瀬崎祐の本棚

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「森羅」 39号  (2023/03) 東京

2023-02-28 18:48:50 | 「さ行」で始まる詩誌
同人は粕谷栄市、池井昌樹に高橋順子が加わって3人となっている。
B5版、20頁で、手書き文字のコピーをホッチキスで止め、カラー画用紙の表紙を付けた暖かみのある詩誌。今号には谷川俊太郎、岩阪惠子が賓客として参加している。

「海鳥」粕谷栄市。
妻子と心中をしようとして自分だけが生き残ってしまった”私”のモノローグである。海辺の宿の窓からは、夜明けの灰色の砂浜、一羽だけの黒い海鳥が見えている。私は「無人の白波の寄せる渚で、ただ一羽、無心のときを過ごして」いる海鳥をいつまでも見ているのだ。この光景はなんなのだろうか。そしてそれを見る行為はなんなのだろうか。

    それを、一瞬の夢と呼ぶなら、それは、何なのだろう。
   今も、眠れない夜明け、私は、暗い海辺の宿の窓から、
   あの海鳥を見ていることがある。

この海辺の宿にいる“私”を語っている話者は、すでに“私”からは抜けだしてあの世へ旅立った人なのではないかと思えてくる。この茫漠とした情景は、その人が見ている夢なのではないだろうか。

「あなたのとなり」池井昌樹。
眠っているあなたの隣で、ふいにわたしはあなたが死んでしまう日のことを思うのだ。そしてそれが気になって「ねむれずに/おそろしい/ゆめをみた」のだ。そして、わたしはあなたなしではいられないと思うのだ。しかし、そこで露わになってくる辛い制約が、それぞれが抱えている寿命というものなのだろう。もちろんこの作品でそんな理屈が述べられているわけではない。ただ、この作品にある哀しみは、異なる寿命を持ってしまっているという意識からきているのだろう。

   だれかしらない
   あなたのとなり
   だれかしらない
   わたしがひとり
   あるときはじめてもういちど
   おそろしい
   ゆめをみる

名編再読の頁には芥川龍之介「戯作三昧」の十五が紹介されている。そして池井昌樹の詩「芥川龍之介とともに」(1972年「ユリイカ」初出のもの)が載っている。とても面白い趣向であった。
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詩集「骨考」 鷹取美保子 (2022/12) 土曜美術社出版販売

2023-02-22 22:14:08 | 詩集
第6詩集。161頁に36編を収める。
詩集全体が亡くなっていった人たちへの鎮魂のものとなっている。「正しい礼儀作法」では、死者に会う部屋に入る際の作法が書かれている。「死者は須弥壇を上り下りしては/記憶を確かめ合って」いたりするので、逝った者たちを驚かせてはいけないのだ。戒名も順序正しく唱えなければならないのだ。

この詩集の中核を成しているのは「骨考」の共通タイトルを持つ10編だろう。父母や姉など、血縁者との別れを残される骨に託して詩っている。そこにはもちろん哀惜の念があるのだが、肉親ならではの生前の確執への恨み言なども混じってくる。
「骨考 -拾う」は1連7行の4連からなる作品。1、2連は「わたしは あなたを 拾えない」とはじまり、遠い昔に別れたために骨を拾うことができない人への想いを詩っている。あなたとの関係は明らかにされないが、3連目は「あなたは わたしを 拾えない」と逆の立場を詩う。ここは巧みな展開だった。そして最終連は、

   あなたが わたしを 拾えるなら
   私は極上の一片(ひとひら)となり
   あなたのポケットで眠るだろう

骨という形あるものは、いつまでもその人の肉体の一部として認識される。まるで立ち去ったその人の意識まで宿っているようにも思われてくる。最終部分は「あなたは沈黙を忘れ/私だけの饒舌の人となるだろうか」。

もちろんこの詩集であらわされている別れは親兄弟に向けられたものだけではない。限られた命を持つ人すべてに向けられた別れでもある。
「雨あがり、そして風」。雨があがり風が吹いてくると、逝った人の気配が戻ってくるような感じになるのだ。言葉が甦り、最終部分は、

   この地にもどったあなたが
   雨あがりを楽しみ
   終着駅で眠る終電車のように
   体を休めることができますように

   天では もう
   あなたの転出届が出されただろうか

「後書きに代えて」には、「終の日に、手をのばせば、先に彼岸へ渡った血縁者や大切な人達が、すっと手を取り、力を貸してくれそうな気もする」とあった。作者と同年代の私(瀬崎)にも実感として伝わる思いだった。
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詩誌「こるり」 1号 (2023/02) 群馬

2023-02-20 21:37:15 | 「か行」で始まる詩誌
群馬に住む女性の二人誌で、年2回発行。
詩誌タイトルは青い羽根の小鳥に由来していて、表紙絵はその”こるり”を描いた中林三恵の銅版画である。
創刊号は16頁で、二人の詩、ショート・エッセイ、それにゲストの福間健二の詩を載せている。

「ノクターン」新井啓子。
冬の校舎にピアノ曲が流れている。それは、流暢だけれどもいらだっているような旋律なのだ。その旋律は話者の追憶の出来事から聞こえてくるのか、それとも現に聞こえているのか、作品はそんなことには拘らずに、ただピアノの旋律が運んでくるものに揺れている。

   音がひろがる 癖のある指運び 風のぬける部屋
   長い階段をあがった扉のむこうに
   音をたてる影が波うつ

誰にでも、ある光景を連れてくる旋律があると思う。それは理屈を越えた懐かしさを伴っていて、その人に時空を越えさせる力さえ持っている。この作品の最終部分は、「ノクターン/饒舌に ひそやかに きっぱりと/音がひらかれる」

「真昼の引力」房内はるみ。
気まぐれに訪れた町をさまよい、「初めて訪れたのになつかしい匂いがする」町の通りをぬけ、話者は赤い三角屋根の駅舎で電車を待っている。電車は二時三十五分にやって来るのだが、その電車を待つ人たちが駅に集まってくる。背後に抱えた生活も電車に乗る目的もみんなばらばらの人たちなのだが、その時刻に引き寄せられていくのだ。

   やがて電車は滑るようにやってきて
   わたしたちは 今度はひとつの塊になって
   プラットホームに影だけを残して二時三十五分にのみこまれていく
   ゆっくりと電車は動き出し
   わたしたちは大人しく運ばれていく
   極光という名の駅まで

私たちを支配しているなにか大きな力を想起させて、とても面白い着想の作品だった。

詩誌は10号で終刊予定とのことだが、活動期間をあらかじめ区切ることによって得られる濃密なものもあるだろう。大いに実りをあげて欲しい。
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詩集「ウムルアネケグリの十二月」 立木勲 (2023/02) 書肆子午線

2023-02-14 18:31:02 | 詩集
第2詩集。83頁に12編を載せる。
2016年に発行された詩集「ヨンとふたりで」の続編にあたる。韓国からひとりでやってきて作者の奥さんになったのがヨンヒさんである。この詩集もヨンと呼びかける妻との必死な日々を描いている。

「ヨンヒ(韓国から来た妻)」は7章からなる。妻は不妊症や子宮外妊娠で苦しみ(「十年目の冬」)、僕は妻が包んでくれたデザートのリンゴを持って街に出る(「りんご」)。ヨンは「わたしの心にはホンモノがないのです」「ウソを話しているのです 笑っているのです」と言い、ふたりはひとりひとりの痛みの中にいるのだ(「夜の川べり」)。異国にある孤独な妻と、その彼女を周り中のものから守ろうとする作者の営為が切ない。

   ヨンには不思議に何かが欠けている
   それで 時に道に迷い
   高島屋のベンチで ひとり 僕を待つ

   ヨンは不思議に何かを抱えている
   それで 雨の朝 僕が出かけるバス停で
   ひとつ傘に ふたり並んで バスを待つ
                    (「高島屋」より)

「イサオ(金曜日の午後)」。生活のための職場で僕はヨンのお握りを食べる。お握りは「ポロポロと手の中でこぼれて落ち」、「ポロポロと 僕の心もこぼれて落ちる」のだ。帰宅した僕にヨンは言う、

   今日は本当のイサオなの ?
     本当のイサオなのだと僕は言う
     けれどもヨンや
     本当のイサオがどこにいるのか
     時々、僕にもわからないのです

生活を共にする男女の心の機微がさらけ出されている。その辛さとともに、それを詩に書くという強さもあるように感じられる。

詩集タイトルにある「ウムル アネ ケグリ」とは、韓国語で「井戸の中の蛙」という意味とのこと。あとがきには「今でも、僕はふたりで落ち込んでいる井戸もしくは穴から這い上がろうと詩を書き続けている」とある。日本で暮らす韓国ルーツの妻と彼女に寄り添って生きている作者、ふたりの深いところへ沈み込んでいくような感情が漂っている詩集だった。
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詩誌「エウメニデス」 65号  (2023/02)  長野

2023-02-10 17:28:04 | 詩集
小島きみ子が1993年から発行していた個人誌「エウメニデス」が30年目の今号で終刊するとのこと。毎号寄稿者を迎えての内容は充実したもので、発行者の熱意が強く伝わってくるものになっていた。
今号は50頁で、詩は小笠原鳥類、高塚謙太郎、松尾真由美、京谷裕彰、海野今日子、それに小島きみ子。その他に5編のエッセイ、小島の読書日記が載っている。

「星糞翡翠」海埜今日子。
話者は縄文時代から石器や匂玉として使われていた黒曜石やヒスイが気になっている。「祝う」と「呪う」、そして「火が燃える」と「草木が萌える」。タイトルにもある”星糞”とは黒曜石の呼び名とのこと。耀きと糞は矛盾することはなく、「呪うと祝詞」なのだ。

    黒曜石の採掘跡を歩く。山道の足元で、星くそたち、きらきらと空をねむる。木漏れ日、
   さして。後日、ヒスイの産地にいった。緑は、流れる水の色でもあった。もえる、水のよ
   うに、ヒスイはつめたい。川ちかくの空を切った、あの鳥は。夜と昼、きらめいて。

小島きみ子は4編の詩を発表しているが、その中の「ⅲ 時間の若さが古い封筒の中で光っていた」。
すでに亡くなってしまった人が写っている新年会の古い写真が出てきたのである。その人とはリルケの話をしたのである。その人は「その時のまま若く時間が過ぎてゆく」のだ。写真の用紙は次第に古びていくのだが、その時に捉えられた映像そのものは時の流れには支配されないところに存在している。そして映像は見られることによって存在し始めるのだろう。

   以前は彼女が主宰する夜のコンサートでも平気で車を飛ばして行ったのだけれど
   夜の運転は自信が無くなった。嘆かわしいことばかりが続く中で古い写真は 今
   までに見たこともない二人で 楽しそうに笑っている

30年間お疲れ様でした。何かをやり終えての終刊なのか、それとも新たなことをはじめるための区切りなのか、いずれにしてもこれまで積みあげてきたものは燦然とそびえている。それに見守られて次の段階へ向かってください。
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