樋口武二の編集発行で、54頁。19人の詩作品と1編の詩論を掲載している。
「水の河」堤美代。話者は「死者と手をつないで/線路の上をそろそろと/ある」くのである。線路脇の風景も描かれているのだが、話者の思いはおそらく、なぜ、このような夢をみてしまったのだろうかということなのだろう。
貘の喉の渇きは
どこの夢の川なら
癒されるのだろう
終り という
物語が始まったのだ
貘には私の悪夢を食べて欲しいのに、話者は他人の悪夢まで押し付けられてしまったのだろうか。幻想的な絵図が思い描けるような作品だった。
「犀川のほとり」金井裕美子。「たわいない話」をしながら歩いている。久しぶりに会う大切な相手なのかもしれない。記念の写真を撮り合うのだが、それぞれの画面には相手一人しかしか映っていない。「二十年したら/わかれみち/夏は もう来ないだろう」という詩行が静かに寂しい。語り合っていても、その相手が自分の人生に入ってくることはないことが判っているようだ。最終連は、
どこを歩いても犀川のほとりだ
犀星の話もすこし
鏡花の話も
死んだひとの話ばかりが
午後の照り返しに
鮮やかに身近だ
「声がしている」樋口武二。私は誰かの小さな呼び声で目覚める。すると、そこは水の部屋で、長い夜があったのだ。
私は、幻のように揺れながら、夢を食みつづけるしかない
のか 卓も、床も、私も、声の幻影に侵されて、もはや、朝
など来るはずもなかった
目覚めのときの非現実的な世界に漂っている感覚が巧みに捉えられている。作品の終わりにはオチのような部分も付いているのだが、個人的にはここは明かさなくてもよかったような気がした。
樋口はこの作品の他に「残夢録」と題した連作2編も載せている。
私(瀬崎)は連作・風の日録4として行分け詩「秘匿」を載せてもらっている。
「水の河」堤美代。話者は「死者と手をつないで/線路の上をそろそろと/ある」くのである。線路脇の風景も描かれているのだが、話者の思いはおそらく、なぜ、このような夢をみてしまったのだろうかということなのだろう。
貘の喉の渇きは
どこの夢の川なら
癒されるのだろう
終り という
物語が始まったのだ
貘には私の悪夢を食べて欲しいのに、話者は他人の悪夢まで押し付けられてしまったのだろうか。幻想的な絵図が思い描けるような作品だった。
「犀川のほとり」金井裕美子。「たわいない話」をしながら歩いている。久しぶりに会う大切な相手なのかもしれない。記念の写真を撮り合うのだが、それぞれの画面には相手一人しかしか映っていない。「二十年したら/わかれみち/夏は もう来ないだろう」という詩行が静かに寂しい。語り合っていても、その相手が自分の人生に入ってくることはないことが判っているようだ。最終連は、
どこを歩いても犀川のほとりだ
犀星の話もすこし
鏡花の話も
死んだひとの話ばかりが
午後の照り返しに
鮮やかに身近だ
「声がしている」樋口武二。私は誰かの小さな呼び声で目覚める。すると、そこは水の部屋で、長い夜があったのだ。
私は、幻のように揺れながら、夢を食みつづけるしかない
のか 卓も、床も、私も、声の幻影に侵されて、もはや、朝
など来るはずもなかった
目覚めのときの非現実的な世界に漂っている感覚が巧みに捉えられている。作品の終わりにはオチのような部分も付いているのだが、個人的にはここは明かさなくてもよかったような気がした。
樋口はこの作品の他に「残夢録」と題した連作2編も載せている。
私(瀬崎)は連作・風の日録4として行分け詩「秘匿」を載せてもらっている。