瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

tab  15号  (2009/03)

2009-05-29 19:31:24 | ローマ字で始まる詩誌
 「すきとおるまで」タケイリエ。かのじょたちはしろい肉をたべてトンネルをつくると、そのなかにぞろぞろと潜りこむ。まっくらのなかでかのじょたちはおたがいをたべあったり、とうめいと話しあったりする。そしてかのじょたちはとうめいをとおりこしてすきとおってゆく。

   かのじょたちは
   ちぢんだりのびたりする
   のが とくい
   だったし
   とてもすきだった
   (略)
   からだをよじらせると
   まっくらが
   ぞくぞくとふえる

 「まっくら」や「とうめい」は、通常はものに付随する形容詞、いいかえれば状態を示す言葉であるが、ここではなにか実体のあるものそのものとなっている。状態が「もの」であるような世界が展開されているわけだ。そこからくる違和感がこの作品の持ち味である。なにかの謂いかと考える必要はないであろう。このままのイメージを味わって食べれば一種の快感がある。
 後半に出てくる「なやましく/じかんをひねって/かんがえている」は、ちょっとひっかかった。「じかん」は状態ではなく、概念である。ここは破綻してしまっている。そして「たんけん/と みせかけて/速度をしだいにあげてゆく」の部分、「速度」が本来の意味しか担っていない。これはつまらない。せっかくの良い作品なのに惜しいと思ってしまった。
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白亜紀  131号  (2009/04)  茨城

2009-05-26 19:45:18 | 「は行」で始まる詩誌
 詩誌「白亜紀」を50年以上支えてきた星野徹氏が1月に逝去されている。本号では、「告別式に」と註の付いた北岡淳子「指を拾う」など、同人の追悼の作品がいくつか載せられている。「鳥」武子和幸もそのひとつ。
 闘病中の先生を見舞ったときの短い会話の情景があり、病院を辞してから、先生が目をやっていた空の方角をひとりで見上げている。なにか飛び去ろうとしているものがあり、近づいてくるものもある。「先生の魂」と「詩の発生源」が出会っているのだった。

   目を擦って
   見つめると
   深紅色に燃え上がる一羽の小鳥が
   長い尾を
   宇宙の涯にたらして
   闇を照らしている     (「鳥」最終部分)

 追悼詩では、故人が自分にとってどのような存在としてあったか、故人に感じていたものはどんなことであったか、が表出される。この作品でも火の鳥を思わせるイメージが、故人に対する敬愛と同時に、故人が自分の中に残していったものがよみがえる様を彷彿とさせている。火の鳥は自分の中に確かに甦っているのだ。
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スーハ!  5号  (2009/05)  神奈川

2009-05-25 23:11:53 | 「さ行」で始まる詩誌
 「爆発、化、森ノ野ハラ」野木京子。困った、こんなにインパクトのある詩を読んでしまったら、自分の詩が書けなくなってしまうではないか。それはさておき。
 野木の作品はひとつの状況を突きつけてくる。それは私の行為と密接に関係しているもので、いいかえれば、私の行為に選択を迫ってくるのだ。しかし、その状況にいたった説明は全く欠如している。だからその状況の意味も読者には不明のままだ。ただ私が選択を迫られている状況だけが描写される。

   ベランダのガラス窓は閉じられているのにゆっくりとカーテンが膨らみ
   膨らんだカーテンからどんな手が伸びていたの
   また入ってきたのかと
   私は生の声を挙げ
   声を挙げるのは振り払うためなので
   わあと叫んだが
   叫ぶ声さえ失っている人はどうしたらよいのだろう

 状況の持つ意味がそぎ落とされたのに比例して、その状況のすさまじさが際だってくる。言いかえれば、状況の本質だけが鋭利な刃物となって私を脅迫しているのだ。
 最終部分では「どうして私は脅えているのだろう/どうして脅え続けているのか/幾度も」と、次の行為すらとれなくなるような閉塞状況に陥っていく。
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詩集「孕み鯛」  木下利郎  (2009/05)  私家版

2009-05-23 22:16:51 | 詩集
 60歳代半ばから詩作を始めた方の82歳にして刊行した第1詩集である。87頁に19編を収める。装幀は、詩作の指導をしてきた渡辺正也。
 年少の日に満蒙開拓少年義勇兵に志願したころのことから、戦後の生活のこと、妻の介護のことなど、身辺に題材をとっているのだが、その語り口は淡々としていて非常に上手い。つい次の作品も読んでみようと思わせる。具体的な描写に徹していて、妙な主観をあらわす表現が混じってこないのがよい。それなのに作者の心情が直に伝わってくる。冒頭の「孕み鯛」は卵を孕んだ鯛を自ら調理して病の妻に食させる作品。

   刺身からあら煮まで二時間
   鬱を病む妻が無心にあける口に栗子の甘煮を
   入れながら囁く
   生きとったんや 力がつくぞ  (「孕み鯛」最終連)

 年齢からすれば5年ほど前の作品と思われるが、「古希」の終連の潔い心情は、それこそ悪くない。

   古希祝いをするという
   嬉しいのか
   淋しいのか
   やれやれなのか
   これからなのか
   わからないけど悪くない    (「古希」)
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詩集「水奏」  山中以都子  (2009/05)  砂小屋書房

2009-05-21 19:40:54 | 詩集
 3冊の既刊詩集から集められた16編を収める選詩集。篝火を焚いて夜釣りをする小舟の写真をカバーに用いた47頁の、ひっそりとした印象の装幀。ほとんどすべての作品が亡くなった父の鎮魂歌となっていて、タイトルに<水葬>という言葉を勝手にあてはめてみた。
 煙となった父の声が聞こえるときもあり、

   こんな夜には
   生まれたままの全身に
   しとどに濡れた
   ことばだけをまとい
   さえざえとあおい
   あなたの眼窩を泳ぐ魚となって
   なくしたものと
   得ることのできなかったものの
   ひとつひとつのはるけさを
   いつまでも
   いつまでも
   巡りつづけていよう    (「五月に」後半部分)

 このような作品に付け加える言葉はもはやないだろう。父の魂を鎮めるとともに、作者の魂もまた鎮められているのだ。
 この詩集の巻頭には無人の小舟の写真が収められている。「あとがき」によれば、画廊で一枚の写真を見たときに「聞き憶えのあるなつかしい声」に呼びとめられたとのこと。
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