瀬崎祐の本棚

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オオカミ  33号  (2018/12)  神奈川

2019-02-27 22:05:15 | 「あ行」で始まる詩誌
 若い書き手からベテランまでの27人の作品を載せている。同人誌ではなく、毎号の参加者を募って発行している。このような発表形式の場は貴重であろう。志久浩介の表紙画はいつもインパクトがある。

 「夏」坂多瑩子。いつの夏の想い出なのか、「とらっくいっぱいのセミ売りが通りすぎ」たり、こわいようと泣くだれかは「赤い紙をぺたりと貼られ」た夏なのである。なぜか「白い帽子をかぶった大人」がどんどん増えていく夏は、あの繰り返してはならない暑く長すぎた季節を連想させる。最終部分は、

   泣きながら汚れた帽子を洗っている子を見たことがある
   あたしをあたしがみていた

 いつもの作者にある苦いユーモアは封印しているが、抒情的でありながら社会性の広がりも持った作品であった。

 「ボロニアピナータ」中村梨々。タイトルはボロニア属の花の名前。おそらくはこの花が飾ってあった病室で闘病していた父を送った作品なのだろう。身体には静かな生命現象が儀式のようにあって、ついには散骨として空に舞いあがる。「空洞から空洞、ほとほと、父親とか娘とかどこかで谷折りされている/折がった湿った紙、内側が外側にひわって、はなびらみたい」なのだ。冷静な観察とそれによるおだやかな描写なのだが、哀しみが内在している。最終部分は、

   目をつむってボートに乗る。ふたりで乗ったと思ったのだけれど、私は
   ひとりで、ボロニアの花がたくさん咲いている、ところを目指す。

 「光る砂」光冨郁埜。手もとにあった光る砂をほしがるみなにわけたらなくなってしまった。するとみなはどこかへいってしまったのだ。そのような人たちなのだが、わたしは今度はあたらしい光る石をさがし、それもなくなれば、光る水や光る空気をさがそうと思うのだ。

   そうしてわたしの手のひらから
   すべてがうしなわれたとき
   みなが光るさまがせかいの光るさまとなり
   わたしのうつむきがみなの歓びとなる

 なにか宗教的な高みのようなものも感じてしまう作品。私(瀬崎)は目の前の光る砂をほしがることしかできそうにないが・・・。
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かねこと  15号  (2019/01)  前橋 

2019-02-25 12:04:14 | 「か行」で始まる詩誌
 新井啓子の個人誌。11頁。
 金井雄二が「詩の本の話をしよう」という連載コラムを書いている。今号は清水哲男詩集「野に、球。」で、金井が詩を書き始めたころからの大切な詩集とのこと。誰にでも、はっきりと理由は説明できないのに何度も立ち返る好きな詩集というものがあると思う。その感じがよく伝わってきた。

 「軌跡」大木潤子は寄稿作品。
 切れて、切られて、結われて、ほつれて、「意味の羽毛」はその役割を変えていく。話者には、音もなく波動のように伝わって行くものがあるのだ。最終部分は、

   落ちてくるもの、
   降ってくるもの、
   を受け止める手のひら、
   感覚はなく、
   消えた虹の向こう、
   蒸散する軌跡がある、

 句点で行をつなぎながら、確かな形を取らないままに移ろっていくものを追っている。追いつくことはできないので、言葉が捉えるのはいつまでも軌跡の形なのだろう。

 「影の人」新井啓子。
 ”*”で区切られた三章からなる。タイトルの”影の人”は「眠っていると 夜をめくってやって」きて胸の上にとまるのだ。はて、これは誰なのだろう? 閉じた瞼の奥には、春の光景や母の日には咲かなかったカーネーションが訪れる。

   帰り道の三叉路にある 洋装店のウインドウの前には
   荷物を提げて 母が立っていた

   夕餉の食材を得たときのゆるく結ばれた口元

   あそこから もうすぐ
   「おかえり」が飛んでくる」

 夜になると母は話者の胸の上にやってくるのだろう。そんなときには、話者が”おかえり”と言うのだろう。


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橄欖  112号  (2019/01)  東京

2019-02-22 18:23:13 | 「か行」で始まる詩誌
 日原正彦が編集・発行し、現在の同人は5人。27頁。

 伊藤芳博が〈現在詩を読む〉という連載を書いており、今号は山本純子を取りあげていた。
 昨年秋に出た詩集「きつねうどんをたべるとき」で、作品「おいかけっこして」などが紹介されていた。私はこの詩集の作品を始めて読んだのだが、平易な描き方でありながらも感情の捉え方が屈折しているところに、大いに惹かれた。書評というのは、こんな風に思わず読みたくなるように作品を紹介することがとても好いことだと思える。
 
 日原正彦は詩4編を載せているが、その中の「どこに」。
 話者は酒を酌みながら凄まじい雨の音を聞いている。すると、後頭部が「冷え切った昨日に濡れるばかり」なのである。何か悔恨があるような“昨日”が話者の背後に忍びよってきている。たしかに自分の一部分なのだが自分には見えない”後頭部”の感覚が上手く効いている。

   むしろ 昨日は明日の後頭部
   今日は どこに あるのか と 涙ぐまれて
   ためいきをついてみても
   意味ある音色にもならず

   凄まじい雨である雨である

 日原は“雨”についての連作を書いているが、この作品の註には「凄雨(せいう) 冷たい雨。涼しさを越えて寒いくらいの、ぞっとするような雨」とある。
 もう1編の「いき」には「村雨(むらさめ)」の註がついている。

 「橄欖者」という同人それぞれの後記のようなコーナーがある。
 そこで大西美千代が、詩に対して「わからない」という人について書いている。彼女自身は「わからない」とも言わないし、わかろうとも思わないとのこと。そして「うっかり「わかった!」と発言したりした時は、おおむねその詩をつまらないと感じている時であったりする。」と。これは、その通りだなと、まったく同意してしまった。
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詩集「闇の白光」 富永覚梁 (2018/10) 撃林社

2019-02-20 17:45:47 | 詩集
 第11詩集。その他に2冊の詩画集、1冊の選詩集もある。108頁に28編を収める。

 「仕度」という作品がある。もう次の季節にうつろうとしている芒にとまっているオハグロトンボが話しかけてくるのだ。「このザラザラとして落着かない今日には/もう何の未練もない」と。それは澄みとおった声だったのだ。

   おのれの掌を 胸にあてると
   まだこんなにも痩せた心臓が 燃えている

   あてにならない未来に向かって トクトクと
   こんなにも 無駄に燃えているのだ

 どの作品にも迷いがなく、背筋を伸ばしたようにぴんと張りつめた空気を感じる。作品には、闇を案内する犬や、わたしに寄りそう鮎もあらわれてくる。そこにはこちらから求めるだけでは得られない救いのようなものが感じられる。これは己にまつわりついている余分なものを真剣に削っていないとたどりつかない地点なのではないだろうか。

 「秋 深む」。白い蝶の死骸にたくさんの蟻が集まっており、それを親子三人が見ている。「蟻たちの行為は/白い蝶へのいたわりなのか 殺戮なのか」と作者は問う。父はながい祈りをし、母は叫びをこらえ、そして「少年は汚れた靴で蟻たちを踏みつぶす」。三人の行為はそれぞれに己の気持ちに沿ったものだったのだろう。何者かへの畏敬の念があり、恐怖があり、残酷さもある。

   父はまわりに落ちている言葉を
   拾って長い手紙を書いている
   母は秋の寒さに震えてよろけている
   少年は灯りのもとて明るく
   夜を眠っている

 作者は命を軽視するかのような少年の行為を咎めるでもなく、ただ受け止めている。人はそういう地点を通り抜ける必要があるのかも知れない。そこを通り抜けないと辿り着けない場所があるのかも知れない。
 八十歳台半ばになられる作者の言葉だけに、余分な思惑もなにもなしに素直に伝わってくる。私(瀬崎)はあと10年あまりが経ったときにこのように澄んだ言葉を呟けるようになっているだろうか。
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詩集「アリスの森」 樋口武二 (2018/11) 書肆山住

2019-02-15 20:37:46 | 詩集
毎年のように、というか、この数年は年に2冊ずつの詩集を出している作者の第13詩集。75頁に23編の散文詩、それに序詞と終詞を載せている。「遊ぶことを忘れてしまった大人たちへ」という副題が付いている。

 タイトル通りに主役は、あのアリス。狂言回しとして兎も登場する。森の中でアリスは奔放に動き回る。穴を見つけては調べたがる。

   腕を組んで顎を上げたアリスに、声をあげる者などは居なかっ
   た 降りていって上がれなくなったらどうするの、と問えば、
   そんな危険なところに私を降ろすの、と明確な言葉が返ってき
   た              (「梯子を下ろして、」より)

 作者も「あとがきに代えて」で「これは詩集か、と言われるのは覚悟しています」とのことだが、確かにこれは掌編集の趣である。金太郎や乙姫様は出てくるし、シンデレラも遊びに来る。作者の中で生まれる物語には当然のことながら制約などない。世界を広げるためには、なんだって利用してしまうのだ。作者の試みは潔く徹底している。

   何がこれから始まるのだろうか そんなことは誰も分からない
   のだ 遊ぶということはそういうことでもある さいしょから
   理由なんてものは在りはしない はじまりというものはあるだ
   ろうが、終わりは存在しないから、夕暮れの闇が幕を引くまで、
   それは続けられることにもなる
                 (「ゆるやかな下り坂で」より)

 作者は「〈ものがたり〉が主体でしたが、意志の内部には〈私〉が存在しますから、力を抜き、遊び呆けたつもりでも、私は〈わたし〉でしかありませんでした」と言う。これはとても好く判る。可能な限り自分から離れようとしても、自分はどこまでも伸びてついてくる。であれば、せめて書きたいように書いて新しい〈わたし〉に出会うしかないのだろう。
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