瀬崎祐の本棚

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詩集「越冬する馬」 谷元益男 (2022/09) 思潮社

2023-01-28 21:35:07 | 詩集
第9詩集。107頁に24編を収めている。

前詩集と同様に、題材は農作業をはじめとした村での生活にある。しかし作品はそれらの題材をふまえながらも、それが孕んでいる普遍的な問題へ迫ろうとしている。具体的な目に見える場所から、その奥に横たわっている場所へと沈んでいこうとする。

「種子」。「芽を出すはずの/種子」は、生命を受け継いでいくためのからくりなのだろう。それは個々の種子の願いとかとは無縁のところで定められていることなのだ。

   ひとつの季節が終わると
   次の時期に向かい
   ひかりを帯びたものだけが生き続ける
   木々は伐り倒されて死ぬが
   種子は あるとき地面に
   陰が長くなる陽炎な日に
   飛び降りる

種子にはそのあとに続く出来事のすべてが詰まっているわけだ。これからの時間が詰まっているといってもいいのかもしれない。種子は殻を破ってこれからの自分を解き放たなければならないのだが、なかにはそこで頓挫していくものもあるわけだ。最終連は「殻を破れないものは/はじめて自分が種であったことに/気付くのだ」と、いささかシニカルな視点を残して終わる。

「枝」。一度も村から出たことのない男が銀杏の枝を切り落としている。男は飼料を作り牛を飼い、「死ぬまで/他所の空気は吸いたくないと言い張った」りしている。そんな彼が枝を切っているのだが、

   手足が
   枝のように 節を持ち
   視線は遠くに投げたまま
   鉈は 胸に張りついた
   男の中にある村は
   皮と肉が切り離され
   枝肉となって遠くへはこばれていく

男の思いとは無関係に、当然のことながら彼の知らない世界は広がっている。彼の言動の奥にある思いを読み取ることはなかなかに難しい。そして私(瀬崎)には、作者がこの作品に込めた思いをくみ取ることもなかなかに難しかった。最終部分は、「空には/枝のように掛けられた/男の腕から/芽が出はじめている」
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詩集「ヘビと隊長」 桑田今日子 (2022/11) 詩遊社

2023-01-25 11:21:28 | 詩集
第1詩集。102頁に軽妙な感触の28編を収める。装幀は詩遊社の出版物ではお馴染みの上田寛子。カバーには白鳥にまたがって水の上を行く赤いワンピースの女性が描かれている。

冒頭の「ハミング」は、「もう若くはないよって/なにか/ふわふわしたものが/わたしから/抜けて行ったらしい」と始まる。自分でも捉えることができないこの曖昧な感覚が詩集全体に漂っている。脱力感のようでもあるのだが、その曖昧さを逆手に取った自己肯定感も読み取れる。そこには”ふわふわとした”快感もあるのだ。最終連は、

   ふわふわはね
   大草原を
   アルプスの少女になって
   飛びまわっている
   らしいよ
   ハミングが聞こえる
   あい変わらず

「些細な海から」。日常生活には文字通りに些細な細々としたことがあふれている。外出時の部屋の暖房、防虫剤の香り、トイレットペーパーの経済性、などなど。しかし、それらの些細な事柄に囲まれたところにいることによって今の私が成り立っている、という思いがある。潔い。この作品の最終連も鮮やかに着地している。

   台所でも
   熱したフライパンの上で
   黄金チャーハンのような
   フラメンコオムレツのような
   何かがくるっと跳ねっかえるんです
   ちゃんと見えていますか
   取りこぼさないよう

「ヘビと隊長」は、ジャングルの中で何百匹ものヘビにまとわりつかれる夢をみた話。そこは戦闘地帯で、話者はヘビを引きずり引きずられて前進するしかなく、隊長に叱咤激励されていたのだ。目覚めて朝の散歩に出かけると、「貴様、脱落したのかっ/ヘビに謝れっヘビに謝れっ」という隊長の怒鳴り声も遠のいていく。この隊長の言い分も愉快なのだが、秀逸なのはそのあと、

   帰ってきたら
   ヘビもいない誰もいない
   シーンとした家だった
   別の戦闘地帯に派遣されたようだ
   隊長、ここはどう突破しましょう

通り過ぎたはずの夢世界が、話者の目覚め後の実世界に侵食してきている。話者は、夢によって自分の中に隠れていたものに気づかされているのかもしれない。

亡くなった小学校の時の友だちを偲ぶ「原田くんの雨」は、しみじみと好い作品だった。
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詩集「テーブルのあしを洗っている葡萄酒色の海が・・・」 相沢正一郞 (2022/11) 砂子屋書房

2023-01-20 20:50:27 | 詩集
第9詩集。128頁に、連作からなる3編を載せている。

「テーブルのあしを洗っている葡萄酒色の海が・・・」は13編からなり、各編にはホメロス「オデュッセイア」からの引用が添えられている。そして各編で書かれる話者の日々の生活の些細なところにオデュッセイアの物語が重なっている。たとえば、台所のドアの隙間から雲が入ってきたり、夜中に台所で日記を付ける時間が溜まって熟れてきたり。「窓の外の埃っぽい喧噪が静まるころ、饒舌がや」み、

    それにしても、遅い。でも、手紙を待ちわびるように椅子が、そのひとを待つ
   時間なんて、戦争が終わって英雄が国に帰還するまでの長い航海に較べれば、所
   詮しれたもの。・・・・・・テーブルの表面にしろく捺印したコーヒーカップの丸い湯
   気のあとが消えないうちに三千年が過ぎた。  
                            (「第十三歌」最終部分)

次の「ウィリアム・シェイクスピアのための10の歌」は10編で、それぞれは「ハムレット」「リア王」「リチャード三世」などに想を得たものとなっている。物語の登場人物たちが勝手気ままに辺りをうろつき、軽妙な独白を披露している。

最後の「レシピのほかに必要な、もう一冊の本」の13編では、アーサー・ミラー、コナン・ドイル、リチャード・ブローディガンの本からの内容を織り込んでいる。
「10 歩くひと」では、話者は宮沢賢治全集を台所で読み出し、本のなかを歩き出す。

    宮沢賢治が「書く」とは、新しいあしあとを刻むこと。そして、わたしが「読
   む」とは、賢治のあしあとにわたしの足をおいて旅すること。いっしょに歩いて
   いるうちにだんだん作者の歩く速度や呼吸、心臓の鼓動や思索の流れとかさなっ
   てくる、ということ。

一度は立ち止まっていたわたしは「年老いたノートの切れ端のうえ」に「子どものまま裸足で立っている。」やがて賢治といっしょに歩きはじめた話者は「書け、書くんだぞ」と掛け声をかけるのである。

どの作品も、作者が様々な先人の文章に触発されて新しく構築したものであった。先人の文章はときに材料の一部であり、ときにスパイスとなっており、それらが重なることによって作品には独自の陰影が付加されていた。
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詩集「雨を交代で眠る凌ぐダンス」 中マキノ (2022/11) 私家版

2023-01-16 20:18:37 | 詩集
小冊子という風情の42頁に、濃密な20編を収める。
詩形としては行分け詩と散文詩が混在しているが、行分けの場合でも詩行は大変に長くなっているものがあり、二つの詩形の境界は作者にはそれほどないものと思われる。

巻頭に置かれた「ぬるい生物」の終わりの部分を紹介する(言葉は詩行をまたいで結びついている)。言葉を紡ぐ呼吸は長く、そこにあるのはリズムというよりも波動である。

   (略)砂に足を取られ
   大声で呼び合う
   美しい光景
   の台所で祖母が床を這って拾い集める極小の立方体がぶつかり合う音
   を知らないフレーズを奏で、立体の静物画を調理していく、出現する駅
   に滑り込む電車の中は泳ぐ、窓が開いてもこぼれ
   ないプールに沈んいるカーディガンが重くて肉体
   のようにぬ
   るい
   人間の匂いがす
   る水の

詩集タイトルは、あとがきによれば、繰り返し出てくる「雨を凌ぐ」「交代で眠るダンス」というモチーフとしてのことばからきているとのこと。ここで注目したのは、作者にとってのモチーフはことばであらわされる事象ではなくことばそのものなのだなということであった。

いささか陳腐な言い回しになるが、この詩集を読むという行為は言葉の迷路をさまようことであった。この詩集の作品に抽象画を思い浮かべるのは自然なことではないだろうか。作品を形成する素材として使われたのが言葉である以上は、そこには何らかの意味が生じる。しかしその言葉の意味は、言葉としての有用性からは離れたところにある。抽象画でいえば、塗られた絵具は赤や青といった次元で使われて、その絵具が事象の形を支えることはない、ということに似ている。

「述べる庭」の冒頭から、

   私が述語である鯨を庭に土の匂いが
   壁が水の家屋に魚が私、皮膚に残る氷の跡を熱に
   遠くで擬音が吸い込まれる胸を裏返していくベッドが高架下で
   地図を裂いて花弁、毎朝ぶつかる身体を正確に柔らかさの
   窓から私を絞り出し(略)

収められた作品は3か月の間に書かれたとのこと。そして「モチーフを辿ることを目的にしながら、そこから離れていくために」詩集が作られたとのこと。このあと、作者は“荒野”をどこまで辿っていくのだろうか。見守りたい。
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詩集「二月のトレランス」 篠崎フクシ (2022/09) 土曜美術社出版販売

2023-01-12 12:13:09 | 詩集
第2詩集。104頁に28編を収める。

前詩集では宇宙の広がりに思いをゆだねる意識が作品の根底に流れていた。その意識は、今詩集では終わり近くの「閉光域探訪」「方舟の帰還」にその名残を残していたが、ほとんど姿を消していた。代わりにここに在るのは、都会の猥雑さ、冬の寒さ、そして戦禍を意識する日々、である。

「二月のトレランス」では東京にゆきが降っている。それが話者の靴を濡らし、お金に翻弄されている気持ちを濡らす。何かに追われているような焦燥感があり、それが作品を走らせている。話者も駆り立てられ、言葉も駆り立てられている。

   もだえながら、歯茎を血に染める
   現世を透過するゆきを拭えないだけなのに
   液晶画面に浮かぶ
   機械化部隊と屍体らしき影
   サイレンが遠ざかってゆくと
   夜盗の群れは屍体に唾を吐く

今も世界のどこかで起こっている理不尽な事象に揺り動かされる気持ちが、話者のなかの戦禍となっている。ただ、気持ちがあまりに昂ぶっているためか、作品のなかでの言葉の存在の仕方が、その意味するところに比してやや軽いように感じられた。

「擦過/傷」での発語は、具体的な世情からは離れたところでおこなわれている。話者が置かれている状況は屈折して作品に届いているようだった。あえて世情を封印して、洒落た感覚(成功している)を狙った作品でもあるのだろう。

   触れる、薬指の皮膚は
   蒼い海の記憶だった
   硝子はいつまでも
   少女の俤を残し
   飛沫(しぶき)
   とつぶやく
   唇のかたちに似ている
   透明なのです、ときみは

きみの「孤独な擦過/傷」を想って詩っているのだが、それは話者自身の擦過傷でもあるわけだ。

あとがきによれば、今詩集の作品は1年間に書き留めたものの一部とのこと。ますますの健筆を祈念したい。
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