瀬崎祐の本棚

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みなみのかぜ 3号 (2018/02) 熊本

2018-03-29 18:15:23 | 「ま行」で始まる詩誌
熊本(あるいはその隣県)に縁のある人が集まっている。7人の詩作品(ひとつは既詩集からの転載)、それに2つの評論が載っている。

「途上」清水らくは。
早朝5時の空に満月が見えたのである。それは”扉”だと理解した私はそこへ飛び込むのである。それはなにかを追い求める行為なのだが、もちろん生きている間はいつまでも続くようなことでもある。若さゆえのまばゆいような”途上”に作者はいるのだろう。

   まだ開いていない扉がある
   塗り直されたばかりの道を歩いて
   住み慣れた家へと帰る
   月のない昼間に
   不完全な私がいる

「九品寺」平川綾真智。
作者独特の言葉のリズムで、雨に濡れた風景が描かれ、それに呼応した話者の湿った奥底が展開される。”九品寺”が特定の寺を指すのか、単に地名を刺すのかは定かではないが、極楽往生への澱んだ希求があるようだ。言葉は言い切られるのか、それともその言葉への未練を引きずるのか、話者の意識もどこまでも澱んでいくようだ。

   匂う 、 細身が移って生える 。
   出窓に種雨粒の瘡蓋、が未だ潤い硝子へ縫い込まれ つ
   、ていく気配の微かへ腰、を抱きあげたら、
   もいでみる手淫、 に肌が穴を持ち
   連なる風通りが一塊の悪寒を 。作って、のし掛かる

麻田あつき詩集「おおきな魚*トジル」の書評を「少女性から、まなざされた太母」と題して平川綾真智が書いている(その詩集から「トジル」が転載されている)。少女として登場した麻田がとらえようとした作品世界を、的確に評している。
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交野が原  84号  (2018/04) 大阪

2018-03-27 20:48:18 | 「か行」で始まる詩誌
「雨学者」北原千代。
わたしは市立図書館で知り合った初老の雨学者と一緒に霊園に行く。わたしたちは「生まれてこのかた 雨に甘えたことが」ないのだ。

   わたしたちは互いに手をつないでも芯が冷た
   く 上水道の乳に育てられた 乳飲み子のよ
   うです 幼い老人の姿勢で それぞれの暗闇
   に咲く 饐えた紫陽花の乳房を吸っているの
   でした

北原の作品にはわたしの道案内、あるいは拠り所となるような初老の先生がしばしばあらわれる。それは北原自身が欠いていると認識しているような存在のようなものなのだろう。どこか隠微な匂いが雨に濡れた風景から漂ってくる。

「部屋の内外(うちそと)」たかとう匡子。
「わたしの時間」に穴があいていたようなのだ。そこから雨が侵入してきて、名も知らぬ樹が話者の脳天に育ってきている。雨も「滝となって/天に向かって落ちている」のだ。すごいことになっているのだ。

   いつもの不整脈の
   開かずの間
   溶けていく生の時間がぬれて落ちないようにと
   かがみこんでうつつの密室に施錠している

わたしの内(うち)にある想念、わたしの内の状態、を巧みに視覚化している。

「市を濡れる、ねえ。」海埜今日子。
「ボロ市によせて」という副題が付いた3行8連の散文詩。ボロ市に並ぶ品物には、ひとつひとつにそれぞれの物語があるのだろう。だから、その場を歩く作者は、自分を取りまく様々な物語に揺れている。

   べつのにぎわいをみせる岸辺、ほかの川をおよぐ人びと。かれらは
   日々、市、的なものを、ひめているのだろうか。ちがうばしょで、
   あいさつをする。岸もまた、川のように流れ、おぼえ、忘れる。

人びとは川のように流れていくのだが、品物もまた市の終わりとともに、孕んだ物語とともにどこかへ流れていくのだろう。それにしても、”ねえ”としなだりかかられるように同意を求められても、困ってしまうのだが。
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詩集「未知」 池井昌樹 (2018/03) 思潮社

2018-03-24 20:55:48 | 詩集
 第21詩集(単行詩集としては18冊目)。155頁に52編を収める。題字は、詩誌「森羅」でも感心している丁寧な作者自身の手書き文字。
 本詩集でも、作者独特の平仮名表記の韻律をともなった作品が多く収められている。どこか諦観をともなったような独白体の作品は、その言葉のリズムによって郷愁を呼び起こす。

   こんなところでひとりきり
   ひとりごちたりわらったり
   だれにもであわなくていい
   なんにもおもわなくていい
   どこにもいないあのおとこ
               (「頓と」最終部分)

 そして本詩集には漢字も用いた行分け詩、散文詩も10数編収められている。
 「いつも」は、留守居を妻に託して何十年振りかで帰郷した物語。手入れが行き届いた実家には友垣が現れ、やがて孫にも曾孫にも恵まれる。しかし我に返った話者はすべてを抛り捨てて何十年振りかで夕日の差す町に戻るのだ。

   その角部屋の小窓には昔のまんまの灯が点(とも)り、
   いまははや、誰住まうとも知れぬ部屋の呼び鈴(りん)
   を、矢も盾もたまらずに押せば木扉(ドア)が開(あ)
   き、おかえんなさい、おそかったのね。妻が迎えてく
   れるのだ。何時ものように。

古来、一瞬の夢見の間に長い年月を経験する話は少なくない。しかし、この作品でも語りは韻律に支えられていて、夕陽に照らされた妻の黄色味をおびた顔がなつかしい光景のように浮かんでくる。

「星宿」では、話者は「どこかしらないところへゆく橋をみかけ」る。それは渡ってしまったらおそらく二度と戻っては来られない橋であることに、話者は気づいている。しかし、渡ってしまいたい誘惑も感じているようなのだ。最終部分は、

   あの日からもう二度と橋をみかけることはない
   あの日から
   どこかしらないところで
   星宿は夢のようにぼくの頭上を巡りつづけた

橋はどのようなときにその人の前にあらわれるのだろうか。もしかすれば、その橋を渡ってしまった自分もどこかにいるのかも知れないと、ふと思わせたりもする。
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ガーネット  84号  (2018/03)  兵庫

2018-03-22 18:25:41 | 「か行」で始まる詩誌
「ウィーク・エンド」神尾和寿。
断片的な呟きのような9章からなる作品。表面上はとりとめもなく彷徨う意識が捉えた外部事象を自分の内側に取りこもうとしている。そこに総体としての自分が在る。①を紹介する。

   ひどい天気だねと
   相棒がささやく
   僕は
   答えない
   「真っ赤なポルシェ」を抜き去ったのは
   ついさっきのこと
   ハンドルを握り直して
   前方を向く

「幹」高木敏次。
こちらは、自分の外の世界と対峙する孤独感が漂っている作品。自分の外の世界には何があるのだろうかと、確かめなくてはいられないような焦燥感もあるのかもしれない。逆説的にはなるが、そんな自分の外の世界によって自分は規定されているのかも知れない。最終部分は、

   私を忘れた男は
   どこかに住んでいて
   立ち上がり
   熱い果物のようなものがこみあげた
   私が駆けてくるのではないか
   振りかえる

高階杞一が「詩集から」というコーナーを連載している。私(瀬崎)も読んでいる詩集では自分の感性との違いを愉しむのだが、まったく知らない詩集に会わせてもらえることも嬉しい。中村薺「かりがね点のある風景」は87歳の方の詩集とのこと。柔らかく瑞々しい言葉に感心する。5連からなる作品「八月十五日」はあの玉音放送を詩っている。3連目を紹介する。その日は作者が六年生の夏休みだったようだ。

   未だ知らない人もいた
   わたしは肩越しにそれを聞いた
   鉄橋ではいつもと変わらない揺れ方だったから
   運転手は未だ知らずにいたらしい

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詩集「白虎の豚」 冨上芳秀 (2018/01) 詩遊社

2018-03-16 21:49:35 | 詩集
 第12詩集。101頁に81編の散文詩と上田寛子の絵9点が載っている。
 作者はこのところ毎年のように詩集を出している。これは私が拝読する7冊目の詩集だが、そのどれにも物語性を孕んだ夥しい数の作品がひしめいていた。

 「コタキナバル」。大阪京橋で深夜になると雑居ビルに現れる店がある。

  部屋の中では、月と日という姉妹が酒を注いでくれる。月の酒は甘く、日の酒は辛い。
  月と日の酒を飲めば、沁み入るような孤独な死の恐怖と引き換えに失われた世界の全
  て、つまり若さが回復される。

 しかし誰もその店に行ったことはなく、店の外で姉妹の酒を飲んでいるのである。だから、「ほら、きみの横に座った月も日もすっかりおばあさんになっているではないか」というわけだ。抗うことのできない時間の流れを面白く作品化している。

 後記で作者は、何かの思想や世界の意味など最初からないのが詩なのである、という。また「詩は言葉の意味ではなく、その世界を感じることである」とも言う。おおいに頷けることである。

 「事件の斧」。部屋には乾いた血痕が付いた斧があるのだ。

  貧しい子供がひもじくて辛いから殺してくれと父親に頼んで首を打たせた斧であると
  も言われている。私は何故、深夜、そんな部屋で斧を見つめているのかわからなかっ
  た。

 私はそんな斧を見つめているおそろしい夢を繰り返して見ていたのだが、そんな私の背後に誰かが近づいてくるのだ。話者は夢によって首を切られるのだろうか。

 それにしても、この旺盛な創作意欲には感嘆する。まるで作者の中ではあらゆる感情は物語の形を取ってあらわれてくるのではないかと思わせるほどである。
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