られ、ぼくの語りで展開される。どこまでも話者である”ぼく”の世界なのだ。それは他者の評価や意見に左右されることのない純粋で、かつどこまでも自由な豊かさを持った世界である。

冒頭の「ぼくの隣の人がすっごい震えているんだけど」のぼくは、困っているように見えた他人との関わりについて逡巡している。他人にとって自分は何者でありうるのかとの自問が、少しユーモラスな語りで述べられる。そして最終部分は、

   そんな彼に ぼくがやってあげられることがあるとすれば
   無関心で無表情な 都会の群衆のひとりとして
   彼の邪魔にならないように 通り過ぎていくことだけだ
   なんか そんな気がした

都会の中でこれは大変に痛い思いである。そうした痛い思いを抱えて暮らしていかなければならない辛さが”かいじゅう”を求めるのだろう。

この詩集の核となっているのは、そのかいじゅうと出会い、自分がかいじゅうになっていく長詩「かいじゅうとぼく」である。当初、作者は3章から成るこの作品だけの詩集を考えていたようなのだが、編集の佐相憲一が他の6編を加えて編んだということ。

90頁近い作品の一部分を紹介しても、この作品の持っている味わいは伝わらないだろう。また物語のあらすじを紹介してもやはり駄目だろう。ぜひこの作品は一気読みして欲しい。作者は映画カメラマンや劇作家の経歴もあり、その描写は平易でありながら豊かな陰影を伴ったものになっている。
ぼくがどうしてかいじゅうと出会わなくてはならなかったのか、ぼくがどうしてかいじゅうにならなければならなかったのか、そしてかいじゅうになったぼくはどうなったのか。優しさと哀しさと、その奥にあるいささか歪んだ安らぎが、この作品には満ちている。
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