「すきとおるまで」タケイリエ。かのじょたちはしろい肉をたべてトンネルをつくると、そのなかにぞろぞろと潜りこむ。まっくらのなかでかのじょたちはおたがいをたべあったり、とうめいと話しあったりする。そしてかのじょたちはとうめいをとおりこしてすきとおってゆく。
かのじょたちは
ちぢんだりのびたりする
のが とくい
だったし
とてもすきだった
(略)
からだをよじらせると
まっくらが
ぞくぞくとふえる
「まっくら」や「とうめい」は、通常はものに付随する形容詞、いいかえれば状態を示す言葉であるが、ここではなにか実体のあるものそのものとなっている。状態が「もの」であるような世界が展開されているわけだ。そこからくる違和感がこの作品の持ち味である。なにかの謂いかと考える必要はないであろう。このままのイメージを味わって食べれば一種の快感がある。
後半に出てくる「なやましく/じかんをひねって/かんがえている」は、ちょっとひっかかった。「じかん」は状態ではなく、概念である。ここは破綻してしまっている。そして「たんけん/と みせかけて/速度をしだいにあげてゆく」の部分、「速度」が本来の意味しか担っていない。これはつまらない。せっかくの良い作品なのに惜しいと思ってしまった。
かのじょたちは
ちぢんだりのびたりする
のが とくい
だったし
とてもすきだった
(略)
からだをよじらせると
まっくらが
ぞくぞくとふえる
「まっくら」や「とうめい」は、通常はものに付随する形容詞、いいかえれば状態を示す言葉であるが、ここではなにか実体のあるものそのものとなっている。状態が「もの」であるような世界が展開されているわけだ。そこからくる違和感がこの作品の持ち味である。なにかの謂いかと考える必要はないであろう。このままのイメージを味わって食べれば一種の快感がある。
後半に出てくる「なやましく/じかんをひねって/かんがえている」は、ちょっとひっかかった。「じかん」は状態ではなく、概念である。ここは破綻してしまっている。そして「たんけん/と みせかけて/速度をしだいにあげてゆく」の部分、「速度」が本来の意味しか担っていない。これはつまらない。せっかくの良い作品なのに惜しいと思ってしまった。