瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

詩誌「spirit」Lesson3 (2021/08) 群馬

2021-08-30 22:50:20 | ローマ字で始まる詩誌
樋口武二が発行している詩誌「spirit」のLesson3。46頁に19人の作品が載っている。
樋口は詩集も毎年のように出している。その表現意欲には感嘆するものがある。この詩誌も同人誌ではなく、毎号の寄稿者を募って発行しているようだ。

「そのようにして」河野俊一は、奇妙にふわふわとした感触を味わわせてくれる。夕暮れになるのだが頁を戻すとそこはまだ昼下がりで、ぼくと女が芝の上で遊んだりしている。で、ぼくが詩を書いていると

   ボールはいつの間にか
   どこかへ転がっていき
   本当に夕暮れになってしまった

だから”そのようにして”なのである。作品に描かれた世界が作品を書いている私を振り返っている。メタ構造が魅力的な展開だった。

「暮れる」里中智沙。わたしをさがしつづけているあなたへ、「もう あきらめなさい」と告げる。動作をしていると思っているのは自分だけで、もうわたしはいないようなのだ。貴方に告げようとして、話者も自分の存在が捉えられないものであることをあらためて認識したのだろう。それは辛いことだ。最終部分は、

   だから
   あきらめなさい
   もう日も暮れる

あなたに告げているのだが、話者が自分自身に言いきかせている言葉のようにも思えてくる。

「男が、」樋口武二。庭先で男がバケツをび並べつづけているのである。声をかけても応答はなく、ついに声を荒げると、「その瞬間に気がついたこともある」のだ。男は昨年亡くなったKのようなのだ。

   バケツだけが寂しく並んだ庭に、
   いったいどのような物語が隠されているのか
   夏の明るい夕暮れに
   私の戸惑いだけが、ふらふらと漂っていく

話者の男について巡らせる思いは本当なのだろうか。話者は勝手に戸惑ってふらふらと漂っていくのだが、もし話者に思いを巡らされた男も戸惑っているとすれば、これは大変に怖ろしい世界が構築されているな。

瀬崎は「仮初めのわたしが歩いていく」を載せてもらっている。
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詩集「楽園のふたり」 小島きみ子 (2021/08) 私家版

2021-08-27 18:52:20 | 詩集
第5詩集。80頁に24編を収める。
エッセイ集「現代詩の広い通路へと」を同時刊行している。こちらはいろいろな詩誌に発表した詩評・詩集評を集めたものとなっている。

今回の詩集では掌編小説とでもいうような作品も散見される。冒頭の「楽園のふたり」では、情死を試みて男は生き残り、女は旅立っていく。そのふたりのモノローグと会話。

   (ああ 黙って 雪の音よ )そう言ったのはわたし
   (雪の音? )わたしたちはずっと黙って歩いた 電車に乗って乗り換
   えて (ああ もうここでお別れです )(急にどうしたの? )(だ
   って ここから先は切符が無いと入れない國ですよ )

4連目では男女が入れ替わったりする。物語の内容に語らせている作品である。しかし小説と異なるのは、その物語があくまでも作者の内部に存在しているところである。小説は読者のために物語を作者からは切りはなした地点に構築する。それに比して、詩はどこまでも作者自身のために存在しており、自分とは切りはなしていない地点、いわば作者の内部に存在しているのだ。

この作品を始めとして、この詩集には死に向かう決意、あるいは覚悟がいたるところで漂っている。死に近づいている日々の感覚を受け止めようとしているのかもしれない。その地点に立つことによって見えはじめてくる生命の意味もあるのだろう。「黒い蟬」は、あなたが木の幹に上らせてあげた蟬を詩っている。

   生きている時間の儚さをつまんだ あなたの指
   黒い蟬は 何度も生まれ替わる
   いのちの瞬間をただ生きる そのことのために

最後に置かれた「黄泉の國は此の世と瓜二つなのです」。前半では、道に迷った話者が二人の姉妹とその母親の家で疲れを取る夢をみる。後半では、話者はその夢のことを考えている。

   黄泉の國は、天国と地獄に振り分けられる前の、最後の暮らしをもう一
   度やり直す國で、「此の世」と瓜二つなのです。此処で、全うした暮ら
   しが神の審判にかけられて「天国か、地獄へ」の片道切符が貰えるので
   す。私は、黄泉の國の審判で再び此の世へ帰ってきたのでした。

作者は「あとがき」で「詩の言葉にして振り返れば、苦しみすらも安らぎのように語ることができます」と書いている。同じように、死ぬことも生きることのように書けるに違いない。
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詩集「ビオラ ソロリアプリセアーナのある庭」 方喰あい子 (2021/07) 土曜美術社出版販売

2021-08-24 17:44:04 | 詩集
第6詩集。110頁に33編を収める。カバー写真にはビオラの花が映っている。

Ⅲ章に分けられたⅠには、紫陽花、ダリア、ニッコウキスゲなどのさまざまな花木を詩った作品が収めれている。それらの花木にはそれぞれにそれにまつわる人々の思い出があり、やさしい視線が投げかけられている。
橙色の君子蘭は高齢のYさんが株分けしてくれたもの。そのYさんは今は認知症になってしまったのだが、今は話者が、

   Yさんの君子蘭を株分けして
   お隣にあげたら
   何時だったか
   君子蘭が咲きましたよ
   主人がとても喜んで・・・・・・
   奥様の顔が綻んでいた

   花が終わると
   風に吹かれて株分けをする
               (「Yさんの君子蘭」最終部分)

花と一緒にやさしさも株分けをしているようだ。

Ⅱ、Ⅲには祖父母や両親を始めとした話者の周りの人々が描かれている。これまでの話者を育て、支え、そして今は話者が支えている人々がそこにいる。
「下駄箱」。祖母に連れられていった入学式の日に、いくらさがしても下駄箱にひらがなの話者の名札がない。よく似た”かたくいあいこ”はあったのだが、話者の名前はない。

   通りがかった先生に
   祖母がしきりに頼む
   「孫の下駄箱がねえんですよ。
    よおーく 捜したんですがねぇー」

読み間違いがわかって「かたくいあいこの下駄箱」に祖母はズックと草履を入れたのだった。孫のために必死になってくれていた祖母の姿は、今となっても脳裏から消えることはないのだろう。祖母の愛情があり、その思い出を大切にしている話者の愛情もここにはある。

冒頭の詩集タイトル作品で草花の世話をしていた話者は「生き物たちの 花木や草花の/命をつないでいる」と気づいている。そして巻末の作品「じりじりとした夏」では、翅が少しこわれた蝶やちいさなバッタを見て「炎天下/生き物も/わたしも/生をつなぐ」と記している。この詩集に流れているのは生命に対するやさしさだった。

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詩集「青売り」 椿美砂子 (2021/06) 土曜美術社出版販売

2021-08-19 18:46:33 | 詩集
103頁に25編を収める。

「青売り」の話者は人の佇まいや声が色づいてみえる。人はそんな話者に不幸せの経緯を語り、最後に「あなたのその青を売ってほしい」と頼むのだ。

   いいですよとその人の前で
   わたしの青を切り刻んでいく
   金色の華奢な糸切鋏でなるべく痛くないように丁寧に切る
   わたしの青はどれくらい残っているのだろうとか
   最近は切った直後の鮮鋭な痛みも治りかけの鈍い痛痒も悪くないとか
   ぶつぶつといいながら切り刻む

いったい話者の青とは何なのだろうか。話者は身体のどこを切り刻んでいるのだろうか。人が青を求める理由も、話者が自分の青を分け与える理由も、何も説明はされないが、その世界には切実な仕組みがあることが伝わってくる。それにしても、話者の青を手に入れた人は本当に青を自分のものに出来たのだろうか?

この作品を始めとして、詩集の前半の作品では奇妙な身体感覚が支配している世界が描かれている。「白い部屋」では左耳がもげ、やがていろいろな部位が失われていく。「夜は眠るだけ」でも指や舌が失われていく。次第に肉体の機能がなくなっていき、ついには肉体が消滅すれば「心だけ残る 心だけでいい/宙に浮いた心でどこにいこうか」と、話者は呟いている。話者にとって肉体は何らかの制約を課すものだったのだろうか。

足がなくて人ではないような鳴るなるくんが登場してくる作品「鳴るなるくん」は、軽妙な語り口だった。よく晴れた夕方にあらわれてわたしに話しかけてくる。「もうそれ以上いったら駄目だよ」とか「こころがころころこぼれ落ちそうだよ」とか言ったりもする。鳴るなるくんが、連れていた女の子の手とわたしの手を握らせると

   昨日から赤い服の女の子が
   わたしのそばから離れない
   終わるということはこんなことだよ
   鳴るなるくんはきっぱりといった

この奇妙な人物(?)は話者の気づかないところでわたしを支えてくれているのかもしれない。自分からすこし離れた場所に浮遊している存在に見詰められている感覚が、巧みに可視化されていた。

「野薔薇のかおり」では、話者は火遊びのあとに刺繍をしている。

   こんなにゆるしているのにと
   届けたくない微熱を刺していく
   刺しながらたぶん くるくると
   遠く夜のわたしを くるくると
   フレンチノットで くるくると

でも、本当はゆるしきれていないのだろう。ただ「ゆるしたかったのだと想う」だけなのだ。そんな話者は自分自身に針を刺しているのだろう。そこにはどんな模様が浮かび上がってくるのだろうか。
どの作品にも痛みを伴った身体感覚が通奏低温のように流れている。その痛みに耐えていることを見つめている詩集だった。

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詩集「ぽとんぽとーんと音がする」 黒田ナオ (2021/06) 土曜美術社出版販売

2021-08-16 10:42:07 | 詩集
 第3詩集。「詩と思想新人賞」を受賞しての詩集で、91頁に23編を収める。

詩集タイトルの言葉は、真夜中に目を覚ます「水音」の中の一節。蛇口からの水音は「蒲団の上にも/落ちてくる」のだ。そしてその音の波紋がひろがり、話者の中にも「ぽっかり大きな/穴が開く」。伝わってくる単調な音の反復が、平穏だと思っていたものの裏側にあるものを見せようとしている。

 この作品に限らず、詩集のいたるところで話者はこの世界とは次元のずれているもうひとつの世界との境界を彷徨っているようだ。作品「煙」では、話者は煙突となって「情念を/体の奥から湧き上がらせている」。その情念がどのようなものであるかは明かされず、ただ川のように流れる煙が描写される。

   柔らかな衣を着た人たちが
   身をくねらせ
   手足を長く伸ばしながら流されていく
   流されながら ずっと
   何かを待っているようだった

人たちは何かを叫んでいたのか、それとも無言で流れていったのか。話者の情念は何処かに流れつくことは出来たのだろうか。

詩と思想賞の受賞作品は「みずかさの増した川の流れを」で、幽霊が見えるようになった話者の独白である。幽霊たちはここでも流れている。わたしにそっくりな女の幽霊もいて、

   流れているのだな、と思う
   ながれ続けてそのまま
   ますます流されてしまうのだろう
   幽霊のわたしはいま
   いったい何を見て何を感じているのか
  
話者は、自分の中に開いた穴から自分の幽霊の部分を流したのかもしれない。そうすることによって、こちらの世界に踏みとどまっているのかもしれない。とても切実なものとして、流されていく幽霊を見送っているようだ。

「モモンガ」は、一日の仕事が終わりモモンガとなって暗い空を飛ぶ作品。

   電卓をたたいた指先から
   並んだ数字がこぼれ落ちる
   首筋あたりにこびりついた
   四角い言葉が逃げていく

風は冷たく、闇へと落ちていくようなのだが、しかしそれは一日の仮初めだったわたしを終わらせるために必要な儀式なのだろう。最終部分は「もう少し/もう少しだけ/わたしのわたしに戻りながら/ひょーいひょーいと/跳んでいく」。

重さや暗さを感じさせない軽妙さを装いながら、その実はかなり辛いものとの均衡を図るための言葉であるような詩集だった。
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