瀬崎祐の本棚

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詩集「微熱期」 峯澤典子 (2022/06) 思潮社

2022-06-28 19:00:46 | 詩集
第4詩集。108頁に20編を収める。

「夏の雨と」。明け方の雨が「夢のなかの/夏の地図を濡らしていった」のだ。作品をおおうように柔らかい言葉がうねっている。誰かがそこにいる気配はあるものの、その姿を見ることはできない、そんなもどかしい感覚もある。話者は「雨の朝でも/暗いままの窓をひらきつづけよう」と呟いている。

   やわらかな月日の
   雨おとが
   わたしの濡れたまぶたのうえで
   まあたらしい
   夏のはじまりとなるように

いくつかの作品では、記憶の中で燃えていくものが詩われている。「Ripple」では、「夏の日暮れに、近くの納屋が燃えて」いたし、「紅玉の」でも「中央で燃えはじめた焚火」は刹那の欲望を照らしたようなのだ。失われるものがあり、失うことによって始まるものもあるのかもしれない。4行ずつの30の章からなる「未完の夏の眼に」については以前に簡単に紹介しているが、その中に「燃えているのは 一度も投函されなかった記憶の束」という一行があった。炎が、今あらためて記述されることによって、もう一度何かを伝えようとしている。

「ヒヤシンス」。古い木造の洋館があり、「どこかで手を洗い続ける水の音」が聞こえて、「長い時間の樹液を含んだ琥珀色の廊下」があり、「だれかが連れてゆかれるたびに暗い木の床に夕刻のひかりが差」すのだ。玄関にヒヤシンスが飾られていたその洋館は壊され、「中庭の小さな火は遠い子守歌となって燃えつづけた」のだ。そして、おとなになってからの旅。

   わたしたちはなにも話さなかった。泣いても叫んでも、もうことば
   は伝わらないから。永遠に離れ、遠くから思いつづけることでしか、
   だれかを知ることはできないのだと。

どこまでもはっきりとは捉えることができない言葉が横たわっている。音や匂い、燃えてしまったものの形、それらが話者に絡みついている。

「カーテン」、「アクアマリン」、「真珠」については詩誌発表時に簡単な紹介記事を書いている。
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詩誌「CROSS ROAD」 19号  (2022/05)  三重

2022-06-25 22:05:24 | ローマ字で始まる詩誌
毎号楽しみにしている北川朱実の個人誌。20頁。

今号の寄稿作品は福間健二「きのうの雲」。
話者は最近の日記は言葉三つだけだという。たとえばある日は「晩年/ウクライナ/からし菜」である。この言葉がその人が生きたその日を担っているのだろう。そしてそれらの言葉からの想念が話者をどこかへ連れ去ろうとしているようだ。昼の夢には若い女性もあらわれる。最終連は、

   いや、ちがう。何も言わずに炎を踏み消して
   どこかに行ってしまったが
   煙が目にしみる。
   きのうの雲が隠しきれなかったものを
   これから見るのだ。

私(瀬崎)の感じ取り方としては、日記の言葉には常に肉体がつきまとっている。しかし詩の言葉はそれとは異なり、作者の肉体から生じながらも作品となった時点で肉体を消し去る。どうだろうか?

北川は3編の詩を載せている。その中から「偏西風」。
下校時には側溝の金網の上やマンホールのふたの上を歩き、喉が渇く。端的に作者が選び取った光景だけで構成される世界は、その外側にあるものを読む者に提供してくれる。数行で区切られた連の間隙が大変に効果的なのだ。文房具店の店先にあった地球儀を「力まかせに回す」と「日付変更線をまたぎ/青い軌道を越え」て「偏西風は/世界を一周」する。作者の意識も今の世界情勢に及んでいるのだろう。最終連は、

   土手下の
   水たまりに落ちた飛行機を
   川ごと
   ランドセルに引き込んで
   溺れながら歩く

下校していた話者と世界が絡みあう。言葉は華麗に跳んで、作品世界はこの後もどこまでもひろがっていくようだ。
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詩集「へいたんな丘に立ち」 小篠真琴 (2022/05) アオサギ

2022-06-21 22:33:52 | 詩集
第2詩集。93頁に24編を収める。
カバーには北海道在住の作者が撮影した写真が使われている。夏空の下になだらかに続く丘の稜線がおだやかだ。このような地での生活から書かれた作品が並んでいる。

「かもめを見送った日」。過疎の地で自家用車を運転できない人はバスに頼らなければならないが、収益が見込めないバス路線は廃止されてしまう。そんな状況にある地ではオンデマンドバスが導入されるという。しかし、病院へ通うおばあちゃんはどうすればいいのだろう。

   ひだり足の傷痕が ずきずきと痛んでは
   風に吹かれるたびに疼き出す

   疼きが強まると やがてじわりと雨が降った
   きょうも明日の午後からも
   雨が降ったなら体が濡れるだけ

足の便が不自由になるおばあちゃんと、古傷による話者の足の痛みの感覚が重なり合って、作品に深みを持たせていた。

「朝のひと時」は集中では珍しいファンタジー色の強い作品。食パンの耳からは2匹のうさぎがとび出し、キノコの化け物もあらわれる。絵本のように楽しい情景が展開されていた。

「つまずいた少年」。かけっこで転んだ少年は恥ずかしくて足を挫いたふりをした。すると、地球は高速自転して、

   気がつけば
   劇的ドラマの大号泣も
   メガネにスーツのエリートたちも

   とっくに
   ふるい人達に
   なりかわっていたから
   さあ
   立ち上がろう

この作品でもそうであるように、対象を見つめる作者の視点はいつも優しい。その人やそのものが、そのままの姿でそこに存在することを認めている優しさである。

ただ、あまりにもの優しさが作品から緊張感を奪っている気もしてしまう。遠くからはへいたんに見えた丘にも、ところによっては窪みがあり石が転がっているかもしれない。しかし、それを感じ取ることが作者にとって幸せなことか否かはわからないのだが。
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詩誌「spirit」Lesson6 (2022/06) 栃木

2022-06-14 22:03:24 | ローマ字で始まる詩誌
樋口武二編集・発行の詩誌で、50頁。寄稿者は樋口本人も入れて18人。

「李さんのしつけ糸が」石毛拓郎。
「一九七七年四月一日 突発性「顔面神経麻痺」治療のため、市立川崎病院の神経科にて。」という長い副題が付いている。顔面の右半分が麻痺しているおれの背後で「ピョンヤンは、燃えている。」と泣きじゃくる年老いた女がいる。すると「北」に渡った親友の声が聞こえたりするのだ。

   神経注射のせいで べっどで眠くなってきたおれの閉じた瞼に
   渡ったこともない半島が ぼんやり見えてきた
   いや 違う!
   李さんの沈痛な顔が ガバリと迫ってきたのだ。

半ばもうろうとした意識だからこそ見えたり聞こえたりし始めるものがあるのだろう。

樋口は行分け詩2編、散文詩2編を載せている。「残夢録」と題された散文詩は連作となっていて、今回は「その九 それぞれの季節の記憶に」、「その10 記憶の中で赤い魚が泳いでいた」である。いずれも夢で観た光景の記録という体裁を取っている。しかし話者を襲ってくるものははたして夢なのか、記憶なのか。過去の記憶といっても、それを今の私が再現しているのであれば、いまの私に訪れる夢とどこが異なるのだろうか。

   人と人との関係なんて、あやふやな幻想によって成り立っているだけだ
   から、もんだいなのは私じしんの飢餓感だけだ 歌声の響く朝に、取り
   返しのつかぬ夜のおぼろげな記憶が跳ねているだけのことで、あとはも
   う後悔という名の航海が待っているだけである 
                         (「残夢録 その10」)

私(瀬崎)は行分け詩の「水車」を載せてもらっている。私がそこにそのときにたしかに在った、ということを、対峙したものを描くことによって確かめようとした作品である。

   地球がまわり
   水車がまわる
   流れすぎようとしていたものが汲みあげられて
   どこかへはこばれていく
   めぐりの時間が用意されて
   子守歌を思い出そうとしている

7月に出る予定の詩集に作品をまとめてからは、この手法で書き始めている。詩誌「どぅるかまら」32号に発表予定の2編「銀河」「流路」も、同じ意図で書いたもの。さあ、このように書いていって、どこまで行くことができるか。
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詩集「木管サラダ」 山崎純治 (2022/06) 書肆侃侃房

2022-06-11 00:15:36 | 詩集
第6詩集。95頁に22編を収める。
今回はすべての作品が音楽に材をとっていた。あとがきによれば作者は六十年近くクラシックを聴いてきたとのこと。音楽を聴いている「その日常を」書いたとのこと。ほとんどの作品では最後に作曲者、曲名、演奏楽団が記されている。実際にその曲を聴きながら作品をまとめたのだろう。

「家路」。ドヴォルザーク「新世界より」の第二楽章は私(瀬崎)でもよく知っている曲。家から誰かが「ちょっと」と言って出かけたのだが、近くの小学校の下校時の音楽が鳴ってもまだ帰ってこない。もう音楽は止み「小学校はいつしか廃校になっていた」のだ。

   どこまで歩いたか
   何を見たか
   寒くはないか
   そうとも思えなかったが
   強い決意を秘め
   ドアを閉めたかもしれない

オリジナル歌詞の「ホーム」は”家”ではなく”故郷”の意とのことだが、この曲に付いているイメージを巧みに活かした詩となっている。最終連は、「いつまで待つのだろう/また取り残されるか/いつか/ぽつんと帰ってくるか」。ちなみに、私(瀬崎)は「新世界より」では勇壮な調子の第4楽章が好きである。

絵画や、映画、そして音楽と、他の分野のものを材にして詩を書くのはかなりむずかしいように感じる。その対象をある程度は説明しなければならず、そのうえでそこからは離れた地点に向かわなければ詩に書いた意味が生まれないからだ。その点では、あくまでも作者の居る場所へ対象を引き込んでいることが好かったと思える。

「白黒つけずに」。この作品に付いている註は、バッハ「平均律クラヴィーア曲集」。チェンバロのキンキンとした音色の、いささか単調とも思える旋律が浮かぶ。話者は転々と住まいを変えた来し方を思い、

   すでに齢も半分以上過ぎたいま
   狭い海峡に隔てられ
   鮮やかに転調できず
   いつまでも足を踏み出せず
   ぼんやり佇んで
   ひと眠りしたのか
   気づくと最後のフーガが鳴っている

メリハリがあるのかないのか、どこまで演奏が続けば終わるのか、そんなことをぼんやりと感じさせる曲想によく合った詩だった。

音楽を対象にした詩集だったが、極端に言えば、詩が書き始められた時点では、その契機となった音楽はもう不要となる。そして、音楽によって変貌した作者だけがそこに残って詩を書きつづければよいのだろう。
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