瀬崎祐の本棚

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詩集「盲目」  為平澪  (2016/07)  土曜美術社出版販売

2016-07-27 23:06:17 | 詩集
 詩と思想新人賞叢書の1冊。110頁に27編を収める。
 「あとがき」には大きな活字でただ1行、「-この物語は虚構の形をした真実である。」と書かれている。前詩集「割れたトマト」でも、作者が社会生活を送るうえでの不自由さをかかえていることはうかがえた。本誌集でも私は街の光景の中で、それはすなわち他人が形づくるものなのだが、抗いつづけている。
 「私の中心」は、「今 私の中心に私はいない」と始まる。そして「私の真ん中」を探してスーパーのゴミ箱や彼とはぐれたバス停をさまよう。

   一生懸命探しまくった私の姿をみた彼は
   「予想以上に汚かったね」と、いうと
   私の中心をポケットから 取り出して目の前で
   嗤いながら 握り潰した

 この不様とさえ思える必死さを露わにしなければならないほどに、話者は抗っている。それは自分自身を規定するものに対してなのだろう。
  「レンタル長女」もすさまじい。ここにも、ある性に規定されてしまっていることへの抗いがある。

    真っ赤な月が出ています。アソコには、あなた方が望んだ長女がいるか
   もしれません。それとも、私が探している少女が、もしかしたら・・・。
    月が余りにも、赤いのです。まるで何かを裏切るように、空には反逆の
   目玉が光っています。

 ここには、自分を創り出した父母へ対する恨みと、それ故に同時に存在する依存が葛藤しているようだ。
 詩集を読み終えると、「あとがき」に書かれた1行があらためて作者から突きつけられてくる。
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生き事  11号  (2016/夏)  東京

2016-07-25 21:44:34 | 「あ行」で始まる詩誌
 「どこへ」坂多瑩子。
「風でとばされた/ぼうしを追っかけている赤毛の男」が窓の外をよぎっていったのだが、あたしのところには「ぼうしのほう」がやってきたのだ。台所は夜になり、ぼうしが言う、

   ずいぶん昔に
   お土産ですよって
   大叔母さんがくれたグリーンの表紙の本
   色の悪い花びらが舞っていて
   ぼうしがあご髭をはやしていた

 寓意があるような、そんなものはどこかに置いてきてしまっているような、そんな作品。軽い語り口が、どこかに棘のある童話を思わせる、そんな雰囲気の作品。もちろん赤毛男は「ゆくえふめい」なのだ。

 「あぶない人間」和田まさ子。 
 この通りでは地面から棘が出ていて、記憶を抜き取られるのだ。見知らぬ人が増えていつからかあぶなくなった。だからわたしは「隠れ場所を探す」のだ。

   スーパーマーケットの奥に鮮魚店
   隠れるのにちょうどいいから
   ときどき行く
   まだ人間だが
   人間もあぶないから
   いつか魚になるような気がする

 あぶないのは場所なのか。いや、あぶない場所などというものはなくて、あぶない人間だけがあるのだろう。

 「営団」廿楽順治。
 「ずいぶんとふるくなった営団へ」「蓑にくる」んだ妻を売りにいくのだ。そんなこんなで、営団地下鉄で都会の地下をさまよっているようだ。

   永田町では
   ちいさく息つぎをしていました
   もうひとに見せるような背中は育てないのさ
   (そりゃそうだ)
   営団はさびしいんだもの
                 (註:原文は下揃えである)

 詩行を書き写しながら、このイメージの跳び移り方に酔いしれてしまう。これはまるで、地上の道筋とはまったく異なる経路で土地を結びつけている地下鉄そのものではないか。
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詩集「碓氷」  田村雅之  (2016/06)  砂子屋書房

2016-07-22 09:33:20 | 詩集
 第12詩集。101頁に22編を収め、小池光と佐々木幹郎の栞が付く。
 いなくなってしまった女へ捧げている作品「待っているから」の一節を引く。蘊蓄を傾ける作者独特の書きっぷりに、やがてまとわりつき始めるものがある。俗な言い方になるが、情感があふれ出すと言っていいのかもしれない。

   山姥さがしに出かけたまま
   行方しれずの女
   蛍石のように戯れたりせず
   鳥総立(とぶさだて))に似た
   旗さしものを差しておくから
   是非に
   それを辿って帰ってきてほしい

栞で小池は作者の作品を「抒情的で、わかりやすく、愛唱性に富むフレーズを多々ちりばめている」と評している。どの作品にも流れているこの抒情性が何処から来ているのかといえば、彼の視線が常に過去を向いていることと無関係ではないと考えられる。彼の作品では、話者は頑なまでに未来を見ようとはしていない。今ですら、過去を見ることの繋がりとして認識されている。
 詩集タイトルである「碓氷へ」という作品。碓氷は作者の郷里であり、そこには「社や墓があるし/数百坪の土地や生家もまだある」のだ。その地は作者の気持ちが拠るところであるのだろう。迷いも不安もそこに立ち返ることによって見つめ直すこともできるような、そんな地であるのだろう。最終部分は、

   そろり玄関わきのくぐり戸を入ると
   お帰りなさい、と
   女が出迎えてくれた
   ところできみはいったい
   何者なのだ

 作者のルーツを背負ったようなこの女性の出現が効果的に作品を支えている。
 書き留めることによってすべては過去になる。こうして過去を検証し、そこを確かめることによって今の自分の立ち位置が露わになる。未来を言葉にするなどという野暮なことは田村雅之はしないのだ。
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詩集「sound & color」  高塚謙太郎  (2016/07)  七月堂

2016-07-16 21:28:20 | 詩集
 99頁に41編の行分け詩を収める。
 作品は平仮名が多用され、漢字はとても限定されて使われている。そのために視覚的に柔らかい感じを与えてくる。さらに表現は独白体で、うねるような柔らかいリズムが内在されている。
 「のどかに愛し」は21行の作品。「のどかに愛し/きのうあったこともうかんでいる」のだ。ぬるい湯に時間を越えて身をゆだねているような、気怠さともとれる穏やかさが満ちている。

   てをあわせならすしかないとおもうと
   えんえんとこえをならべて
   みているとえんえんとえんえんと
   とおく羽ばたいているほねのおとがきこえる
   たがいにひびきあってでもいるかのよう
   どんなにそらがせまいことか

 この作品でもそうなのだが、作者が詩っているのは状態や状況であり、ここでは事件は起きていない。そのために尖って突き刺してくるものではなく、どこまでも粘りながら絡みついてくるものが構築されている。
 絡みつくものは、日常の約束事からはわずかにずれながら差し出されてくるので、気がつくと読み手が座っている世界も、美しく少しずれたものとなっているのだ。
 「すずめ」は、おそらくはファッションとは無縁の「きたきりすずめのわたし」の独白。

   日々はいずれも部屋にあったし
   わたしは部屋でひねもすきたきりすずめ
   からだをあらためるときのみ
   ほうりだされる衣るいのなかで
   ひる寝をしたりテレビをみたりしている

 そんなわたしの「ふしぎにのどかなのどのなかから/うたがうまれて/ただただかなしいだけ/それだけ部屋にすわっている」。舌を切られていない雀からの語呂合わせのような地点から出発しながら、余韻のある詩(うた)にまでたどりついている。尋常ではない力業が、うわべはゆるやかに見える作品に込められている。
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ユルトラ・バルズ  26号  (2016/05)  東京

2016-07-14 19:16:25 | 「や行」で始まる詩誌
 「風の神」中本道代。
 自分の体の中に冷たく醒めたものがあるようではっとさせられるのだ。けれどもそれは確かに自分なので、懐かしいものでもあるのだろう。

   黒い眸がじっと見つめているようであった
   いや 眸ではなく
   体の奥深くから見つめてくるものがあって

 最終連では「私の中に棲んで/私が死ぬときに一緒に死ぬ」。私の中にあるもう一人の私は、いつも私を支えてきてくれていたのかもしれない。 

 「めぐる」森本恵。
 おそらくは石と土でできた古い教会を訪れている。そこは巡礼による歴史が刻まれた場所なのだろう。そしておそらくはその裏手にあるトイレにわたしは行く。

   この手洗いの先は聖地のどこへ。補聴器をなくし床に蹲り探す人がいて
   聞こえない耳、わたしたちの耳。聞く耳のある者は聞きなさい。
   「出口」の矢印に導かれて行けば、駐車場に待つ、
   ラクダ。

話者が巡って求めているものが、アラブの地の強い陽射しにくっきりと濃い影を落としているようだ。

 「臍、壁、音痴」國峰照子。
 それぞれのあることに取り憑かれた3人の男が、散文詩型で詩われる。たとえば「臍について一生考えつづけた男」は、臍が移動することに気づいて、

   肉体のどこかに回転軸があるはずだ。そこが精神というものの正体
   ではないか。あるいは不可視な魂というものも、そこに蜜のように
   はりついているのかもしれない。

 取り憑かれるということは、どこかでそのものとの同化を夢みているのではないかと思わされる。先の男は「悲哀の歯車を探りつづけ」て「そして引き取り手のないモノにな」っていくのである。壁の前に立つ男も、音痴を研究した男も、ついには取り憑かれたものに呑み込まれていったようだ。 
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