瀬崎祐の本棚

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詩集「うそつき わたし もっと」  八木真央  (2015/06)  三宝社

2015-06-30 21:58:13 | 詩集
 第1詩集のようだ。正方形の判型でソフトカバー、69ページに31編を収める。
 詩集のタイトルは「うそつき」という作品に出てくる一節からきている。あなたの肉を食べたいというほどの感情に駆られながらの言葉。そのように、ここにある作品はどろどろとした重い感情をぶつけてくる。
 「切り花」。花瓶の花は水やりを忘れられて萎えていく。それは花ではなく、一瞬の絵画にしかすぎないと話者は言う。花は花瓶の底の腐臭で満たされた水を吸ってでも存えようとする。

   だから お前は
   なるたけ無残に色褪せて枯れるべきだ

   そして 存分に見せつけるべきだ
   しゃがれきった声で叫ぶ姿を
   根を奪われた生き物の

 美しかったはずの花に、激しい、憎悪にも似た気持ちがぶつけている。しかし、それは戦うものへの励ましでもあるようなのだ。話者は、切り花に自分の姿を重ね合わせているのだろうか。
「耳」は少しユーモアが混じった作品。あちらこちらに「王様のロバの耳が ゴロゴロ落ちてい」て、その王様は「哀しすぎて」耳の行方などには構っていられないのだ。で、みんなは王様たちのロバの耳が大好物でムシャムシャ噛むのだ。

   ロバの耳 ロバの耳 うるさいですね
   私は私 関係ないですよ
   と 髪をかき上げ うろたえる

   あ 耳がない

 自分に返ってくる皮肉たっぷりの作品。自分を突き放したところから捉える視点が生きている。
 少し気になったのは、作品にやや説明をしてしまっている部分があること。説明をしてしまうと、その分だけ飛翔が小さくなってしまう。せっかくの作品が勿体ないと感じた。
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詩集「そのようにして」  林嗣夫  (2015/07)  ふたば工房

2015-06-29 10:25:47 | 詩集
 114頁に25編を収める。
 作者は詩誌「兆」を発行しており、その毎号の「後記にかえて」では数頁の詩論を連載している。大上段に振りかぶったところのない、自然な思いから出た詩論で、いつも楽しみにしている。
 この詩集の作品も、日常のかすかなところから湧いてきたものの奥にある物語を拾いあつめている。
 「捜しているのは」では、「じっとしていられない気がして」買った二冊の本を助手席に置いて車を走らせている。しかし古い山道はカーブだらけで捜しているのが何だったのか、どこにあるのかが分からないのだ。

   カーブを曲がる
   ウグイスが鳴いているのに
   山桜も山に置いて
   いろいろ置いて
  カーブを曲がる

 実際にありそうな情景と気持ちの中の情景が巧みに混在されていて、リアリティを保ちながら芯のものだけをすくい上げている作品。
 「ティッシュペーパー」では、「これまで/どこにいるのか分からなかった神様が」わたしのところへやってきてくれるようになったという。しかし、その神様はただわたしを見ているだけのようなのだ。少しも偉そうではない。

   例えば座椅子をすこし後ろに倒して
   目薬など差していると
   そばに立って
   そのしぐさを不思議そうに眺める
   見なくてもいいものばかり見てきたせいだよ、
   とわたし

 すると神様は、ティッシュペーパーでわたしの目を拭ってくれたりするのである。まるでこの神様は亡くなった親しい友人の霊のような感じもしてくる。そんな存在のものを神様という呼ぶところに、肩の力の抜けた自然体の作者がいる。
 「野球帽」については、数年前に「現代詩手帖」の詩誌評で感想を書いている。
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詩集「傾いた家」  神田さよ  (2015/06)  思潮社

2015-06-25 22:07:04 | 詩集
 第5詩集。101頁に27編を収める。倉橋健一の栞が付いている。
 Ⅰの9編は東日本大震災の被災地を詩っている。作者の中では、かって自身が体験した阪神・淡路大震災と重ね合わされているのだろう。「沈黙の村」が詩われ、放射能が溢れ出している廃屋を「笑う箱」という。そこにはどこに向けたらよいのか判らないような怒りもあるのだろう。
 Ⅱ、Ⅲに収められた作品は寓意性の高いものとなっている。日常生活から立ち上がってきたものをそのまま捉えるのではなく、その立ち上がった形象の意味するものを抽出して捉えている。それは窮屈な理屈を跳びこえた地点で哀しみを捉え、時に滑稽味を帯びている。
 「秘書」では、メモを届けに会議室に行くと、役員たちは定規になっているのである。定規たちはとにかく線を引くようだ。そしてわたしは巻き尺になっている。

   わたしは福井常務の靴を見た 踵は減っていない 汗をかいていな
   いんだな きみきみ 議題のもう一つの点が見つからないんだ 一
   つはあるんだが もう一つの点がないと線が引けんからな 捜して
   きてくれ 急いでな

 ビルの高いところにあった点を見つけて秘書室に戻り、わたしは点ごと巻き取られるのである。何の説明も解釈も不要としたこの作品の登場人物は、真面目に頑張っているのに傍目にはどこか滑稽で、そして虚しい存在であるようだ。
 「マキ先生」で詩われるのは耳鼻科のマキ先生。ヘッドライトをつけて患者に空いた穴の奥を診察する。マキ先生の治療で病気はよく治るようなのだが、

   身体の管を辿っていくと
   暗闇の手前にはいつも医学書どおりの細菌がいる
   病名はすぐ付くのだがなにか違う気がする
   根本的な病原菌があるに違いない
   だからこんなにたくさんの病人が
   入れかわり立ちかわり来るのだ

 ヘッドライトを消して、待合室の電気も消すと、暗闇の診察室が残り「マキ先生はどこにもいな」くなる。医者の使命と、それからは本当はずれているものが上手く描かれている。マキ先生はお狐さんだったのかもしれないと勝手に想像した。
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詩集「川・海・魚等に関する個人的な省察」  八木幹夫  (2015/06)  砂子屋書房

2015-06-16 21:19:58 | 詩集
 第10詩集。117頁に29編を収める。
 詩集タイトルからも察せられるように、作品はすべて魚、あるいは魚を囲むものに材をとっている。「どぜう」、「鮭」、「大山椒魚」、「鯱」など魚名を作品タイトルとしたものも多い。作者は「川や海、そしてそこに棲む生き物はしばしば憂鬱に沈みかける私をインスパイヤーしてくれた」という。それらは「人間よりもはるかに遠い生命の記憶を持つからだ」という。作者がどれだけ深くこれらを必要としたかが判る。
 平易で親しげな語り口の作品には、小難しい理屈も大上段な社会問題も出ては来ない。しかしそこには、それらの表層の装いを取りさった後にはじめて見えてくるものが描かれている。
 「かわら」には、「どうしてこんな時間に/たったひとりで竿など振り回しているのだろう」と自分でも訝しく思いながら釣りをしている話者がいる。真っ赤な夕陽がみえ、私は少年だったのか、老人だったのかも判らないのだ。

   真っ赤な夕陽をみた
   どことも知れない川原で

   帰らなければならないのだが
   早く帰ってあやまらければならないのだが
   もう私には叱ってくれる
   だれもいない

現実の自分がいる時間や場所といった属性を取りさったときに、自分は何者なのかという問いがあらためて突きつけられてくるわけだ。その問いに対峙するためには、帰る場所にも拠らない孤独も必要とされたのだろう。
 「翻車魚」(この漢字を”まんぼう”と読める人はかなりの博識である)。どうやらわたしは真夜中にマンボウになってしまったらしいのだ。とても悲しいことがあったようなのだ。魚になってしまうのは、きっとそんなにもたくさんの涙を流したときなのだろう。

   トイレに行くのに
   しきりに
   背びれを立て
   胸びれを翻している
   溺れてしまいそうなのだが
   便器までたどりつけない
   もう人間に戻れない

 説明もなにも不要としたこの軽い、そしてどこか苦いユーモア感覚が楽しい。
 「魚語の翻訳」については詩誌発表時に簡単な感想を書いている。
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ERA  第三次4号  (201504)  東京

2015-06-14 00:32:55 | ローマ字で始まる詩誌
 通算では24号。現在の同人は青森から沖縄までの29人。半年ごとの合評会には半数以上の同人が集まる。

 「蝶と遺跡の記憶」尾世川正明。
 7行の詩4編からなる組み詩。どの作品も、現実からは離れたところに映写される幻像を描いているよう。
 「室内」では、ゼンマイ式の蓄音機で古い音楽を聴いていると、「肋骨が/一本ずつ折れてゆく音階」がはじまり、「夕立の雹がトタン屋根を激しく叩くような」音もする。音楽が部屋の中に流れる時間をすべて満たしているようだ。室内ではそれ以外の時間の流れはきっと赦されていないのだろう。だから、

   音楽は時間の狭間に閉じ込められて永遠に続くので
   室内にはからのガラスの瓶が一本だけ置かれていた

 「時の痕」岡野絵里子。
 4~5行の散文の7つの章から成る。話者である私は、自分が何者であるかを見失っているようだ。「3」は

    私は言葉を持っている 多すぎて口からあふれ出すほど 言葉は
   ぴちゃぴちゃと床にこぼれた この世界の言葉を沢山持っているの
   に 私は自分を持っていなかった

 言葉によって時間が作られ、私のたどる道も作られていくようだ。作品の最後は、初めて見るものは新しくて輝いており、それは「きれい 明るい」ので「とても悲しい」のだ。この作品は連作として書き続けられるようだ。私はどこへ向かうのだろうか。

 瀬崎は「腐海」を発表している。
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