瀬崎祐の本棚

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「ライラック」11号 群馬 /「composition」4号 埼玉 (発行日は共に2020/07)

2020-06-30 17:59:16 | 「ら行」で始まる詩誌
 個人誌を2つ取りあげる。

 「ライラック」は房内はるみの個人誌。A4用紙を3つ折りにした体裁で、2編の詩とエッセイを載せている。
「雨の日には」。
 亡くなった母の家で見つけた箱の中には、話者が五歳の頃に遊んだあそび道具が入っていたのだ。母は「五歳の私を箱の中に閉じこめ」「時々蓋をあけ/五歳の私を取りだしていたのだろう」。だから今、話者は雨の降る日には林には行かずにひとり遊びをしているのだ。最終連は、
 
   雨は降り続いている
   かなしみに似た静かな雨だ
   ひとり遊びはいつまでも終わらない
   指がだんだん透けていく
   魂だけが林の奥へ奥へ入っていく

 素直に、亡き母が思ってくれていたであろう自分への愛に、いつまでも浸っていられる作品だった。

 「composition」は葉山美玖の個人誌。こちらもA4用紙を3つ折りにしている。葉山の詩3編に、ゲストの北畑光男の詩を1編載せる。
 「乳母車」葉山美玖。
 アパートの窓から「人気のない三月がよく見える」のだ。荷を降ろすトラックが止まっていたり、自転車の女子高生が走って行ったりするのだが、やはりそれは「人気のない三月」なのだ。

   誰も乗っていない
   乳母車が通る
   桃の木の下に

 その乳母車に乗っている筈だったのは、もしかすれば話者だったのかもしれない。しかし乳母車に乗せてもらっている自分の姿が、話者にはいつまでも見えないのかもしれない。詩誌の最後に「昨年の夏に母が他界いたしました」との記載があった。乳母車を押すはずだった人はもうどこにもいなくなったのだろう。(作品以外からの作者についての情報についてはここでは触れない)

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「CROSS ROAD」  15号  (2020/05)  三重

2020-06-26 21:20:41 | ローマ字で始まる詩誌
 北川朱実の個人誌。16頁に詩3編と、連載エッセイ2編をのせる。

 「夏のピアノ」。長い年月を経てピアノの音は壊れていると調律師が言うのだ。その日は朝から雨が降っていて「鍵盤の中も/雨が降り続いているのだろう」と話者は思う。

   人は石に
   石はやがて
   砂に還るように

   キリンの長い首のような
   さびしい年月をほどいて

   雨の日は雨の
   風の日は風の音に
   還っただけではないのか

 時が流れ、話者は流れて行ってしまった「音を拾いに/海岸を歩く」のだ。北川の作品は、書かれた言葉と言葉の間、そして行と行の間を静かに満たし始める書かれなかったものを読ませる。書かれなかったものが大変に豊穣なのだ。うっとりとする。最終部分は、

   母の声に似た
   ゆるんだ音が一つ

   鍵盤に引っかかっている

 後半には見開き2頁の2編のエッセイが連載されている。
 一つは、毎回一人のジャズマンを取り上げる「伝説のプイヤー」。今回はマイルス・デイヴィス。もちろん彼ほどにもなれば逸話は数えきれないほどある。そんな中でどのような切り口でマイルスを語るか、ということになる。北川は、マイルスが理由もなく通りがかりの警官に殴打されたという事件を紹介する。そして「この夜の悲しみは、その後のマイルスに暗く美しい音をもたらした。」とする。彼の名演として「枯葉」を挙げており、「あの哀愁に満ちた錆びた旋律」は(おそらくはキャノンボール・アダレイ名義の「サムシン・エルス」での演奏を指しているのだろう)「本当はトランペットではなく、彼の声ではなかったか。」と結んでいる。ジャズが大好きな人の、こんな話を誰かに聞かせたい、という思いがよく伝わってくるエッセイで、毎号楽しみにしている。

 もう一つは「路地漂流」と題するもので、作家にゆかりの地にまつわる逸話である。今回取り上げていたのは「娼婦の街を風のように」と、吉行淳之介であった。鮎川信夫が「吉行の文章なら何でも読む」と書いていたとは知らなかった。
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詩集「流星は魂の白い涙」 洞口英夫 (2020/04) 思潮社

2020-06-23 17:43:54 | 詩集
 112頁に52編を収める。行分け詩のほとんどが見開き2頁に収まる長さとなっている。

 ふとした瞬間に出会う感情を素早く捉えている。たとえばそれは空中にいる魂を見つけたことだったり(「とびかっている魂」)、長く夢を見ていた自分に気づくことだったり(「長居」)する。
 「青空」では、「自分が落ちたあたりの青空を見」ている。その破けた穴はすぐに消えてしまっている。12行の短い作品で、後半部分は、

   ありったけの郷愁をこめて
   青空を見る

   自分が落ちたあたりの
   青空を見る

 説明はできないのだが誰もが、ああ、何となくそんな気になることがあるな、という感じを巧みに捉えている。油彩画のように感情を幾重にも塗り重ねるのではなく、素描のような簡明さがそこにはある。それが作者の持ち味といっていいだろう。

 自分の意ではないそういった感情の訪れは、ときに自分の存在を不確かなものに感じさせてもしてしまうようだ。自分が立ち去った部屋にもう一人の自分が残っているようだったり(「部屋」)、もうひとつの同じ世界にも自分がいるのではないかと考えたりしている(「みえないが在るおなじせかい)」。
 「異界」でも、散歩の途中で話者はガクっと異次元に入り込む。異次元にもこちらの世界と同じ人物がいるようなのだ。

   自分が二人いて
   こっちの自分が
   異界にはいりこんだり
   あっちの自分が
   こっちに出現したりする

 しかし、果たして異界はどちらなのだろう。あっちの自分が本物ではないと思っているのはこっちの自分だけではないか。作品「異界から抜けでてくるのは」では、あっちの自分がこっちの自分を助けにあらわれたりするのだ。そして作品「めくれ」では、「空中がめくれ/魂の世が現われる」のだ。

 自己の存在をどこか突き放して見ているような、そんな感情に満ちた詩集だった。

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浜木綿 古谷鏡子 (2020/06) 空とぶキリン社

2020-06-19 08:05:48 | 詩集
 第5詩集。89頁に22編を収める。

 人影の途絶えた人工物の中に話者はたたずむ。それは煉瓦造りの塀や石の壁で確立された風景だ。たったひとりでいる話者は、そんな場所でそこにはいない人を見ている。
 「石の壁に」は、蝉の抜け殻を見ている作品。話者はその「からっぽのからだのなか」にあるものを感じ、流刑地サハリンの調査報告を書いたチェホフを思う。そしてシベリア鉄道での旅を約束していた友達を思う。

   友人は
   ひとりで 先に出かけてしまった
   いまごろあなたはどのあたりの軌道を走っているのだろう
   冥王星が惑星の輪からはずされたように
   暗闇のなかを たったひとりで
   まわりつづけ

 そして話者の目の前には冬の風が吹きぬけるからっぽのからだがあるのだ。誰もいない地に肉体はありながら、想念はそこにいない人を追っている。

 詩集の後半では柔らかな自然の中での作品となる。花が咲き、夏が来て秋が来る。そしてくもはそらをながれ、月は欠ける。ここでも「あなた」は出てくるのだが、それ以外の他者はあらわれない。風景の中でやはり話者はいつも独りでいるようだ。
 「擬態を生きる」。ある種の生物は本当の自分の姿を隠して生きる。それが生き延びるための方法であるわけだ。

   それは擬態じゃないよ と あなたは笑う
   そう 擬態を生きるということはとても滑稽な話かもしれない
   人はその滑稽な日々を大まじめに生きようと 懸命に
   コンピューターのキイをたたき じゃがいもの皮をむく

 特有の個人的な部分を隠して、無名のサラリーマンとなり無名の主婦となる。人も必死に擬態をして社会の中で生きているわけだ。それが生き延びるための方法なのだろうか。虫は葉っぱにぶらさがって演技をしているが、あなたはどうする?と問いかけての最終行は「あの空の 流れる雲のかたまりからぶらさがってみようかな くもの糸の」。かなり絶望的な状況なのだが、作者にはさらりと身をかわしているたくましさがある

 片耳をなくして空を飛べなくなった兎の作品が3編ある。与えられた状況の受容と、その場での意思が寓話として描かれていた。
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よるのくに 福田恒明 (2020/04) 思潮社

2020-06-16 17:59:03 | 詩集
 第1詩集。94頁に21編を収める。
 この詩集の話者は読み手に親しげに語りかけてくる。その語り口は読み手に寄り添ってくれているようで、つい気持ちを楽にして読んでしまうのだが、実はその親しげさの裏には苦い毒味が隠されている。

 「シャングリラ」。すてきだったパーティ会場でわたしとあなたは混同され、区別が付かなくなってくる。パーティはおぞましいものたちの宴で、

   恋を語り合うようにいつもの会話、じゃなくて独り言、を繰り返したよね
   だけど、ゆっくりと薄れていった
   やがて、あなたも私もいなくなって、
   そしていつか、おぞましいものの一部となった。

 わたしとあなたは、おそらくまったく似ていないのではないだろうか。だからこそ混同されることが嬉しくて、ひとつのものに溶けあうことを夢想しているのだろう。それが自分の存在を薄くすることだとしても、だ。

 次の作品「きろえちゃんへ」でも、ぼくは(憧れの)きろえちゃんと一体になろうと夢想している。確個たる自分として相手と対峙するのではなく、自分を薄くして相手の存在に寄生していく願望のようにも思える。

   夕焼けで内臓色に染まったきみの住む町をあるきながら
   ここはすでに きみの中なのでは?
   という気がして
   メロンパン屋さんのお兄さんに
   ほほえみかけてみたよ。

 とても不安定に自分の存在が揺れている。そしてそういったことを書き留めることによって自分を繋ぎ止めているようにも思えてくる。

 「葬儀」。服をきたまま「ゆるやかに流れる川のなかをみんなで歩く」のである。それが葬列なのだ。もしかすれば、川の流れは故人と過ごした時間の流れであり、それをもう一度ふりかえるような儀式なのかもしれないと思えてくる。

   街をひとめぐりしたあとで
   遺体をのせた舟に火がつけられる。
   そのまわりをみんなでめぐる。
   水面に映る炎がとてもきれいだ。

 最終連は「そこにいない私/死者である私だけが/それを見ている。」

 詩集タイトルの作品はないのだが、ここに収められた作品は、自分の姿も見えない世界でその存在をなぞっているようだった。

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