瀬崎祐の本棚

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詩集「五月の展望台から」 田中裕子 (2022/10) 土曜美術社出版販売

2022-12-29 11:29:50 | 詩集
7年ぶりの第5詩集。109頁に25編を収める。

巻頭の「はじまり」は、秋が訪れたことを感じた日のことを詩っている。玄関には乾いた陽が射し、「うすい足の甲に光が刺さ」るのだ。その日は毎年訪れ、懐かしさもともなう感覚なのだろう。私事になるが、晩年は病に伏せていた私(瀬崎)の父が、決まった時刻の朝食の時に食卓のうえに射す光を見て、今年もここまで朝日が差し込む季節になったか、と言っていたことを思い出す。毎年同じように季節は巡るのだが、話者には一年ごとに移ろうものもあって、若い頃にはなかった思いもともに訪れるのではないだろうか。最終部分は、

   光はかならずひとりでやってきたから
   はじまりだと よくわかった

   拒まれているようで
   包まれていた

こうして秋ははじまり、話者の怖れや戸惑いもない交ぜになってその季節の中を生きていくのだ。

「こもれびプール」。水面に射す光は波紋につれて揺れながら水底にその形を映す。そのとどまることのない揺れが話者の中でも波紋を広げていくような感触は美しい。

   わたしの中の水がめくれる
   生きることを分けあった誰かが幾重にも脱げていく
   大きなはめ殺しの窓から射す光は
   水底で途切れつながる
   はじまりの細胞

この詩集ではいたるところで様々な光がちろちろと揺れ動いている。光は何かの合図のようであり、それが隠れていたものを照らし出すこともあれば、見えるべきものを惑わせることもあるのだろう。

後半の章では、亡くなられたお父さんや、体が衰えてきているお母さんのことも詩われていた。
そして最後におかれた「五月の展望台から」の中に印象的な連があった。何も付け加えずに引用紹介しておく。

   わたしたちはいつだって
   かなしみに向かって歩いている
   罰のように光を抱いて

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詩集「道草」 橘しのぶ (2022/11) 七月堂

2022-12-22 22:59:01 | 詩集
22年ぶりという第3詩集。93頁に22編を収める。望月遊馬の栞が付く。

「告白」。泣きやんだわたしはあなたの耳をもらう。そして「ふとしたすきまにしまっておいて」と言われる。話者はあなたの少し後ろをついてゆくのだが、おそらくそれはひたむきにあなたを慕っているゆえの姿なのだろう。そんなわたしは「三半規管に根を張った樹木の幹に顔を伏せる空蝉みたいな娘」であり、「かかとからあかく染まってとけていった、ろうそくみたいな娘」なのだ。幾分もってまわったような比喩が、話者の伝えたいという気持ちのもどかしさもあらわしている。いくら告白しても「ことばでは人を愛せない」のだ。最終連は、

   すみやかに影が去っても、枝はまだゆれつづけている。ふとした
   すきまなんて、そんじょそこらにあるもんじゃない。帰りそこね
   た一羽のわたしが、あなたの耳からこぼれ落ちる。

幾重にも折りたたまれた思いが、軽く見える言葉の裏に隠されている。

「亀鳴くや」。わたしとあの人は眠り続ける亀の甲羅にまたがっている。不思議な状況なのだが、それはわたしとあの人が均衡を保つために必要だったのだろう。やがて泳ぎ出した亀にいなくなったあの人のことを問うと、時が遡行し始める。

   ふいに視界に舞いこんだ沼の水は、途方もなくすきとおって、色とい
   うものがまるで感じられなかった。花だらけの枝に隠されて今は見え
   ない空もこんな感じなのかなぁと、思ったのだった。

この作品の意味を問うことはあまり重要ではないのだろう。シュールな光景の中であっけらかんとしているわたしを感じることができれば、それでよいのだろう。

いくつかの作品には父母、そして何人もの姉たちが幾度となくあらわれる。もしかすれば生まれなかった弟もいたのかもしれない。
「花葬」。「お父様もご臨席でございます」との案内で出かけた花見の宴ではねじれたひとたちが酒を酌み交わしており、帰宅するとさくらのはなびらがつめこまれた白い壺があったのだ。そして、おそらくはお父様が吸っていた煙草のにほひが、漂うのだ。
「鏡葬」では、百花繚乱に埋もれた姉と喪服の妹がいる。のぞきこんだ鏡の裡には今まで気づかなかった枢戸があり、それは幾度くぐりぬけても続いているのだ。

このように、どの作品でも脳裏には悪夢が宿っている。その悪夢とともに彷徨っている。異風景が次々に展開する彷徨いも悪夢なのだった。
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詩集「背の川」 北畑光男 (2022/11) 思潮社

2022-12-19 18:14:57 | 詩集
第10詩集。93頁に21編を収める。

「喉の川」は、「喉の奥で声にならない声が蹲っている」とはじまる。発語したいという希求はあるのだが、実際に言葉にしようとすると今の自分は何を語ればよいのかと、話者は途惑っているようなのだ。話者はすでに長く生きてきて、様々なものを見てきたのだが、それゆえにかえって語るべき言葉に逡巡しているのだ。最終連は、

   主語を探し
   わたくしはもう一人のわたくしに問い返す
   喉の川の奥へと呑みこんでしまうたくさんのわたくし
   鳥に啄まれ
   蔓と皮だけがさむい風に吹かれ

私(瀬崎)より1歳年長の作者であるが、その発語に対する真摯な態度に敬服する。

この作品をはじめとして、タイトルにもある”川”のイメージは詩集のいたるところで流れている。
「背の川」では、何十年も前にまだ目が開かない子猫を川に流したことを思い、空襲時や原爆被災時に川に飛び込んだ人たちを思っている。真剣な眼差しが見つめてきたものがそこにある。

   病で臥せたおれの背には川が流れている
   澱みには
   目の開かない泣き声も引っかかっている

この自分の中に流れている川は、歳を重ねることによってより強く意識されるものなのかもしれない。

また「釘」、「手摺り」では、詩われたそれらのものが己の存在に原罪のようなものを感じている。「修羅の火床をくぐり抜け」「飢餓の火床を生きのびてきた」釘は「板と板を犯す」ことによって板の身を繋げるのだ。他者に侵入する定めが自分にあることを自覚している。
弱った人の「不安と体重を受けとめる」手摺りは、その一方で、「何ものかによって壁に穴をあけ/壁を壊している」存在でもあるのだ。どこまでも他者に対する優しい気持ちが作品を裏打ちしている。

Ⅱでは母や兄のこと、母から何度も聞いたという生後すぐに亡くなってしまった姉のことも詩われている。さらに、戦争の陰で虐げられていた人たちへの思いもある。
作者は何年も前に古希を過ぎた同級生らと語らいながら、「ぼくらにも/まだ/清流の音は残っているか」と自問している(「川の音」最終部分)。この己を見つめ直している視線そのものが清流なのだ。
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詩集「点のないハハ」 鹿又夏美 (2022/10) 書肆侃侃房

2022-12-13 21:24:31 | 詩集
第3詩集。110頁に25編を収める。カバーには桂典子制作の印象的な立体オブジェの写真が使われている。

詩集タイトルにもなっている「点のないハハ」は、母という漢字から二つの点を取りのぞいたイメージから来ている。元来が「女」という文字に、二つの乳房を意味する点を加えて「母」という文字になったという説を聞いたことがある。このことからも推測されるように、詩集が抱えている大きな主題は母と女(娘)なのだろう。

「うつわ」。長じた目から見ると、母という存在は幼い日に見えていたものとは異なるだろう。時には力関係が逆転する。それをどう捉えて、どんな風に感じるか・・・。この作品の話者は、捨てられている「母という意味を失った言葉」を拾っている。

   うつわを支えていた肌は
   膨らんだり萎んだりしたせいで皺がよっている
   乾いた肌をめくっていくと
   久しぶりと声が聞こえた
   お母さん軽いねと言って
   袋にしまう

母といううつわの腹部は、妊娠したり出産したりの変化によって皺もより乾ききってもしまったのだろう。軽くなってしまったうつわを、話者は守るように拾いあげて慈しんでいる。

「栞」。話者は地下の店で古本の頁をめくるのだが、その本には栞はなくて髪の毛が挟まっていたのだ。そこには今や未来はなくて過去ばかりがあるようなのだ。

   傷だらけのくせに
   先へしか進もうとしない今を誰がおりまげたのか?
   透明な時間はカーブして私が座る席に戻ってくる

珈琲の染みであいた穴からは女の顔が覗く。もしかすれば、それは過去からこちらを覗きこんでいる私の顔かもしれないとも思えてくる。弊害になる何かが話者にはあって、この場所に佇まざるを得ないのだろうか。重く辛いものが伝わってくる。最終部分は、「栞ひもは引きちぎられた跡があり/どこを探してもない」。

「赤い電車に乗って」は詩誌「詩素」掲載時に簡単な感想を書いている。
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詩誌「天国飲屋」 2号 (2022/11) 神奈川

2022-12-09 18:58:09 | 「た行」で始まる詩誌
魅力的な女性の書き手5人が集まった詩誌。表紙絵は色彩が溢れているようなヒルダ・ポウグル・ガルシアの「遊ぶこどもたち」。故・小柳玲子氏が発刊された画集の中の絵のようだ。

「船と風鈴」北川朱実。
夜明けの海、出航する漁船、操舵室の天井から下がるガラスの風鈴。そのガラスの中には海で溺れた少年の灰があって、その「乾いた生命は//澄んだ悲鳴となって/海峡を渡り//インディゴの空深く/帰っていくのだろう」と詩われる。点描のように描かれたそれらを受けて、話者の中の海が波立っていく。

   大きな尾ヒレを追って泳ぐうち
   水に迷い

   何かが一つ見えなくなった

   その日
   人と別れた

短く切れる言葉と言葉、事象が跳んでいく連と連、それらの間を埋めている空白部分に滲んでくる叙情を堪能する。最終部分は、「船が海道をまっしぐらに帰ってくる//深い/大きな入れものに向かって」

「スースーする」坂多瑩子。
話者は夜更けの鏡の中に死んだ母親の顔をみる。話者は母親に背中のどこかを食べられていて、そこがスースーするのだ。この”スースーする”という言葉には、ただ寒いだけではない欠落感を伴った感覚が伴われている。その欠落感を抱えたままで話者はは親に似てきた自分の顔と向き合っている。

   おかあさん
   死ぬのはいいけど
   美少女のあたしをつれていって
   残りかすみたいなあたしを残していったね

   そのせいで
   あたしの書くものはいつも消しゴムの消しカスでいっぱい

自虐的なユーモア感覚が、なんとも切ない。

長嶋南子が「ヤマンバな日々」と題して小柳玲子氏の追悼文を書いている。三十年近い付き合いだったとのことで、あっけらかんとした書き方なのだが、小柳氏に対する敬愛の念がしみじみ伝わってくるものだった。
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