瀬崎祐の本棚

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詩集「展」 谷本益男 (2019/09) ふたば工房

2019-12-28 11:31:30 | 詩集
 第8詩集。111頁に26編を収める。あとがきによれば、小さな民俗資料館に通いつめて書いた作品とのこと。
 農作業をはじめとして自然と向き合って暮らしていく生活の行為が作品の題材となっている。しかし、それは単に行為の形をたどるのではなく、その行為が孕んでいる物語のようなもののところへまで降りてゆく。

 「田下駄」は、前夜から水を掛けてやわらかくなった田に踏み入る作品。田下駄を履いた足は危うい深さで止まるのだろう。そして話者は「蓑笠で貌を隠し/これまで 受け継いできたものを/しずかに水に浮かしている」のだ。伝統でつながってきた土地、その地でおこなっている作業が話者の存在を薄くしているのかもしれない。この地でこの作業をおこなっている自分は、どこまでが今の自分なのか、そんな疑問にとらわれるのかもしれない。最終部分は、

   少しずつ底に落ち
   溶けるじぶんの
   翳が
   泥土に馴染んで
   底深く沈んでいく

 「木屑」。木を挽くという行為はあるものの命を奪うことであるだろう。粗挽き鋸の動きにつれて吐き出される木屑はその目に見える形でもあるのだろう。木が倒れる時、「悲しみが いま/谷を転がっていく」のだ。

   親指ほどの深い欠落を
   鋸の刃はようやく見せ
   頑なな腕に挽きまわされたときの
   血を宿し 流した森にきしむ声が還るのを知る

 馬に引かせた鋤で土を耕し、鋸で木を切り倒す。土、木、そして土器、錆びた鉄器、石などが話者の世界を形作る。それらと向き合っていると、農作業に関係した事柄や行為が、その根のところで人の生きることの行為そのものであることがわかってくる。というよりも、人が生きるということはそういった行為をなぞることだったのだ。そういうことだったのだ。
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蹲るもの 秋山公哉 (2019/09) 書肆山田

2019-12-26 00:12:42 | 詩集
 第7詩集。101頁に24編を収める。
 大部分の作品では、現実の事象をそのままなぞるのではなく、そこから核のようなものを抽出しようとしている。事象に惹かれた根本が何であったのかを、おずおずと探るように確かめている。

 「昨日の音」は、「海の中から/ピアノの音が聞こえてくるのだという」と始まる。その音は、死者が海の底に沈んでいるピアノの鍵盤を叩いているもののようだ。死者は何を伝えたくて鍵盤を叩くのだろうか。その音が聞こえてしまう者はどうすればいいのだろうか。

   あれから六年
   ピアノの音は
   誰かの胸の中で
   響いているのだろうか

 もしかすれば海で亡くなったのかもしれない者への思いが、木霊となって話者にかえってきているようだ。次の作品「海からの風」でも、「海のそこからやって来る」あなたの合図が話者にとどく。だからいつも、「ここは/いない私で満ちている/海からの風で満ちている」のだ。美しいイメージの作品。

 「アナウンス」。ラジオからは「今夜は霧が出ています」と言う声が流れている。そんな夜に、女は時を捏ねては霧の中に投げ込み、男は乳白色の空にしがみつこうとしながら霧の中に落ちていく。それぞれの行為は非現実的でありながら、そうするしかないのだろうな納得させてしまう部分を持っている。

   女は言葉を切っていた
   包丁を振り下ろすと
   言葉が大人しく刻まれていく
   刻まれたうそを集めて女は
   霧の中に流し込んでいった

 こうして、霧の夜の女と男の寓意に満ちた情景が描写される。作品の始めと終わりにラジオからの台詞をくり返すことによって、大勢の人たちのなかの無名の男女の一情景であることが、効果的に伝わってきていた。

 「不思議な夜」という作品では、時が降り、波を立て、零れている。「人の中の時も流れ出してしまう夜」があるのだという。印象的な作品だった。
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詩集「幸福の速度」 吉田義昭 (2019/11) 土曜美術社出版販売

2019-12-23 16:38:49 | 詩集
 第9詩集か。93頁に33編の作品を11編ずつ3章に分けて収めている。挿画は柿本忠男の見事な水彩画。

 今回の詩集の作品はすべて6行を1連とした4連で構成されている。作者の覚書によれば、俳句に触発されて自分の詩にも形式が欲しいと思って始めたとのこと。ただし、4連構成ではあるが「起承転結を意識すると自由でなくなるので、意味性と言葉のリズム、そしてさらに自己への批評性を意識した」とのこと。

 第1章は「人生論詩編」。作者が実際に目にした事象からの思いが作品化されている。いくつかの病を乗り越え、奥様に先立たれた作者のこれまでの人生と、そしてこれからの人生が、どのように今の自分の内側を照らそうとしているのか、それを確かめようとしているようだ。

   朝空を見つめ白いテーブルに腰掛ける独り家族
   妻に死なれ急激に心から疲れきっていた私でも
   ゆったりと静かに自分を見つめ直して暮らし
   老いる幸福の速度に従い柔らかく行きていただけ
                       (「朝食の時間」より)

 第2章は「いのちの詩編」、第3章は「社会学詩編」である。
 「投影男」は墓参りをしたときの作品。代々の歴史が眠っているその地では、その一端につながる自分の生き方が改めて自分に問われたのだろう。歳をとり、誰でもが己につながる地に眠る日がやってくる。それにふさわしい生き方の自分だったのだろうかと。

   私は私をこの時代の何処かに置き忘れていたのですね
   生き方を問わずに強引に生きてきたのですから
   ただ急いでお墓さえ通り過ぎる人生だったようです
   本当はここで静かに立ち止まらなければならないのに

 巻末にはすべての作品についての「詩を解説した私的な補足」が付いている。このことからもこれらの作品が実際の作者の暮らしの中から生まれてきたものであることが判る。
 詩集タイトルは「幸福の速度」であるが、ここに描かれているのはいずれも”運命の速度”である。作者にはそれらの運命が幸福につながっていて欲しいとの思いがあるのだろう。
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詩集「女に聞け」 宮尾節子 (2019/10) 響文社

2019-12-11 22:25:14 | 詩集
 143頁に53編を収める。クラウドファンディングで出版されたとのこと。表紙カバーには、大きな眼を見ひらき大きな唇を半開きにした(一見怖ろしげな)女性の顔が、井原由美子の切り絵であしらわれている。

 伝えたいことを直球で投げつけてくるような詩集である。そこには作者の(虐げられてきた)女性の位置を取り戻そうとする思いがあるようだ。
 女性の強さが何に由来しているかというと、それは自分の肉体の中で生命を育て、その新たな生命を自分の中からこの世界に取りだしたということを、自分の肉体の記憶として知っているという自負に拠るだろう。それは「恥ずかしい、格好をし」て「ひとりで踏ん張」ったという、誰にも反論させない事実である。(もちろんここでは、子供を産めない医学的な状態にある女性、あるいは子供を産まない選択をした女性については、次元の異なることなので触れない。作者もそのような女性の存在を軽視しているわけではないだろう)。

   どんな姿から いったい何が生まれるか。生まれないか。
   おとこよ、だから
   あなたが忘れている。産声を、わたしは知っている。
                          (「女に聞け」より)

 しかし、そのことを根拠に言われても男はおそらく困ってしまう。なぜならそれは肉体的な差異から生じることでどうすることもできないことだからである。どちらが優位ということではなく、肉体的には男女は不平等なのだから。

   けんぽうきゅうじょうに、ゆびいっぽん
   おとこが、ふれるな。やかましい!
   平和のことは、女に聞け。
                         (「女に聞け」最終連)

 (少し話がそれるが、人間は肉体的には生まれたときから不平等な存在である、ということはきれい事ではない。先天的に言葉を持てない人はいるし、自分の力だけでは呼吸もできない人もいる。肉体的には不平等に人は生まれてくる。そのことを踏まえたうえで社会は人のことを考えなくてはならない。子供を産めない女性への配慮は、こうした男女問題を考えるときに大事である。)

 もちろんここにあるのは、ギリシャ喜劇「女の平和」にも通じるような、男女の思考形態、そして嗜好形態の違いから来る女の苛立ち、怒りであるだろう。さらに言えば、この詩集で詩われている”女”は、一般の社会生活における男女の性のそれではなく、さらに大きな意味での”人類にとっての母性”のようなものであるかもしれない。
 しかしそれにしても、根底に男女の”逆差別”があるのではないかと思ってしまうのは、私(瀬崎)が子供を産むことのできない(宿命を背負った)男だから?
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詩集「風の巣」 本多寿 (2019/11) 本多企画

2019-12-09 09:36:04 | 詩集
 正方形の判型で117頁に19作を収める。作者によれば、フィンランドでは宿り木を「風の巣」と呼び習わしているとのこと。

 この詩集の根幹は9編の「樹下連祷(原文は旧字体)」連作であろう。それぞれの作品題には「凪」「坤」「芒」「昏」などの文字が添えられている。
 「樹下連祷(凪)」。「空をゆらしつづけている木の枝」の庭には毀れた椅子があり、泥にうもれた空き瓶がある。そこには自分だけがいて、自分だけと向き合っている。すると、

   ぼくの内部で
   少しずつ傾いていく天秤があり
   かすかに揺れている

 これから暮れようとしている庭は、話者が生きて来た道程が積みかさなってできているのだろう。そして決してこの庭を踏み越えることができないことを知っているのに、それでもここから歩きはじめようとする決意がある。最終連は「空の奥から ぼくの眼のまえに/光の梯子がおりてくる」

 「樹下連祷(劫)」。庭では小さなものたちの生命が懸命に営まれている。そして木々もまた風に揺れたりしているのだろうが、根が枯れた古木は大きく傾いているのだ。生命は交代して受け継がれていくものなのだろう。

   ぼくの内側で
   ふいに
   一本の木が裂ける

   ぼくの口から
   木の悲鳴が洩れる
   舌から
   青い樹液が滴る
   両眼を
   落ち葉がふさぐ

 生命が溢れていて、その受け継ぎにもあふれている庭で、話者はおのれの生命の限りについて感じるものがあるのだろう。それは、庭の中に在ることによってより一層切実なものとして感じるものなのだろう。やがて「ぼくは/ぼくのなかで/行き暮れる」のだ。

 詩集最後に置かれた作品「曠野」の最終連は、「空は どこまでもひろく/風が その生まれたところにもどっていく」だった。
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