瀬崎祐の本棚

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tab  12号  (2008/09)  神奈川

2008-10-31 23:32:07 | ローマ字で始まる詩誌
 「が折れた腕や1」近藤弘文。
   が折れた腕や
   は石鹸のようにすり減って
   いくだけだろ

と、なんとも奇妙な詩句で作品は始まる。完全な文体を書きとめた紙片の上の部分を、意識的に切り取ってしまったようだ。そこに存在していたはずの名詞が欠落している。なんとも落ち着きが悪い。そこで、読み手はなにかの名詞を当てはめて読もうとする、あるいは、それこそ折れたミロのヴィーナスの片腕のように欠落した状態を受け入れようとする。作者の術中にすっかりはまっている。

   根っこが耳に入って
   きゃっきゃっ
   と黒い葉の群れをみていたわたくし
   黒い葉の群れではなかった     (最終部分)

 おいおい、黒い葉の群れをどうしてくれるんだ、と言いたくなるのだが、作者によればこれから長めの詩になっていくとのこと。あちらこちらにあたりをつけた断片はすでに少しずつ絡まりはじめているが、これからどのようになっていくのだ? ぞくぞくするではないか。
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墓地  63号  (2008/09)  栃木

2008-10-29 21:21:18 | 「は行」で始まる詩誌
 「月見るうさぎ」石下典子。かって遊女街であった吉原では、懐胎は最も避けなくてはならないものだったという。女たちは次の「月のもの」がくるように、ひたすら願っていたのであろう。吉原では、そんな女たちの願いを込めてきちんと正座した「月見うさぎ」の焼き物が今でも売られているという。

   女の憂苦は絶え間ない
   児を宿すのも辛し 宿せぬのも哀し

   願掛けに求める今時の女(ひと)は
   不順なる月の翳りか あるいは
   居待ち月のまろうどへの得恋か

 現在では懐胎祈願ものとして求める人もいるらしいこの人形にはそんな歴史が隠されていたのだ。女の生理的な本能としての懐胎を、男たちの欲望との引き替えに忌避しなければならなかった残酷さが伝わってくる。
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ポエームTAMA  55号  (2008/10)  日野

2008-10-28 21:22:30 | 「は行」で始まる詩誌
 「夏の家」斎藤恵子。妙に不安定で、どこからともなく妖しくなってくる雰囲気を漂わせている作品。始めの2連では主語が不在のままに「ねつを帯び」たり「ふくれ」たりするし、やがては「粘えきをだし」たりもする。もちろん「夏の家」がそういうものなのだろうが、感覚をわずかにずらせる漢字・仮名使いとも相まって、不安定なのだ。

   ろ地の家家のほそい通ろで
   なまえの薄れたひとが
   すずのね色でささやきあう
   はち植えの桔梗がくびをゆらす

 3連からやっと「ひと」や「子」といった主語が提示されるが、すでに生命は「夏の家」に吸い取られた後だから、影ばかりがやけに長いような印象だ。終連は

   家家の下には
   さらさら川がながれ
   ふるい耳わのようなものをあらっている

やはりここでも耳わを洗っている主体は不在なのである。作者自身ももうどこにも居ないようで、さすがに斎藤の作品、と思わせる余韻が残る。
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宇宙詩人  9号  (2008/10)  愛知

2008-10-27 12:14:32 | 「あ行」で始まる詩誌
 「はちかずき、と、かげ、のすきまに緑萌え」紫圭子。タイトルからして妖しい。蜥蜴と影が交差して、見えるものが実体なのか、影こそが実体なのか、そのはざまで肉体が捻れている。

   影からぬけおちたのは陽だけではない
   踏まれては切る一瞬感応の体感、惑星のめぐりのままに
   血の噴きだす生を胴に逆流させて
   と、かげ、はしる と、影さして
   尾は跳ねあがって と、陰のぐるりの円光にはしる

 断定されてしまえば、もう仕方がないのだ。最終行で「わたしは鉢と尾の娘だ」と言われても、もう理由なんて問わないのだ。これだけ錯綜すれば、もう言葉だけが実体だ。
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