瀬崎祐の本棚

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詩集「あわいつみ」 江夏名枝 (2020/10) 澪標

2020-10-30 21:34:49 | 詩集
 第2詩集。44頁に、タイトルを持たない断章が載せられている。それぞれは1行から6行の行分け詩型であったり散文詩型であったりしながら1頁に印字されている。

 話者は目にするものや向きあっているものを静かに描写してそこに存在させようとしている。それとまったく同じように、自分の内側にあって未だ形を取らないものを描写して、やはりそこに存在させている。そのようにして、自分が居る場所を形づくり、自分がどのように居るかを確かめている。

   水無月は涙の渇き。

   遠い日に、窓辺で水色の手紙にしたためた。
   空色の盲目、この世との密かな馴れ初め。

   歌えなかった小石を蹴り、青色のインクに泳ぐ。
                      (8頁)

 各頁に置かれた断章それぞれには直接の連続性はなく、独立した情景を演じて次へと移っていく。描写は話者のとても主観的な感慨とともにおこなわれており、そのために描写されているものは全体として一つの暗喩のようである。

    無色となった夢の隙間に、櫛を落としている。拾いあげようと身を屈めると、柔らか
   くゆがむ小指ほどの傷口に気づく。すでに誰かの署名が認められる。
                       (20頁)

 「劇薬を選」んだり、「涙を拭」ったり、また「真夏の死」があったりしても、このようにして構築された世界で話者は幸せであるように思える。心地よいものばかりを集めて自分の居場所を築きました、私の処は誰にも邪魔させません、とでも言っているようなのである。しかしそこは、案外に孤独な場所で、何ものかから必死に耐える場所であるのかもしれない。

    雲は雲を脱いで去りゆき、やがては言葉になりゆこうとする。こころは棲家を持たな
   いことを、わたしたちは時おり忘れてしまう。

    風をあつめて。午後のあかるむ印画紙に、黄昏を封じこめた古い日記の日付が透ける。
   あまりにはかない名誉を抱え、幾人ものわたしたちが通り過ぎてゆく。

    暮れかかる空は青色に暇をとらせ、斜めに照らされる雲は名残惜しく地上を梳く。
                       (42頁)

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詩集「Bridge」 北爪満喜 (2020/10) 思潮社

2020-10-27 18:50:47 | 詩集
 第9詩集。95頁に18編を収める。

「まだ落ちてこない雨が」では、「雨の雫が溜めた時間を/みずたまりといっていた」という。みずたまりに時間が溜まっているという感覚は新鮮なものだった。そのみずたまりにいろいろなものが映って揺れているようだ。雨が上がっても木製のベンチは雫を砂に落としていて、

   後ろからみたら
   私のすきまは どんなふうに雫を落とし続けているだろう
   消えずに私とともにあってくれるのはどのくらいの間だろう

 みずたまりはやがて砂の中に消えていくのだが、話者はそれを惜しんだり悲しんだりするというよりも、さらに突き進んだ思いを抱いているようだ。記憶が薄れていくことに罪の意識すらおぼえているようだ。

   守れなかった
   私は網のようだった
   豊かな水が通りすぎて 晒し続けてしまった骨が白む

 前詩集「奇妙な祝福」の感想では私(瀬崎)は、「作者は絡みついて来る血脈の中で自分が立っていた位置をあらためて確認しようとしていた」と書いた。この作品では具体的な事柄は何も描かれてはいないのだが、それに関わっていた自分を責め続けているような切なさが伝わってくる。

 この作品を始めとして、今回の詩集の作品では水がいろいろな形でしっとりとあたりを濡らしている。「いつもの道が水に沈んでい」たり(「水の夢」)、「砂の上のみずたまり」(「神無月に」)や「砂のうえに/水たまり」(「響き」)だったりする。晴れてはいるはずなのに「どこかで雨が降ってい」たりもする(「どこかで雨が降って」)。
 詩集最後に置かれた「Bridge」では、高みからの隅田川(と思われる)の光景を祖母や母を想いながら見ている。

   祖母は母は 支える 支え続けてきた
   アーチのようなものを日々を
   能力はひっそり家の中に閉ざされ幽かにされてゆき
   他の何かになれなかった

さまざまな水を跨ぐものとして”橋”は架けられていて、明日につながっていくようだった。
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詩集「ひとつゆび」 古屋朋 (2020/08) 書肆子午線

2020-10-23 22:54:17 | 詩集
第1詩集か。82頁に19編を収める。
この詩集の作品の話者は、否が応でも電脳世界に取りこまれて生きている。肉体から離れたところでの風景があり、感情がある。それは、本当には音が鳴ってしまわないように注意深くオルガンの鍵盤を一本の指で押さえてみるようなことかもしれない(「ひとつゆび」。

「とける海」でのきみとのデートは、架空世界での体験アトラクション。いくつものいのちがあたえられ、人工物のなかに浜辺があらわれる。波の音がきこえ、鳥の声もする。しかし太陽はいつまでもおちてはいかないのだ。最後には、

   きみの笑顔があおくあおく
   のみこまれてくのをみながら
   ほぼかたちのなくなったぼくも
   たのしそうにわらっている

しかし、本当に自分はたのしいのかと訝しくもなり、たのしくなければならないという焦りも出てくるのではないだろうか。

「祈りの方法」では、だからこそぼくときみはほそいゆびをつなぎあわせている。肉体の感触で存在を確かめているのだろう。肉体を感じることが、ぼくを辛うじて現実世界につなぎ止めているようだ。

   いつからぼくは
   見知らぬぼくになったのだろう
   愛を背中に彫りこんだ
   龍みたいな目つきのきみと
   今日もこゆびをむすんでいつもの道をいく

最終部分は、「ぼくらはゆめをつないでいる/おわりそうになればまたあらわれて」。しかし、そのつながりすらも仮想現実なのかもしれないと感じているのではないだろうか。

他の作品でも、電子のなみのうねりのただなかで「なすすべもなく/僕は煙草をふかしている」し(「電子のなみまで」)、きみもぼくも次第に誰かになってなってしまうのだ(「匿名のぼくたち」)。信じていた世界が実は書き割りの世界だったという映画を思い出してしまった。
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ココア共和国  10月号 (2020/10)  宮城

2020-10-20 22:47:46 | 「か行」で始まる詩誌
発行:秋亜綺羅、編集:佐々木貴子の月刊誌。電子本を主体としていて、その主な部分を紙媒体でも出版している。
114頁に、招待詩、招待短歌、招待エッセイの他の大きな部分を投稿詩傑作集として、32人の作品を載せている。秋亜綺羅はとにかく若い才能を見つけて育てることに熱心で、その働きの功績は大きい。

大学生歌人の鈴木そよかの短歌を3首紹介しておく。
   真昼間に星が見えれば迷わずに十一月を迎えに行ける
    ここが終点 日傘の影の下に居るとき風は質量を持つ
    帰路にあるすべての花屋でひとつずつ花束を買いたいさようなら

投稿欄の作品から「器躯」中マキノ。
トイレに飾られていた花が垂れ、その黄色い花粉が便座についていたのだ。それをぬぐったペーパーを捨てようとして、「私はそれを自分の陰部に当てた」のである。そして私の尿と花粉は掻き混ぜられながら流れていったのである。ここには皮膚感覚よりもさらに繊細な粘膜感覚がある。自分を確かめるために、その粘膜感覚を必要としたのだろうか。最終部分は、

   カフェの席に戻り、本を開き、私はほんの少しだけ私の陰部に残っ
   た花粉が私のからだの内をのぼってゆき、私が何かを宿す、という
   物語を読んだ。

この一文の中に「私」という語は4回出てくる。それだけ意識せざるを得ない自分の身体があり、そこから生まれてしまう感覚が自分の世界を構築している。

もう1編、「循環」井上美帆。
言葉はタイムラインの中に埋もれていき、「水を換えないままの夕立が、花瓶の中にしとしとと沈んでいく」。添削され、加筆され、言葉は何に変容しようとするのだろうか、

   命を絶たないまま丸呑みした透明の輪郭、倒壊した対話を断念して
   擬音と接続詞に身を委ねる。花瓶の中の水、そのぶつぶつ。

実は、私(瀬崎)は2年前から詩誌「詩と思想」の読者投稿欄の選者をしている。そこでもこの二人の評価は高いものだった。この他にも、向坂くじら、浦野恵多などの名前も見ることができたのは嬉しいことだった。頑張っているな。こういった投稿の場を踏み台にして、どんどんと次の段階に進んでいって欲しい。

今年1年の同誌の投稿作品の中からは秋吉久美子賞、いがらしみきお賞、さらに20歳未満の作者の中からはYS賞が選ばれるとのこと。
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詩集「あやうい果実」 浜江順子 (2020/09) 思潮社

2020-10-17 19:04:24 | 詩集
 第8詩集。123頁に21編を収める。表紙カバーにはカンディンスキーの絵が用いられている。

 「人に人」。何かよく判らないのだが、具体的な形になる前の焦燥感ばかりが伝わってくる作品。切羽詰まっている。どのようなことをすれば、それが人間の行為であると証明できるのか、といったことなのだろうか。しかし、「苦痛の美をひとつ与えられたら、人は人に入ることができるのだろうか?」と言われても、「人に入る」イメージが上手く結べない。

   血の色をした雲を見上げながら、突然吹
   いてくる突風に逃げ惑う。毒が入ってい
   る水だとしても、そこにはその井戸しか
   ないのだから。裏切りも怒りも時間の円
   環でダンスを舞いながらいまは深紅にな
   った夕闇の空を啜る。

 次第に、人間であるということはどのようなことであるのか、という問に絡めとられ始める。いったい、ヒトデナシに入られた人はどうなるのだろうか。。 

 作品には、道を喰う男が出てきたり、顔半分がない男も出てくる。

 「脂肪」。「死亡はある日、脂肪に潜み、やって来た」のだ。死亡は脂肪と溶け合うようで、その脂肪がなくなると「骨だけとなり/完璧な死亡となってしま」うのだ。

   突然
   真っ白な悲しみが
   真っ黒な闇色の死亡とともに
   ふくよかだった脂肪を
   すべて天に振り捨てて
   高く、低く、唸りつづける

 同音異義語なのだが、死亡と対になっているのが「脂肪」という、どこか緊張感がゆるく醜悪とも思えるものなので、苦いおかしみも伴っている。

 「奇形の揺らぎ」は拙個人誌「風都市」に寄稿してもらった作品。その際の私の紹介は「邪悪なものが疾駆して、しかしそれは悲痛でもあるようで、濃い無彩色の世界だった」というものだった。
 あとがきによれば「(この詩集は)さまざまな死を見詰め、詩にしたものだ」とのこと。この詩集の果実は噛みしめると甘さを越えた毒がしみ出してくるようで、確かにとてもあやういのだった。
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