瀬崎祐の本棚

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詩集「祖谷」  大倉元  (2013/05)  澪標

2013-06-28 20:30:33 | 詩集
 第2詩集。152頁に37編を収める。倉橋健一の栞が付く。
 かずら橋で有名な祖谷は著者の故郷であり、大半の作品がその地で育った日々に題材をとっている。そこには何の飾り言葉もなく、ただぽつんぽつんと記憶に残る風景や事物を書きしるしている。
 Ⅰ部では幼年から少年時代の、Ⅱ部では長じてからの、家族や祖谷の人々との話を語っている。母が亡くなってからは母親のような存在だった義姉は、今は老人ホームへ入っている。大勢の義弟妹のために働いてくれてきた人だ。その「ねえさん」は、

   「元さんは優しいんぞ男やのに」と
   ホームの人に話をする
   他所の人のようにぼくのことを言う
   そこでぼくは聞いてみた「元さんはどこにおるんぞ」
   「近くにおる」と言う
   ねえさんの中でぼくと元さんは
   どの位置関係にあるのか

 微笑ましくて、少しやるせない。
 著者の言葉は、第一詩集「石を蹴る」でもそうだったが、人の気持ちの奥にあるものをさりげなく差し出してくる。そこには感情的な言葉は一切省略されているが、充分に伝わってくるものがある。技巧をこえている言葉がある。
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詩集「明るい日」  野木京子  (2013/06)  思潮社

2013-06-25 19:07:06 | 詩集
 第4詩集。93頁に25編を収める。装幀は稲川方人、題字は宇田川新聞である。
 巻頭詩のように「婚礼」という作品がある。わたしらは、実体もなく、声帯もないようなのだ。そのわたしらは「遠い地点のその窪地に吹き溜まってい」て、「人には聞こえない音で鐘は響き続け 鐘が響くのでやむを得ず」「婚礼でもしようかと 廃墟の村の教会に集まる」のだ。そして「廃墟の地点でひゅうひゅう声を洩らしている」のである。
 泣きたくなるような切なさがある。”婚礼”という冠婚の儀式が、ここでは大いなる厄災に遭ったものたちへの鎮魂の行為のように思えてくる。そしてそれがこの詩集の通奏低音のように思えてくる。
 表題作「明るい日」は4つの章からなっている。ベランダから津波を見、原民喜の肉親者と共に広島郊外の道を歩く。そこでは”ひかり”と”音のしない欠片”が交差し、重なり合う。

   (貝がらはきっと割れているだろう
   (ひかりの色をした貝がらも
   (それでも声を出している

 詩集の至るところで東日本大震災と原爆が投下された広島が重なっている。光はそのような光景の中で、「光はどこを飛びまわっていても光?/空から降りて反射して また戻る」(「瓦礫の空」より)。その光のもとでの”声”を聞こうとしている。
 後半の作品では厄災は表面からは見えなくなっている。しかし、意識の底にはいつも流れているのだろう。
 「行李」では、押し入れの中の行李の「蓋を開けてやらないといけないのに」と、誰かの姉が駆け込んでくる。行李の中には「この日は知らない幼児が入っていた」のだ。その前の週には行李の中では一匹の魚が産卵をしていて、やがて無数の透明の稚魚が生まれる。

   その人は天眼鏡で一匹一匹を見て時間を流していたが、三日目に、行李の蓋は
   開けたままだったのに、部屋の空気そのものが悪かったのだろうか、透明だっ
   た稚魚はみんな、白く濁って、ぴくりとも動かず、底に並んで沈んでいた。未
   生から死後まで、たったの三日間、時間の橋を渡っただけだった。

 その行李はその人(わたしでもあるだろう)の持っている闇の中に置かれているのだろう。そこではひっそりといろいろな命がうまれ、静かなわずかな時間を送っているのだろう。どうすることもできない行李の中の出来事が、やはり切ない。
 さらに「紙人形」、「バス」「鳥たち」も魅力的な眩暈を引き起こしてくれる作品。
 「十六月」「ふわふわ」「光の魚」については、詩誌発表時に感想を書いている。
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詩集「忘れてきた風の街」  原田亘子  (2013/05)  空とぶキリン社

2013-06-24 20:16:07 | 詩集
 第2詩集。81頁のソフト・カバーで28編を収める。
 「あとがき」によれば著者には心の病もあるようだが、どの作品にも陰はなく明るい。自分の少し前にあるものだけを取りだして、それを見つめることで今の場所からの歩みを自分に励ましているのだろうか。
 「蓮根」も素直に対象に接して書かれた作品。蓮根の中にある九つの洞穴。泥の中で眠っていたときにはその数だけの夢を見ていたと書く。そして、

   蓮根を食べると
   なんだか気持ちがスーッと落ち着いてゆく
   洞穴が体の中に入ったせい?
   虚ろな心をすいあげてくれたのかしら
   たまには泥のように
   お眠りよ
   泥の中では
   蓮の花にしてあげるからと

 洞穴はもともと虚ろな部分であるわけだが、それが虚ろな心をすいあげてくれるという発想が楽しい。眠りも救いであるようだ。
 「忘れてきたもの」は、誰でもが共感できるような思いを取りだしている。「遠い日に忘れてきたもの」は沢山あってもう思い出せないほどなのだが、

   そうだ
   わたしは わたしを
   忘れてきた
   何がほしいのかわからず
   迷子の顔をして歩く
   十九歳のわたしを

 忘れてきた場所は、国分寺駅の南口駅前とのこと。
 詩集の装幀、表紙絵も、作品に寄り添うように柔らかく温かい。
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詩集「宇津の山辺」  秋山基夫  (2013/06)  和光出版

2013-06-23 18:22:30 | 詩集
 紺色の糸での和綴じ本である。50頁だが、「宇津の山辺」ただ一編を収めている。「後注」には「本作品は、「宗長手記」を脚色したものである」と記されており、「序」には連歌師であった宗長についての簡単な略歴もある。
 作品は、上、中、下の三部構成となっているのだが、どの部分が原典の引用現代語訳なのか、どの部分が秋山が書き加えた部分なのか、すでに混沌としている。さらに定家、芭蕉、蕪村、子規らの作品も縦横無尽に引用されている。

   季節は
   夏でした
   弟を尋ねて
   布引の滝を見に行きました
   飛沫が泪のようでありました
   白珠のようでもありました
   薄物を被った女に出会ったことは
   忘れられません
   弟が
   あずまの地の果てで
   めぐり会った女でしょうか
   すみだ川をわたり
   背丈をこえる草をわけていくと
   美しい女の
   髑髏の目から
   芒が生えているのを見たらしい
   流離のひとの
   泪が風に
   はらはらと散るのでした
     (行き行きて倒れ伏すとも萩の原)

 秋山の記述は変幻自在に跳びまわる。宗長を記述しているのだが、実際にはそれに触発された事柄を記述している自己への意識が要であろう。織り上げられたタペストリーのような作品の図柄は計算し尽くされたものであるだろう。
 秋山はこれらの手法を”脚色”、”編集”、“アレンジ”という語で説明しているが、それでできあがった作品は「もちろん詩以外ではない」としている。この詩集と同時に刊行された詩論集「引用詩論」(思潮社)を読んでみようと思わされる。
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評論集「影と飛沫」  愛嬌浩一  (2013/05)  書肆山住

2013-06-16 13:12:25 | 詩集
 文芸・映画評論集で、詩的現代叢書の2冊目となっている。
 第1部に小田実、黒井千次、三島由紀夫、それにあまり一般に走られていない2名についての20頁ぐらいずつの文章があり、第2部には遠丸立や吉本隆明などに関する数頁の短い文章、そして第3部では4篇の映画に関する文章を収めている。
 著者もあとがきで「雑文というしかないものだが」と述べているが、評論としてはあまり重く硬い気持ちにならずに読み進めることができる文章ばかりである。資料を駆使して解釈を差し出してくる論考というよりも、対象に対する著者の個人的な感覚がよく表れている文章といえる。
 そのために、有名作家についての文章よりも、太宰治の弟子である戸石泰一や私(瀬崎)が全く知らなかった作家、右遠俊郎(著者は「先生」と呼んでおり、「「先生」から文学の基本を学んだ」としている)に関する文章を面白く読んだ。
 第3部で取り上げられている映画は「十三人の刺客」、「桜田門外ノ変」、「ノルウェイの森」、「幕末太陽傳」、ノーラン監督版の「バットマン」三部作(著者は「ダークナイト」三部作と称している)であるが、私も全作を見ているので(引き合いに出される「キル・ビル」や「フォロー・ミー」も)その感想は興味深かった。
 ちなみに比較対照されている「十三人の刺客」と「桜田門外ノ変」の評価は私と全く反対であった。これだから映画を観るのは面白い。
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