瀬崎祐の本棚

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ウミツバメ  2号  (2011/07)  神奈川

2011-07-30 21:49:07 | 「あ行」で始まる詩誌
 光冨いくや達6人ではじめた新しい同人誌。表紙の版画が面白い味わいである。
 「白いマグノリア」広瀬弓。
 マグノリアというのは、モクレンやタイザンボクなどのずっしりとしたイメージの花をつけるモクレン属の総称。この作品で詩われるマグノリアは、萎えて「ぐったり/くたくた」になっている。マグノリアは肉厚の花びらのはずだが、今は「白いバナナの皮になって」しまっている。何故だ?
 男が不実だったようなのだ。それゆえにマグナリアは「地霊の丘の蓋を開いて/毒を吐いた」のだ。すると、天は乱れて、大地は歪んだのだ。この天変地異に現実的なことを無理に結びつける必要はないだろう(もちろん、結びつけるのは読む者の自由だが)。

   憎しみに咲く花はおどるおどるときおどればおどれ

 この囃子文句のような1行が、ついに狂乱にいたったマグノリアの様子を彷彿とさせる。狂ったとき、理性は失われる。そうなってしまえば踊り狂うよりほかはないのだろう。それにしても、マグナリアをそうさせてしまったのは誰なのだ?

   おどりに夢中になり
   マグノリアは
   萎えていた
   ぐったり
   くたくた
   霧中の春は
   黄泉がえりに裏がえり
             (最終連)

 言葉のリズムから思わず出てきたように感じられる最終行だが、この”黄泉がえり”に思わず”甦り”を重ねて読んでしまった。
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孔雀船  78号  (2011/07)  東京

2011-07-28 18:56:02 | 「か行」で始まる詩誌
 「正しくない泣き方」福間明子。
 具体的な事柄はひと言も書かれてはいないのだが、なにか大変なことがこの世界で起こったようなのだ。そして、行動を起こさなかった人や、列車やパトカーや家や子供や犬が「これでおしまい今日を泣いて区切」り、「わたしは泣いて済ませようとしたが/それは「正しくない泣き方」だった」のだ。
 では、正しい泣き方とはどんな泣き方なのだろうか。わたしは、泣くことによって許されようとしたのだろうか。しかし、何から許されようとしているのか。「疑わしい真実がひらひらと翻るいま/詩を書いてなんになる」と思い、それでも「はっはっはと息をしてわたしは詩を書いている」のだ。詩を書く自分を、詩を書かない自分から許そうとして、書いているのか。ここには自分の立ち位置を検証している姿があり、苦いものが突きつけられてくる。
 この数ヶ月、自分が”泣く”ことにあまりにも無頓着に詩を書く人がいる。自分が書いた詩が”正しい泣き方”なのかどうか、”詩”として自分から手放す前にもう一度見つめなおして欲しいものだと、自戒の意味を込めて、思ってしまう。

   正しくない泣き方なんて正しくない笑い方で抹殺した
   その先へその先へ
   どうかどうか愚かしいどうか
   崩れ逝く過剰の不在到達点
                   (最終部分)
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repure  12号  (2011/04)

2011-07-27 20:06:06 | ローマ字で始まる詩誌
 「街煙」小川三郎。
 今日、失業した私は高いところから街を見下ろしている。工場で上手くやることができずに誰かと対立して、辞表をたたきつけてきたのかもしれない。しかし、陰湿な街は、私のことなど歯牙にもかけずに、勝ち誇ったように煙を吐きだしているのだ。煙突から出る煙は仕事から帰る人々を歪ませ、そして、

   私が仕事を覚えたこの街の
   人々のいつもの会話を
   ひどく歪ませていく。
   私にはもういくらも聞き取れない。

 もちろん肉体労働者であった”私”の切実な日常生活を詩っているともとれるのだが、街のことを、巨大な何者かが操っている構造物ととらえると、見えやすくなるものがある。街は、私が必死に生きていかなければならない世界のことであり、当然のことながら、私は生きていくための仕事をすべてこの世界で学んだのだ。それなのに、

   あの煙は
   私の身体を焼いた煙だ。
   折れ曲がって寡黙に流れて
   ひとの息を止めてもなお
   鼓動をとめず
   それはとても
   真っ直ぐだ。
                  (最終部分)

 私は街から疎外されているばかりか、街によって存在すら否定されてしまっているのだ。生きていかなければならない世界で私は働き、稼いだお金を使ってきたので、今、街からとおくの高みへ離れてみると、私にはよりどころがどこにもないことにあらためて気づき、呆然としているのだろう。とても辛いことだ。
 私がふたたび街の方へ降りていける日は訪れるのだろうか。
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詩集「三崎口行き」  北島理恵子  (2011/08)  ジャンクション・ハーベスト

2011-07-26 19:04:42 | 詩集
 91頁に19編を収める。ソフトカバーの表紙には、黄昏時と思われる線路の写真が人の気配をとおくに隠して配されている。
 静かな語り口の作品ばかりなのだが、その佇まいがあまりに頼りなげなので、まるでここには誰もいないように思えてくる。たとえば、あなたと五線譜をひろげている「練習」では、「思いがけない右隣が/左を/支えたりする と/あなたが/なにかの本で読んだのが/はじまりだった」と、わたしとあなたが何をしているのかも不明である。しだいに、わたしたちが居るのが今なのかもあやふやになってくる。現在形で語られる事柄も、どこか昔に起こった出来事のようなのだ。そんな作品は、どれも懐かしさを漂わせている。
 「三崎口行き」では夏の海に行く電車に乗っている。「名前すら知らされてはいない」「初恋の人に出会うための旅」のようなのだが、ここでも感覚はあやふやである。書かれている事柄の肌触りも儚げである。目的は仮のものであって、すべてが夢見心地のようなのだ。

   その人以外知らぬ人ばかりで
   両親も弟も乗ってはいない
   海からはどんどん遠くなって
   そして
   夏だけが
   容赦なく迫って来る
                (最終部分)

 こうして、電車の中は確かなものがない世界となり、わたしは捜し物をしているようなのだ。あるいは、確かなものが感じられない世界を彷徨っている自分を、なんとかして作品の中に繋ぎ止めようとしている。”迫ってくる夏”だけが確かなもののようだ。海から離れていく電車は、いったいどこへたどり着くというのだろうか。
 儚げな美しさのある詩集である。
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紙子  19号  (2011/07)  京都

2011-07-23 20:26:31 | 「か行」で始まる詩誌
 「Alzheimer氏の食卓」たなかあきみつ。
 ロシアの詩人A.パールシチコフや、フランスの詩人E.M.シオランなどの詩の一節が作品中にちりばめられている。卓越した翻訳能力を有する作者らしい。作品を朗読したときには、訳文と共に原文も朗読したとのこと。
 5つの章で作品は展開されるが、非常に硬質な肌触りを感じさせる。それは、形而下の名指しをおこないながら、その名詞や形容詞などに形而上の意味を含ませているように思えるからだろう。しかし、私(瀬崎)がその含まれているものにまで到達することは困難であった。

   ときには木立の木々の樹脂をしぼるかのように
   やおら飛びたつ蝉(背美鯨!)の残像
   眼にはショッキングに咲きほこるさるすべりでは
   なぜか鳴かない五種競技の蝉ら
   炎天下で漕ぎだした自転車のハンドルのななめ前方を
   空気抵抗めがけてチチッと油を滴らす……
       「4(《鯨、セイレン、船首像はサルガッソ海へ死にに行く》――T.スカルパ)より」

 このように、作品は寄り添ってくれる柔らかさを振り払っている。どこまでも(意図的に)不親切なのだ。だから読む者の意識は、作品との間に擦過傷を作りながら突き進むことになる。そこには、私にはパールシチコフやシオランなどの作品の素養がないという決定的な事柄が関係しているのだろう。
 だから勝手に読む他はない。作者もそれは覚悟の上であるだろう。勝手に読むと、顎の疲れるような噛み心地が意外に面白い。さまざまな名詞が形容詞や動詞のうえで踊り出してくる。
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