瀬崎祐の本棚

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詩集「往還草」  川上明日夫  (2012/10)  思潮社

2012-12-29 15:40:07 | 詩集
 共著、文庫なども加えると第12詩集。84頁に13編を収める。
 ほとんどの作品では改行に独特の工夫が施されている。意図的に一文字、あるいは数文字を次の行に送り込むのだ。

   乱れてけさは黒髪のと風雅に辱められては
   と
   まだひっそりと後朝を染めた人がそこにい
   て
   見る人がかぜをはだけてあるツユクサなので
   す
   どくろの目に涙がたまる 憑き草なのです
   よ
   ここで染めてと二泊三日の遺言でしたから
   ね
   ひらひらと草葉の陰をとびかっているので
   す
                       (「蛍草」より)

 この形態の意図が奈辺にあるかは不明だが、詩句を読み進める際に妙な苛立ちを覚えるのは確かである。書かれた言葉が各行で完結しないために、孕んでいる内容がぎすぎすときしんでいるようだ。
 それでいながら口調は丁寧に優しげで、常に誰かに語りかけている。独白では届かないものを求めているのだろう。語りかけた相手の受け入れ、あるいは反発を想うことによって、言葉の行方を確かめようとしているのだろうか。それだけ言葉を発する不安のようなものが切羽詰まっているのかも知れない。

   雨もくれ そこにしずかに 座った なごりのひとの 翳も心
   を
   風鈴のようにと くれぐれもねがった ああ 魂よ すべらか
   に
   凛々とした寂しおりの 身寄りのない 花の敷布を たいらか
   な
   風にはだけては 愛染のよう 白い雲と 流れてゆく 鈴の日
   は
   こんなにも 私を浮かべて きょう 心の肌が とても冷たい

   私は草 花 鳥 空への化身 私自身への 空の最中でしたよ
                      (「空の風鈴」より)

 言葉を発する不安と書いたが、それはそのまま生きていることへの不安なのだろう。
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ココア共和国  11号  (2012/12)  宮城

2012-12-27 22:29:58 | 「か行」で始まる詩誌
 秋亜綺羅が「秋葉和夫校長の漂流教室」というエッセイを書いている。”秋葉和夫”というのは秋の父親の名であり、このタイトルの詩を40年ぐらい前に書いたのだという。父はその詩を読んだが何も言わなかったという。そんな父を、秋は「ようするに父は、豪傑だったのだと思う。小さいことは気にならない。たぶん、気にならないふりをしていた。」と評する。
 進学を渋った秋は父の”詭弁”によって東京の大学へ進学するのだが、シンナー少年となり、アパートの火事を起こしてしまったりする。警察へ身元引き受けに来た父の右腕は、サインをするときに「とんでもなく震えていた」のである。秋は「涙が止まらなかった。悲しいとか、悔しいとかじゃなくて、父の顔を見たことの、うれし涙ではなかっただろうか」と思うのである。そして、父は秋を責めなかったのである。ただ、「おまえはなんでそんなに焦って詩を書くんだ? 書いては発表し、書いては活字にする。締切だ、と騒ぐ。・・・・・・詩なんて、一生にひとつ書けたらいいじゃないか」というのである。
 亡くなった父への愛情がしみじみと伝わってくるエッセイである。秋が仕組んだ読ませるツボにはまってしまったなという気もするのだが、それでも上手い。自然な感じでこういったものを書けるのは、さすがだなあと思う。
 父に教えられたふたつのことを書いている。それは「どんなときでも腰を低くして後ろ足に重心をおけ」「ボールを持ったらゴールを見ろ」。これはバスケットボールの指導での言葉だが、そのまま生き方の教えにもなっている。秋は、最近、父の夢を見ることが多くなったという。秋葉和夫校長を父に持って幸せだったのだろうな。
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詩集「武西良和詩集」  (2012/12)  土曜美術社出版販売

2012-12-24 15:55:24 | 詩集
 新・日本現代詩文庫の1冊。これまでの7冊の詩集、それに発行している個人誌「ポトリ」に発表した作品からのアンソロジー。
 作者は子ども以外を詩った作品も数多く作っているのだが、この文庫にはその中から子どもを詩った作品だけを集めている。これは凄いことだと思う。作者にとって子どもというものがどれほど大きな意味を持つ存在であるかが伝わってくる。
 作者は一貫して教育の場に身を置いて過ごしてきている。校長室の前に自分が書いた詩を掲示したりもしていたらしい(子ども達が作者に付けたあだ名は、その髪型から”ライオン先生”だそうだ)。
 空や雲が映っている池がある。そこで魚は水の中を泳いでいたのだが、「本当に泳ぎたかったのは/空の中であり/雲の上だった」。そして、

   いえ それより池に
   映っている
   子どもたちの笑顔のなかに
   愉しく話す声のなかに
   泳ぎたかったのだ

 最終連は、「子どもたちはいつしか/泳ぎにくすぐられ/クスクスと笑っている」(「池」より)。
 子どもは、いずれ身につけてしまう社会のしがらみを未だそれほど所有していないだけに、人間としての在り方が純粋にあらわれる。そしてそのことを作者はきちんと感じ取っている。
 もちろん、他の作品ではあらわれるように、子どもたちの中にも”闇”があり、”悪意”もある。きれい事だけではないものも所有している。作者はそれも包み込もうとしている。
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詩集「空へ落ちる」  酒見直子  (2012/11)  洪水企画

2012-12-20 21:12:25 | 詩集
 第1詩集。93頁に23編を収める。柏木義雄の跋文が付いている。
 おずおずとした感じで作品が差し出される。控えめなたたずまいなのだが、展開される世界は優しくねじれていて、思った以上の奥行きを見せてくれる。
 「見送る」は、去っていくあなたの背中を見ながら「私は見送ったのではない/見送られたのだと」思っている。そして歩き出さなくても、私は「私ではない人達に/過ぎていく時間に/今日読んだ古びた本に」見送られているのだ。

   そのたびに
   どうしようもなく寂しくなって
   意味のない鼻歌をうたう
   そうしていつか
   私も私を見送る
                    (最終部分)

 言われてみれば素直に感じとれることが、さりげなく差し出されている。
 「手の身元」という作品では、自分の左手をデッサンしてそれが雑誌に載ったら、見知らぬ人からこれは私の手だから返してくれという電話がかかってくる。また、自分の手を何枚もコピーしてみると、隣人から夜中に何度も家の戸を叩かないでくれとの苦情がくる。

   私ではありませんというと
   あれはあなたの手でしょうという
   証拠はありますかというと
   今度もってきますという
   あれ以来 隣人は来ない
   あれが
   私の手であったかもしれないのに
                    (最終部分)

 ここでは、私というものの存在と、私の身体というものの存在が乖離している。私がいったい何に依って存在しているのかをいつも自問している。自問しなければならないとき、作者はおそらく少し寂しいのだろう。
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詩集「みんなを、屋根に。」  阿部嘉昭  (2012/11)  思潮社

2012-12-17 23:03:03 | 詩集
 オンデマンドで発行された詩集。145頁に42編が収められている。A5版を少し細長くした変形版のソフト・カバー。装幀もしっかりしていて、オンデマンドの出版物から連想するようなチープさはない。
 どの作品にも自己完結をしようとする言葉が続く。たとえば、

   ひとりに多くの
   なまえを呼んでみた。
   身に幾つかの年齢がある、
   このことが胸と胸をあわせ
   雨どいにひびいていった。
                (「生きていたころ」より)

   ひかりのあふれすぎている午後
   ぼくらは秒針のようなものを
   みずからにうしない立ち往生して
   みずみずしい桃をすすりあげる
                (「なみだ」より)

 これらの言葉の向かう先に、作者は他者を思ってはいないのではないだろうか。だからこれらの言葉もこちらに働きかけてくるようなことはしない。ただ、そこに置かれている。それなのにたしかに他者に届く言葉になっている。それはかなり大したことだと思える。
 「海辺の一日」。抗うことのできない時間に対しては諦観があるわけだが、「しずもって出される腕には/だらしなくひろがる水が/今日として抱えられるがよい」という。

   呑むと塔のうえに十字架がみえる
   ひとののどぶえだ
   おんなとは浪でつながれて
   ゆうぐれのように生きている
                 (最終連)

 最終行は作品中に3回くり返されてきたのだが、「ゆうぐれのように」という直喩は、これは自らが変容した「ゆうぐれが」ともとれるし、目的としての「ゆうぐれを」ともとれる。
 表現しようとしている感情が淡泊である。だからかえって作品に飽きがこない。全体に漂っている寂寥感のようなものも魅力の一つとなっている。
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