瀬崎祐の本棚

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ピエ  19号  (2017/04)  北海道

2017-05-29 16:25:00 | 「は行」で始まる詩誌
 海東セラの個人誌。毎号きれいな糸で中綴じされている。表紙はHOTAKAのカラー写真で、本田征爾の水彩画が挿画として用いられている。瀟洒な手作り感のある詩誌。

 「明滅」海東セラ。
 庭で少年は翅のある生きものを捕らえている。網の中でもがいているそれらを、やがて葬るのはわたしなのだ。少年はミルクをこぼし、半ズボンの裾が濡れる。

   初夏だったはず。枝と葉の揺れるかげの窓をゆがめながら、ミルクは
   いくばくかの小さな虫を溺れさせ、窒息させたかもしれません。わたし
   の指は汚れています。気づいたときには、どうしていつも遅いのか。い
   つのまにか溺れそうになる。ミルクはうすく広がろうとして。

 夏の草いきれが満ちている庭、それは生命があふれているような場所なのだが、そこでの生命の儚さが揺れている。独白体の文章が柔らかくうねりながら深いところへ潜りこんでいくようだ。

 「さがしもの」中村郁恵は寄稿作品。
 自分の中に在る言葉をさがしあてようとしている。欲しいのは言葉の輪郭だけであったりするし、それまでは不要だった言葉が意味を持ち始めることもある。なかなかに難しい。

   ほんとうに欲しい言葉は どこに
   反芻しても飲み込めない
   いつまでも着地を覚えない
   鈍いひかりの言葉は どこに

 言葉をさがしていることを、どのような言葉であらわせばよいのか。そのためには”欲しい言葉”をさがしあてない限りは、やはりあらわすことはできないのだろうな。難しい。
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乾河  79号  (2017/06)  兵庫

2017-05-27 09:23:02 | 「か行」で始まる詩誌
 A5版、23頁、中綴じの手頃な肌触りの詩誌。5人が集まっている。

 齋藤健一は4編の短い散文詩を載せている。どの作品も断定口調での描写に拠っているのだが、それは奇妙に捩れていく。イメージをたどっていくと、いつのまにか遠い地点にまできている。たとえば「家の人」は「黒っぽい衣服に相似した端書を投書する。」と始まる。

   春風がいま子供の汚れ襟だ。屋根のあわさる曇天。そこ
   はトタン張りで草が生いしげる。縁側のランプ。下を照
   らし見ている。

「手」冨岡郁子。
 手の届かないところを口でなめているという。その言いようには、偏執的な、憎しみと裏表一体になった愛のようなものも感じられる。「しかし去ってゆくのは/ことばなの」だという。感情と身体が混沌としてきて、最終部分は、

   逸れてゆく
   あなたをなぞっています

 「お昼のパスタ」夏目美知子。
 大切な人との思い出を描いている。その人は「忘れることです」と私に言ってくれたようなのだ。小窓から公園を見ていたそのときの私がよみがえる。そして今はお昼のパスタを作ろうとしている。静かな哀悼の作品。

   遠くから「忘れることです」と付け加えるように言った人
   は、二月に亡くなった。「それは私には難しいんです」と
   私が訴える前に。

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多島海  31 (2017/05)  兵庫

2017-05-24 22:42:51 | 「た行」で始まる詩誌
 やや小ぶりのB6版、36頁の詩誌で、4人が集まっている。

 「花屋の前で」江口節。
 花立てに入れる花は、庭で摘んだり花屋で求めたりする。作者の息子さんは、そんな花立ての横の写真の中にいて、あの女性(ひと)はチューリップを持ってきてくれたのだ。

   あのひとの人生はこれからの方が長いから
   もう連絡するのはやめましょうね
   夫とふたり
   そっと門扉を閉めたのだった

 おそらくは義理の娘になるはずの人だったのだろう。その人に忘れてもらうのは辛いことだが、忘れてもらわないことも、やはり辛いことなのだ。優しい気持ちが寄り添って、それからゆっくりと遠ざかっていく。

 同人はそれぞれエッセイも載せている。
 松本衆司の「四十年ぶりの新しい時間」は、三十九年間務めた教職を辞する決意をしたときの思いを書いている。終わりの意識が訪れて、逡巡の果てに、「ああ、やめていいんだ。」と思えたときの開放感が伝わってきた。そうだろうな、と思ってしまう。
 私事になるが、私は未だ(形ばかりではあるが)常勤を続けている。そのために業界の新しい知識は常に習得しなければならない。学会にも出席しなくてはならない。そんなことがまったく不要になる日が来たら、と考えると、この松本の文章はとても人ごととは思えないものだった。
 しかし、このエッセイにはオチがあった。それまでの職場を退職した作者は、乞われて、なんと関連校の教師になったのだ。おや、おや・・・。 
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エッセイ集「アカシアはアカシアか?」 高階杞一 (2017/05) 澪標

2017-05-23 18:43:32 | 詩集
 副題は「詩歌の植物」。これまで知らなかったのだが、作者は農学部出身で、大きな公園の造園技師をされていたとのこと。そうだったのか。
 ということで、この書は古今東西の詩歌に出てくる植物についてのエッセイ集。詩誌「びーぐる」に連載されていたものをまとめている。

 たとえば冒頭の「アカシアはアカシアか?」で取り上げられるのは、郷原宏の作品に出てくる”ニセネムノキ”。実際にはこんな名前の街路樹はないだろう、おそらく”ニセアカシア”の誤りだろう、とのこと。ニセアカシアはハリエンジュのことで、アカシアとは見た目はまったく似ていないとのこと。では、何故、日本ではそのような言い方が広まってしまったのか、さらに、北原白秋が作品「片恋」で詩っている”あかしあ”は、実はニセアカシアであろうと推測している。その根拠は・・・と続く専門家の話は面白い。

 他にも三好達治、西脇順三郎、春山行夫、大手拓次の作品に出てくるバラについて考察したり、萩原朔太郎の作品「小出新道」に出てくる松林の表現から、その道がどこを差しているのか、考察したりしている。専門家の目はそんなことも考えるのか。
 中原中也と立原道造の作品に出てくる植物の種類などから、二人の生活ぶりをさぐったりもしているのは面白い視点だった。

 アヤメ、カキツバタ、それにショウブ。こうくると、私のような一般の人はまず見分けられないだろう。しかし専門家が見れば違いは一目瞭然のようなのだ。ふ~む。これらの花は古今和歌集のころからいろいろと詠まれている。作者は、みんな正確に見分けていたのだろうか?

本書では17編のエッセイが収められている。これまであまり気にせずに読み過ごしてきた詩歌の中の植物を本書のような視点で読むと、作品全体も今までとは違ったように鑑賞できるかもしれない。

 (蛇足)先日から夕方になると我が家の庭にツキミソウが白い花を咲かせている。野生でこの花が咲くのは珍しいようだ。太宰治の、富士には月見草がよく似合ふ、は実はマツヨイグサだったというのは有名な話。さらに竹久夢二はマツヨイグサを”宵待草”と言い間違えたらしい。
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るなりあ  38号  (2017/04)  神奈川

2017-05-16 21:21:35 | 「ら行」で始まる詩誌
 女性3人の詩誌。各自が2編ずつを載せている。

 「春の判れ」氏家篤子。
 偶然に隣りの席にいる二人の老嬢の話が聞こえてきているのだ。一人が遠くへ去っていくようで、取り止めもない会話で別れを惜しんでいるようなのだ。それは別れのためにはどうしても必要なことなのだろう。わが身を振り返ると、

   あんなふうに別れをしないでしまった別れが
   いまさら
   わたしを悔やませつづけている
   別れを失った のだ

 素直な気持ちで読める作品。誰にも判る普遍的な感情がそこにはある。”別れを失う”という表現にも惹かれた。

 「年の瀬」萩悦子。
 綱をつかんで瀬を渡ろうとしているようだ。瀬の流れは速く、その行為に怖れもあるのだろう。しかし、自分を鼓舞している。それは、自分の中に在るものを越えようとしていることなのだろう。そして越えた向こう岸には「蕾がそこここに/色を違えて膨らん」でいるはずなのだ。さあ、渡るのは今だ。

   気づかなかったとは
   言わせない

   渡れないとは
   言わせない

 「皿」鈴木正枝。
 皿を作るのが好きな人は、どの皿にもうさぎを描いた。昔うさぎを殺したことがあるからだとのことだった。その人が遠くへ去るときに「わたしの半分 と言って」、皿を半分くれたのだ。

   大皿には獣の肉を
   中皿には青菜や根菜をのせ
   うさぎといっしょに食べた
   時にもち米を半ごろしにした団子の小皿など
 
 大切に使っている皿には、血塗られた物語が張り付いている。その皿から食事を取るとき、わたしの中に少しずつ溜まってくるものはないのだろうか。魅力的な作品だけに、最終部分がいささか甘くなった気がしたのは残念だった。
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