瀬崎祐の本棚

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詩集「夜を旅するもの」 日笠芙美子 (2018/09) 思潮社

2018-11-30 17:20:30 | 詩集
 第11詩集。93頁に21編を収める。

 詩集タイトルの作品はないが、冒頭の「誕生日」は、「いくつもの夜を通って/わたしはうまれたのです」とはじまっている。「わたしは夜を旅するものです」との一行もある。
 「呼ばれて」では、眠りのなかで誰かと争ってもいる。誰か、知らない人との関係もあるようなのだ。

   夜を旅するものは
   知らない名前で呼ばれるときがある
   はい と
   いつまでも治らない傷や鞄をかかえて
   夜の深みに入っていく
   (死も生も 新しく生きるために)

 作者は深く夜の中に入り込んでいくことで新たな自分となるのだろう。そして、「一本の傘で」では、「わたしの夜は/いつも/なにかを失って生きている」と書く。夜に入っていくということは、昼間の自分からなにかを捨てなければならないということでもあるようなのだ。

 母の影はいたるところで作者の思いに深い陰影を作っている。「這うもの」では、”夜を這うもの”としてあらわれたシマ蛇が草むらに消えたあとに、もう今はいない母が「おかえり」とよみがえりの秋にわたしを呼ぶのだ。
 そして「夜が泣いた」。夜中に目が覚めると、少し開いていたドアから誰かが出ていったか、あるいは帰ってきたような気がするのだ。母とふたりで月をながめていたことがあったのに、母の「もう帰えれえ 暗うならんうちに」との言葉に

   わたしは一人帰っていく
   深まる秋を踏みしめると
   足元できゅっきゅっと
   夜が泣いた

 夢のなかでわたしはどこかへ母に会いに行くのだろう。

 このように、作者は夜ごとに夜を旅している。「嵐のあと」では、夢のなかで「泣きながら歩いているのだ」。そんなわたしはもちろん今のわたしではなくて、夜を旅するまったく別のわたしなのだ。

   こんな夜どこかで泣いている
   きれぎれに聞こえる声は
   どのときのわたしだろう

 始めにも少し書いたが、作品を読んでいると、それは昼間のわたしから余分なものをすべて取りのぞいたわたしなのかもしれないとも、思えてくるのだ。
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詩集「時のなかに」 北岡武司 (2018/10) 春風社

2018-11-23 16:32:58 | 詩集
 昨年出版の「鳩は丸い目で」に続く第5詩集。126頁に32編を収める。

 「国内線ターミナル」は搭乗待ちのひとときを詩っている。物音やひとびとの動きが錯綜し、TVではバラエティ番組や料理番組が時間つぶしに流れている。災害や情勢変化の予兆が報じられてもいるのだが、最終部分は、

   膨らんでもまだ噴火はしていない
   ツナミがきても ミサイルが飛んでも
   起ころうとする出来事の全貌はみえず
   つま先立ち 首を伸ばし

 何ごともなく過ぎていくような日常生活のすぐ裏側で、大変な事態が起ころうとしているのかもしれない、そんな漠然とした不安が話者を襲っている。

 このように作者の思いはどこにでも飛んで行く。その自由闊達さには、少年の旺盛な好奇心を思わせるようなところがある。話者は何者にもなるのであり、戦から生還して今はうらうらと時を過ごしている人もいれば(「うらうら」)、あの独裁指導者について泣きながら語る彼の国の老婆もいる(「タヌキ岩で」)。
 北岡の作品には、様々な人生を切りとった短編小説を読んでいる趣もある。しかも、詩作品では物語の提示は説明ではなく、情景である。描かれた情景が物語の要を巧みについている。
 異国の地での物語としては「ピラミッドの風」「はかなく」など。人道的な問題をあつかった「外立」。また「あじさい」など、恋唄も少なくない。

 「私は宙」のように哲学的な命題を担う作品もある。自分の存在が全世界につながっていると感じたときには、雄大な気持ちがひろがるのだろう。

   怖くない
   私は宙(そら)だ
   宙が個体に分散していたのか
   一なるものを分散させていたのは
   この目か
   すべては一なるものの分散

 どの作品にも、根本のところで作者の優しく無垢な人柄がにじみ出ている。もう少し意地悪くなれば、もう少し悪人になれば、作品はもっと面白くなるのでは、と思ってしまうのは無いものねだりなのだろうな。
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詩集「待ち伏せる明日」 田中眞由美 (2018/10) 思潮社

2018-11-21 17:05:29 | 詩集
 12年ぶりの第4詩集。100頁に22編を収める。カバーに作者の油絵を使用している。暗い藍色にくすんだ赤の差し色が印象的だ。

 「待ち伏せる明日」では、〈明るい〉と〈暗い〉が明日にまといつく。〈明るい〉に飼い慣らされているとふいに〈暗い〉が「黒をまき散らし」ながら躍り出てくるのだ。明暗の形容詞を巧みに擬人化していて、

   生き生きとした〈暗い〉と
   こわばった〈明るい〉が
   黒のなかの互いをさぐりあっている

三原色などすべての色を混ぜ合わせれば黒色になる。ということは、黒のなかにはすべての色が含まれているわけだ。絵を描く作者らしい見つめ方である。
 Ⅰ章には、東日本大震災に伴う原発事故がもたらしたものを通して警鐘を鳴らしている作品も多い。

   泥だらけの春は
   洗うことができないまま
   汚れたバトンを
   夏に渡そうとしている
                     (「汚れたままのバトン」最終連)

 Ⅱ章では、、作者の視点は社会的な現象を捉えて、人類のこれからにも思いを広げている。クローン技術やDNA操作、ゲノム組み替えといった化学、科学の進歩が本来の人類の在り方に歪みをもたらす可能性を危惧している。

 Ⅲ章は、日常で遭遇した具体的な事象からの作品。ここでも作者の視線は人類のあり方を問うものとなっている。
 「はえる」は、意図していなかったものがはたけにはえはじめた作品。いったいこの植物は何なんだろうと読者は考えるのだが、それは食用になって、商品価値もあるもののようだ。しかも手入れがずさんでもはえつづけ、車の排気ガスが多いほどよくはえるらしいのだ。

   高速道路のちかくほど発育が良いという噂に
   白い道の先インターチェンジ横のはたけを
   買おうかと迷っている

 個人の思いから発しながら社会的視点が一貫している詩集であった。

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詩集「そば尼僧」 美津島チタル (2018/10) 詩遊社

2018-11-17 09:17:44 | 詩集
 第一詩集か。99頁に31編を収める。詩集タイトルは、同名の作品もあるのだが、作者に拠れば”そば(傍らの意)に沿う”でもあるとのこと。

 作品にはどことなくのほほんとした明るさがある。大真面目な口調なのだが、その言っていることはどこかとぼけているようなことで、そのギャップも楽しい。
 「ふくろう夫人」では、ふくろう夫人が「零時ですよ/良い子は寝なくちゃ悪魔がやってきますよ」と告げる。そして、ぎいぎいとうめく悪魔をつついて食べてしまう。はて、ふくろう夫人は何者なのだろう。悪魔を食べてしまったから「これでもう、お前の時空は歪みませんよ」と言って飛び去るのだが、その声はいつも聞こえているようなのだ。

   ホーホー
   早く寝ないと
   悪魔と間違えて
   お前の耳を食べますよ

 冗談めいた脅かしのようで、実はぞっとするほどに本気なのかも知れない。この、もしかしたら、と思わされるところが怖ろしかったりする。

 しかし、やはりどこかとぼけている雰囲気がある。「ろくろ首との遭遇」では、長い首に感嘆している。なにしろ「倒れた胴体を出発したのが昼どきだったが/全く顔にたどりつかない」のだ。首は獣道の暗闇に浮かんでいるのだ。最終部分は、

   きっとこの先には美しい顔が存在するはずだ
   白くてなまめかしい首に強い執着を感じた
   私をあざ笑うかのように
   首は長く先は
   まだまだ見えない

 もう顔があることなど信じられなくなっているのだろう。あるいは、その顔を確かめたくないので、いつまでも私には首ばかりが見えているのかも知れない。
 作品にはふくろうやろくろ首の他にも狐が出てきたり、人魚が出てきたり、蛇もウジも出てくる。

 「あまい収穫」では、上がりヒゲの紳士に「大根足ですの」と謙遜すれば、「根本からズボッ」と抜かれてしまう。そんなはずではなかったのに、という事態に陥っていくのだが、やはりどこかのほほんとしていて、悲壮感はほとんどない。

 もしかすれば、実生活で直面する様々な出来事を、こうして捉えどころのない事柄に自分の中で変容させることが、作者には必要だったのかもしれない。
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詩集「空と鉄骨」  橋場仁奈  (2017/06)  荊冠社

2018-11-15 20:46:59 | 詩集
 1年以上も前に出版された詩集だが、なんとも感想がまとまらなくて本棚の傍らに置いていた。しかし、どうにも気になるのである。で、書いてみる。91頁に17編を収める。

この詩集の特異な点は、すべての作品が空にのびていく鉄骨を詩っていることである。冒頭の「飛び散る午後」は次のように始まる。

   ある日、のびてくる
   何もない空からのびてくる
   からんとした空の向こうから
   高く細くきらきらきらと鉄骨はのびて
   斜めにななめにやがてロープが1本、下りてくる

 そしてロープの先にあたしたちは「錘のように吊り下げられ吊り上げられ」て、おはじきやビー玉のように砕けていくのだ。

 他の作品でも、私は鉄骨からのロープに吊り下げられ生き埋めにされる。それを「歯を磨きながら/きみは窓から見ている」のだ(「空と鉄骨と1本のロープ」)。
 休日の朝には、わたしは「おはよう鉄骨」と声をかけ、兄は老人ホームへ入り、水槽の中を泳ぐ白熊は流れて行っちゃうのだ。流されていくわたしたちを鉄骨から垂れたロープがつなぎ止めてくれるのだ。

 このように、空にのびる鉄骨、そしてそこから下りてくるロープ。それは何か、私たちの存在している時空を越えて他の次元からやって来るもののようにも思えてくる。

   秋になったら球根も母も兄も姉たちも埋められて
   黄色いシャベルで土を叩くそうして
   のびてくる鉄骨、細く高く斜めに
   ロープが1本下りてきて縛られて吊り下げられて
   父と歩いた背中から夕焼ける細い道、
   祖母にもらった
   赤や青や縞々のあめ玉にぎりしめて
   時々、駆けっこをしながら父と手をつないでいたんだね
                         (「霊魂も球根も」より)

 私たちは何者かにはるか高みから見張られてもいるようだ。だからこの作品の最終部分は、「鉄骨、鉄骨、黙って見つめていればのびてくる/私たちの頭の上からのびてくる」

いくつかの作品は、絵画や映画のイメージも借りている。しかし、まさかチャン・イーモウの「妻への旅路」でひたすら夫を待つコン・リーまでもが、鉄骨に絡むとは。
 なぜここまで鉄骨にこだわったのかはとうてい不明だが、青空にのびる鉄骨の繰り返されるイメージは、作者の中にあったものを確かに支えたのだろう。
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