瀬崎祐の本棚

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詩集「しおり紐のしまい方」 上手宰 (2018/06) 版木舎

2018-06-30 22:30:14 | 詩集
 第7詩集。101頁に25編を収める。

 冒頭に序詩として「詩集」が置かれている。タイトル通りに誰かに読まれている詩集の独白なのだが、「書いた人がいなくなってから/ほんとうの本の命は始まる」と、作者の己の作品に対しての考え方がよく伝わってくる。

   無言でうずくまり続ける私の暗がりに
   誰かが訪れて灯をともすことなどあるのだろうか

   それでも紙をめくる音に目覚める時がある
   誰が読んでいるのか分からないのに なぜか思う
   ああ あなたでしたか

 おそらくこれは作者の理想の形なのだろう。「あとがき」でも作者は「時々、人知れず私の詩は手紙になろうとしていることがある」と書いている。とても大切に詩を書いている人だからこそ言えることだと思う。

 「帰宅途中」は、シルエットになったあなたが私を見ているために私もそこから帰れなくなってしまう作品。

   気付けば私もそこに根付き始めている
   思い出にみとれて立ちどまる者は
   枯葉を足元に落としがちだ
   自分に気付かれない 時の数えかたで

 本質につながるような事象が巧みな寓話として差しだされてくる。とらえられた状況としてはかなり厳しいものがあるのだが、読み手が優しい気持ちになれるのは、語り手がまた優しいからにちがいない。
 「しおり紐のしまい方」。しおり紐は、いつか戻ってきてくれる人を「永遠にその場所で待ち続けている」。その人が「そのまま二度と姿を現さなくても」だ。しかし、そんなしおり紐は本を読み終わった時にはどうなってしまうのだろうか。人の一生が終わった時も。この作品の最終連は、

   その日 私と言葉たちがそこから出て行くと
   何もかもが消えた 白いページの中で
   しおり紐は 見慣れぬ不思議な文字になる

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詩集「寒い駅で」 山本萌 (2018/06) 書肆夢々

2018-06-28 22:34:06 | 詩集
第8詩集。86頁に17編を収める。
 毎年のカレンダーも制作している作者のクレパス画は、色がその狭間を溶けこませて柔らかに広がる。そんなクレパス画がカバーを飾っている。

 「遠い絵 のなかの」には、瀬崎の詩「雨を忘れて」の冒頭5行が引用されている。拙作は「鯨の親子が泣いている絵を/幼子が描いている」と始まる詩なのだが、それを受けて作者は「わたしのなかで/遠いわたしが泣いている」と書き留める。とっくにわたしのなかを通りすぎたと思っていた時間は、やはりまだ残っていて、今のわたしに話しかけてくるのだろう。

   チューリップのスカートの
   わたしが ひとり
   泣いている
   遠い絵 のなかの
   わたしを
   <幼子>が
   憶い出そうとして

 こうして私(瀬崎)の書いた作品を契機としてまた新たな作品が創られている。素晴らしい読み手にめぐりあうことができて、私の「雨を忘れて」は大変に幸せな作品になれたと思う。

 「寒い駅で」。あなたと一緒に電車を待っていた話者の前には、大型の客船が「ずぅーんと/辷るように入って来たのだ」。私たちはその幻の船に乗りこもうとする。そこは「夕暮れ迫る駅」なのに、私たちにとっては「誰も帰って来られない島」へ出発する場所になったのだ。

   さよなら 寂寥の蛍光灯が 点滅する 寒い
   駅よ さよなら やわらかなアナウンスの 
   幻視の声よ さよなら さよなら ついに老
   い果て 消尽するほかない 私たちの 夢の
   秘策よ

 ふいにこんな駅はあらわれるのだろう。そんなとき、一編の作品を残して作者はどこかへ旅立ってしまうのだろう。

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詩集「空へ」 境節 (2018/05) 思潮社

2018-06-26 21:30:47 | 詩集
 第12詩集。94頁に37編を収める。作者が若い頃に描いたという2つのデッサンが載っている。

 作品のタイトルには言いかけた言葉が多用されている。たとえば「あの夏の」、「夢の」、「空を」、「一輪の」などなど。そして動詞も言いかけられて終わっている。たとえば「浮いて」、「知らされて」、「まねかれて」などなど。作者の、未だ終わらない、まだ動き続ける、という意志のあらわれなのかもしれない。

 「ためされて」では、作者は詩を書くことによってなにかを失ったかもしれないと感じている。しかし、「まだ詩は書ききれていない/失うものもこれからふえるだろう」と続ける。

   少しずつきもちがないで
   逃げた小鳥の数を知る
   まっくらな背景を
   のぞきこんでしまう

 なにを主題にしたにしても、詩を書くことは、そのたびに新しく自分を書きあげていくことでもあるのだろう。それを作者は自分の「生き方がためされている」のだと感じている。詩を書くことが自分の生きていくことと強く結びついている。

 そして同時に言い切ることのできない不安もあるのだろう。これまでの生は充分に長いものであったはずなのだが、それでもなお言い切るには足りないものがあると感じているのだろう。
 「越えて」では、「影絵のような/少女が歩いていく」。そして、時を超越するように少女はいなくなる。

   なつかしい荷車が通る
   そのあとは 闇
   現実を越えて
   影が わたしを
   追い抜いていく

 わたしは何に追い抜かれたのだろうか。もしかすれば、少女はかっての日の自分だったのかも知れない。
 作者の作品は、少女時代を振り返り、友人・知人との関わり合いを見直し、今の自分の有り様を見つめ直している。比較的短い息継ぎで各行が形作られた独白体での作品であるのだが、そのどの作品も無駄がそぎ落とされた緊張感を保っている。
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岬豹 1号 (2018/05) 東京

2018-06-21 21:25:55 | 「ま行」で始まる詩誌
 海埜今日子の個人誌の創刊号。A4用紙1枚を三つ折りにした体裁。
 海埜が引いている中沢新一によれば「古代語で「サッ」という音そのものが、境界を意味していた」とのこと。そして海埜自身は「岬的なもの、境界に惹かれる度合いが大きくなってきた、あるいは、狭間にいたいという気持ちが濃くなってきたように感じています。」とのこと。

 「花底蛇(カテイノジャ)」。
 タイトルは中国の諺から来ている。華やかな美しさには邪悪なものもまた潜んでいるということのようだ。「きれいなものと、魔」そして「自然と悪」は近しいものだという。桜には死がよりそっており、その花の下で蛇は鎌首を持ち上げるのだろう。

   その桜は、実をつけない、めでられるためだけの。
   だから、均衡を、かいているのだろうか。ひとのつ
   くった、ひとから、はなれた。えんえんと、つづく、
   無果実の、瞬く、魔、だ。

 桜が持つ妖艶さに感じてしまう不吉なものを、言葉がまとわりついてくるような語法で描いている作品。最終連は短く途切れながら、「きれい、めくれ、汚れ、とおい、季節だ」。

 花草双紙と題したエッセイも載っており、今号は「1 コバンソウの慎ましさ」。
 話者の住まいの近くには古墳があり、そのふもとにコバンソウが群生していたという。話者が小学生だったころに種苗販売のカタログで見ていたのがコバンソウだったのだ。それは亡くなった父君の思い出にもつながっているようだ。

    そのコバンソウの群生。こんなにっしゅうしているのを見るのは初めてだった。
    しかも古墳のような、聖を含んだ場所で。それは、若い黄緑色で、キラキラと輝
    いていた。午後の光をあび、古墳の縁を守るようにそこにあった。

 ほんわりとしてくるような読後感のエッセイであった。これからも草花について書かれていくのだろう。
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詩集「旅の文法」 柴田三吉 (2018/05) ジャンクション・ハーベスト

2018-06-19 22:41:34 | 詩集
 101頁に21編を収める。
 「靴を洗う」。どこかから戻り、話者は丹念に「見えないものを含んだ土」を靴からこそぎ落とす。そして「見えないものが付着した髪を」洗う。洗い流される泡には、いつもの日常生活にはなかったものが含まれているのだ。そういう行為をしなければならない話者は、「罪を犯したのか」と自問する。あまりの理不尽なことに原罪のようなものさえ感じているのだろう。もちろん、靴を洗い髪を洗わなければならない人たちの罪ではない。洗わさなければならないような事態を引き起こした何ものかが居るわけだ。

   見えないものはいつか
   見えるものになるのだろうか
   わたしたちを感光板にし
   黒い光の粒となって

 ここには怒りを通り越してしまった悲しみのようなものがある。ともすれば諦観に向かってしまう手前で、こうして言葉に書きとめることによって踏みとどまる意志がある。この作品が書かれた意味はそこにあるだろう。

 その次におかれている「ズーム」は、福島県双葉郡からわずか80kmの地点にある父の生家の航空写真をみている作品。詩誌「Junction」発表時に感想を書いている。

 沖縄、韓国への旅で書かれた作品も収められている。
 「窃視症の夏」は、観光地にある望遠鏡を覗いていた作品。その視野には農夫や学校帰りらしい女の子が入ってきたのだ。遠くから観られていることも知らない二人はすれ違い、話者の視野から外れていく。

   そこに、ほんとうに農夫がいて、女の子がいた
   のだろうか。レンズは音もなく閉じられ、台座
   から離れると、眼前には、まばゆく光るイムジ
   ンガンの流れ。

 イムジンガンは南北朝鮮の国境に沿うように流れている。作者が覗いた光景は、あるいはその国境を越えたものだったのかも知れない。偶然に”窃視”した人の人生が話者とはまったく無関係なところにあるだけに、かえって重く感じられるのかも知れない。
コメント (2)
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