瀬崎祐の本棚

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「主題と変奏 -ポエジーの戯れ-」 日原正彦 (2024/03) ふたば工房

2024-03-28 18:50:14 | 詩集
第21詩集か。119頁に32編を収める。

「まえがき」には「本詩集では結構横着なポエジーとの戯れもやってみた。まじめな詩をお望みの方には不向きなので、閉じていただいて構わない。」とあった。しかし、叙情的な光景から抽象的な物理学の概念までもを言葉で捉える作者なので、”横着”で終わっているはずはないだろう。

「四季・恋」は、春夏秋冬の季節それぞれが恋をしているかのような洒落た作品だった。

「風」も遊び心から始まったような作品となっている。注釈に拠ればビューフォート風力階級表というのがあり、風の強さは13階級に分けられているとのこと。作品は「たいらでおだやか」から「うずまくものすごいかぜ」までの13章から成っており、それぞれの風が吹く世界を捉えている。8等級の「すばやくてつよいかぜ」は、

   ふうがわりなふうていのふうらいぼうがふっとんでくる
   かおが左右にねじれて 首の骨が外れそうだ
   肺のなかの無数の微少な風船が 一斉に爆発する

作者はかつて「降雨三十六景」というさまざまな雨を詩った作品を集めた詩集も作っていた。

「路上」には(本詩取り詩編)との副題が付いている。短歌の本歌取りのようなことをを試みたということだろう。島崎藤村「初恋」や高村光太郎「道程」などの有名作品15編を俎上に載せている。どの作品ででも、よく覚えている本詩のリズムから触発された作者の言葉を探し当てている。定型詩は決められた形式に当てはまるように自分の中から言葉を探してくるのだが、それと似たような世界の広げ方があるわけだ。
八木重吉の「素朴な琴」に拠ったとする「非望の椅子」を紹介しておく。

   この淋しさのなかへ
   立ち去らせし非望の椅子をおけば
   春の雨を思はず呼びいだし
   椅子は力なく濡れるだろう

思わずニヤリとしてしまう楽しさがある。作者はこの楽しさを読む人にも味わってもらいたかったのだろう。
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詩誌「交野が原」  96号  (2024/04) 大阪

2024-03-21 11:38:41 | 「か行」で始まる詩誌
金堀則夫編集/発行の詩誌。102頁に27人の詩作品、16編の書評などが載る。

「かんにん」八木忠栄。
「ならぬかんにん するがかんにん」という言葉から奈良と駿河の神主さんが登場してくる。こういう自由奔放な、それでいて作者の息づかいがちゃんと感じ取れるイメージの連鎖が楽しい。世界がぐんと広がる。

   やぶれたら 縫え
   と和尚はくりかえす
   門前の小僧たちも
   ただ それをくりかえす
   ながい参道も感情の崖っぷちも
   あぶない足もともそっくり
   やぶれたら 縫え
   それがはじまり

この世のしがらみや思惑といったものを超越したような爽快さがある作品だった。

「道の分岐」中本道代。
道の分岐点に家があり、「子供をくれんさい」と言って出て行く人がいたのだ。もらわれてきた子供と遊び、お嫁さんになってねと言われたのだが、

   その子は出奔して遠くへ逃げ
   婚約は果たされぬまま
   集落であまく匂っている

その地の怪しい習わしが話者の記憶にこびりついている。記憶があるので、話者はいつまでも分岐点に取り残されているようだ。分岐から別の側の道に行った子もいたのだろう。その子はどうなったのだろうか。

「思い出」たかとう匡子。
投げ出されて戸口が外れた鳥かごにはもう生きものの気配はなかったのだ。傷ついてやってきて棲みついたヒヨドリは、稲妻と同時に「野鳥の/記憶と回路を/とりもどしたのかも」しれなかったのだ。

   おぼつかない足取りで
   目のさきをぐるっとひとまわりして
   今はわたしのなかにあって
   迷彩の彼方
   消えかねている軌跡

落雷と同時に話者を襲った喪失。日常の一部になっていたものを失った感覚が陰影のある叙述で巧みに表現されていた。

瀬崎は「鱗粉」を発表している。
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詩誌「Down Beat」 22号 (2024/02)  神奈川

2024-03-17 15:20:05 | ローマ字で始まる詩誌
この詩誌、毎号さっぱり訳のわからない作品が少なくない。しかし、とてつもなく面白いのだ。

たとえば「とうぶつ屋」廿楽順治は、「見も知らぬ「かたち」が売られていたのだ」と始まる。タイトルからして謎めいているが、おそらくは”唐物屋”、つまり舶来品を商っている店、ということなのだろう。「犀の襞のようなもの」や「死んだ唐人の記憶のなかの毛布」が売られているようなのだ。

   格子状になっている場所に、外国人の眼の模型が埋めら
   れている。遠い眺めのなかにわたしたちはいる。

売られているものが話者にお前自身は売り物になるのかと迫ってくるようだ。

つづいて「ヒルガエシ」今鹿仙。このタイトルになると、もう思いつくものもない。触れたり見たりするという感覚が言葉を連れてきている。それらは理屈が追いつく前にとっくにどこかへ走り去っている。

   馬だけが河原にあがる世界で
   主観はただ湯気を
   出したりして
   交信することを望むのみだ

言葉をまき散らしておきながら話者は素知らぬ顔をしている。だから読む者も勝手に素知らぬ風を装うのだ。

さらに「家族」小川三郎では、「窓辺に顔が咲いている」のだ。部屋の隅では裸体が眠っていて、夢のなかで裸体を鏡に映している。理屈は通らないまでも、この作品のイメージは伝わりやすいものとなっている。買い物先のスーパーは顔と裸体でいっぱいだったのだ。この作品の最終連は、

   買い物を済ませ
   家に戻ると
   顔と裸体は
   ちょうどひとつに重なっており
   仏具のような見栄えであった

訳のわからないものの面白さとは一体何なのだろう。訳がわからなければ、面白さも判らないのではないか。いや、そんなことはないのだ。作者の言いたいことに律儀につきあおうとするから判らなくなるわけで、そんなことは投げ棄ててしまえばよいのではないだろうか。提示された作品から勝手に自分の光景を見ればよいのであって、今まで描くことのできなかった光景を連れてきてくれる作品が、とてつもなく面白いのだ。
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詩集「ひかりのような」 栁川碧斗 (2023/07) 七月堂

2024-03-12 17:11:46 | 詩集
91頁に18編を収める。

言葉はその役割として事物と結びついている。たとえば”犬”という言葉は当然のことながら生物としての犬そのものではないのだが、生物としての犬の属性を引き受けている。“犬”という言葉を読んだ人は実際の犬の属性をそこにみているわけだ。したがって、作品で言葉が使われる時、その言葉は指し示すものの属性をどのように引き受けているかを考えなければならないだろう。

「行方のために」。他者が存在することによって街は形成される。そこは「痛みを抱きしめられるように/髪がはためくための空間」なのだが、この町にいるはずの他者はまるで顔を持っていないようだ。話者がただ一人で彷徨っているようなのだ。

   漏れていく、街そのものが、
   溶けだした過去が不揃いに滴り階段を降りていく、部屋から出る、ぽつねんと佇む、光源、共振する、こちら、行く先を照らすように、
   遠くの人、だから、わたしたちの声を連れていき、一緒に過ごそう、と、手を繋ぐ、
   身体が震える前に、世界が侵される前に、過去をそうして思い出し、世界は、
   風でそれを純朴にする、シェルターが透き通る、市場が栄える

この詩集の作品では、言葉をただ言葉として機能させようとしているように感じられる。言葉が約束事として引き受けている実際の事物の存在は希薄なのだ。言葉は、その言葉が指し示す実際のものには頼らずに、言葉が担っている概念だけを利用しているようなのだ。言葉に纏わり付く余分なものをふるい落としているのかもしれない。

「親密さ/巡る」では、都会の摩天楼が一個の生命体のように話者に迫ってくる。

   平衡を犯す
   働きを始める
   突如雪が舞う
   わたしは涙袋の体躯を崩しつつ
   その運動をとりとめ
   わたしは背骨のずれていることを思い出し
   肩のしこりが
   神経を刺激する手が痺れる

作者は大学を卒業したばかりのようだ。若い感性が操る言葉の鋭利な角がいたるところにあり、大変に魅力的であった。
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詩誌「ガーネット」  102号  (2024/03)  兵庫

2024-03-08 22:16:17 | 「か行」で始まる詩誌
神尾和寿が、担当している「詩誌時評」の中で細田傳造の詩に関連して「真面目さに耐えられないほど深刻なので、ふざけてみせるしかない」ような詩が好きだといった意のことを書いている。なるほど、と思う。
そしてその神尾和寿の詩「毒のリンゴ」である。白雪姫に材をとりながら苦笑を抑えられない不気味な情景が差し出されてくる。リンゴを食べて「お姫様が倒れ込むのを/ぼくたちは待っている」のだ。額に脂汗を浮かべながらでも、お姫様の「本当の秘密は/まだ明かされていない」のだ。最終連は、

    待っている
    お姫様が淫らになるのを
    世界中が待っている

悪だくみの隠微さが愉快な作品なのだが、先に引いた神尾の言葉がこの作品に重なってくる。

「若桜町まで」漆谷正雄。ゆるやかに曲がりくねった田舎道には風にあおられた綿毛が舞っている。たどり着いた味噌造りの作業場では繊細な菌が好い仕事をしているのだ。「ちいさないのちだからこそどこへでもいける」ということを感覚として受け取っている。

   ここにくるまでのあいだに
   生まれ変わってしまったような気がした

最近出版された詩集「風を訪うまで」もそうだったのだが、以前に比して作品の感触が好い意味で生々しさを増してきている。

「変な顔」嘉陽安之。鉄棒の練習をしている娘を父親の話者は見ている。すると娘は「なんでパパ/私が回る時/変な顔してるの」と笑う。でも、きみが人生の冷たい鉄棒をまわらなくてはいけなくなったときにもパパはこんな顔で君の傍にいるのだよ。

   パパの変な顔
   それこそ
   きみに勇気を与え
   すべり落ちてしまっても
   きみを全力で受け止める
   父親の顔だよ

なんの説明も要らない無償の父親の愛情がここにある。こんな風に素直でまっすぐな作品を書けるのも、父親の自覚としての強さがあるからだろう。

同人のエッセイが並ぶ「ガーネット・タイム」に、大橋政人が「テレビの観方、詩の書き方」を書いていた。後半の「詩の書き方」についてでは、「早稲田文学」「詩学」からの原稿依頼事件(?)から学んだ教訓としての”詩のストック用ノート”についてが書かれていて、大変に面白かった。
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