瀬崎祐の本棚

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詩誌「spirit」 Lesson7 (2022/10) 群馬

2022-09-30 20:28:04 | 詩集
樋口武二の編集発行で、54頁。19人の詩作品と1編の詩論を掲載している。

「水の河」堤美代。話者は「死者と手をつないで/線路の上をそろそろと/ある」くのである。線路脇の風景も描かれているのだが、話者の思いはおそらく、なぜ、このような夢をみてしまったのだろうかということなのだろう。

   貘の喉の渇きは
   どこの夢の川なら
   癒されるのだろう

   終り という
   物語が始まったのだ

貘には私の悪夢を食べて欲しいのに、話者は他人の悪夢まで押し付けられてしまったのだろうか。幻想的な絵図が思い描けるような作品だった。

「犀川のほとり」金井裕美子。「たわいない話」をしながら歩いている。久しぶりに会う大切な相手なのかもしれない。記念の写真を撮り合うのだが、それぞれの画面には相手一人しかしか映っていない。「二十年したら/わかれみち/夏は もう来ないだろう」という詩行が静かに寂しい。語り合っていても、その相手が自分の人生に入ってくることはないことが判っているようだ。最終連は、

   どこを歩いても犀川のほとりだ
   犀星の話もすこし
   鏡花の話も
   死んだひとの話ばかりが
   午後の照り返しに
   鮮やかに身近だ

「声がしている」樋口武二。私は誰かの小さな呼び声で目覚める。すると、そこは水の部屋で、長い夜があったのだ。

    私は、幻のように揺れながら、夢を食みつづけるしかない
   のか 卓も、床も、私も、声の幻影に侵されて、もはや、朝
   など来るはずもなかった

目覚めのときの非現実的な世界に漂っている感覚が巧みに捉えられている。作品の終わりにはオチのような部分も付いているのだが、個人的にはここは明かさなくてもよかったような気がした。
樋口はこの作品の他に「残夢録」と題した連作2編も載せている。

私(瀬崎)は連作・風の日録4として行分け詩「秘匿」を載せてもらっている。
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詩集「夢*とりかへばや」 三宅鞠詠 (2022/07) ブイツーソリューション

2022-09-27 17:43:52 | 詩集
第3詩集。74頁に27編を収める。

有り体に言って奇妙な詩集である。3章に分かれているのだが、そのタイトルは「マリの夢」「継母B子の夢」「詐欺師たちの夢」と、作品がすべて夢物語であることを示している。そしてあとがきには「この詩集(略)は虚構です。以下に綴りましたことも、虚構であるとご理解ください。」とある。作品が虚構であることには不思議はないが、あとがきまで虚構であるとことわるのは珍しい。

冒頭の作品「私は誰?」で、マリという話者は、「夢の中で私は/K子と呼ばれていました けれど/私の本当の名前はK子ではないのです」と言う。そしてK子の母親が、生まれたばかりの私を本当のK子と取り換えて育ててきたという(「一日遅い誕生日」)。
こうして作品には、継母に疎んじられる私の独白が綴られ、産んだばかりの子が死んでしまったというK子の母親(B子)が乳母として現れたりする。人間関係も錯綜してきて、話者が語っているのはいったい誰のことなのかと混沌としてくる。

   私の本当の家には
   本当の祖父と本当の両親と本当の兄や姉がいた
   嘘の家には
   嘘の祖父と嘘の両親とのちに嘘の弟が生まれた
   嘘の母親は私の本当の家に雇われて乳母になり
   自分が産んだ女児を自分の手で育てたけれども
   嘘の祖父が放られていた私を育ててくれた
                   (「反対言葉の手紙})

しかし、これらのことはすべて”マリの夢”として詩集には書かれているのだ。

「継母B子の夢」の章になると、状況はますます混沌としてくる。マリが語っていた夢はどこまでが意味のあるものだったのか? 継母B子は、祖父が養子として育てていた少年と祖母の間に産まれたのだったという。

K子の腹違いの弟は形成外科医になろうとする。

   形成外科医が一番役にたつと思ってねえ
   まったく似てなかったお母ちゃんの顔を姉ちゃんそっくりに
   変えてから継母じゃあ言われることもなくなって
   うちの家に必要なのはやっぱり形成じゃあ思うてねえ
                   (「水泳部」)

巻末には作品に登場する人物たちの「夢*系図」なる虚構の家系図も掲載されている。詩集タイトルに”とりかへばや”とあるには、他者の人生と自分の人生を取り換えたいという夢が語られているということなのだろうか。不穏なものが漂っている詩集だった。
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詩集「襤褸」 野間明子 (2022/07) 七月堂

2022-09-21 11:07:38 | 詩集
第5詩集。104頁に27編を収める。

「来訪者」。猛禽の翼や黄ばんだ新聞紙、焼けたトタン板などがばさり、ばさりと近づいてくるのだ。その音を立てるものはさまざまな仮の姿をしているのだろう。とにかく何者かが私の元へやって来ているという不安、恐怖がある。

   背後で立ち止まるだろう
   まざまざと髪の根を掴むだろう
   ばさり
   ぬかるんだ地べたを転がって
   斬り落とされた悲鳴が呼んでいる

引用した箇所の5行目の表現が卓越している。

詩集は3つのセクションに分かれている。2つめのセクションには、他のセクションの重い感じの作品と拮抗するように8編の短めの行分け詩が収められている。それらには意味を跳び越えたような感覚が踊っている。擦れ違った赤ん坊を抱いた女は狭い橋から転げ落ちるし(「橋」)、赤い部屋のなかには、俺やっちゃった、という息子が突っ立っていたりする(「夕映」)。ぎりぎりのところに追い詰められた感情が溢れてきている。
「蟻」では窓際から壁際に移動していくおびただしい蟻を見ている。すると、「あの黒い小さい影の下には何も残らないのではないか」と思えてくるのだ。全てのものは動く蟻とともに消滅していくのではないだろうか、と。最終5行は、

   今 蟻が這っていく俺の眼球も
   実はないのではないか
   蟻の影が落ちているだけではないか
   ああ 本当に
   夏が長すぎたのだ

「杞憂」は散文詩。話者は喫茶店だと思って入ったのに、やがて誰もいなくなって、実はそこは「空往く乗物の待合室」だったのだ。話者は、自分で作りあげた約束事を信じ込むことによって不安から逃げようとしているようだ。

   長い永い待ち時間をじっと、時々空耳に耳を貸しながら座っていた。誰も渡
   らない横断歩道の信号が点滅する。油断なく待ち受ける私の目からするなら
   ば、世界はいまだに、余りに無防備に剥き出しだった。

収められた全編が話者のモノローグという形で提示された世界は、世間の常識などからはいささかずれた地軸で構築されていた。当たり前とされている「世界」を、もう一度問い直している。
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詩誌「妃」 24号 (2022/09) 東京 

2022-09-16 23:01:41 | 「か行」で始まる詩誌
B5版、137頁に17人の詩、4編の書評を載せる。

細田傳造は4編を乗せているが、その中から「土管」。
少年だった日に、原っぱの土管に青大将が入っていたのである。俺は棒で突っついてどかすとそこで昼寝をした。すると今度は、色の悪い顔をした男と女に「おれらが使う出て行け」とどかされたのだ。今、俺は「あの日の青大将はもう生きていないだろう」「すまないことした」と思うのである。それだけのことなのだが、細田の面目躍如は、それに続く最終連である。

   あの日の
   熾盛(さかり)のついてたアベックはどうかな
   百歳ちかいなふたりとも
   生きていねえだろう
   ざまあかんかん

年月が過ぎて自らも老いた今の、青大将に対する優しい気持ちと、それと拮抗するような毒舌ぶりがなんとも小気味よい。これだから細田の詩を読むのは楽しい。

田中庸介の「彦根」は160行に及ぶ作品。
小中高校生の詩のワークショップのために彦根を訪れた話者は、彦根駅が似ていた昔の武蔵境を思い出す。話者が小学生だったときの先生の話、そして彦根城の裏鬼門の多景島、そこにあるお寺さんの話。この作品は一部分だけを紹介してその魅力が伝わるようなものではない(どの作品も本当はそうなのけれど)。作品全体の大きなうねりを感じて読み通さないと、作品に向き合うことはできないのだ。したがって次の引用にはほとんど意味がないことをお断りしておく。

   迷う人たちの背後に後光が射すように
   多景島に集う
   島たちの肩に日が射している
   住職は毎日、船で島の寺に通ってくる。

   そしてあっという間に人生の時間が過ぎた。

詩の実作活動では何が伝えられるのか、小学生だった話者は何を伝えられたのか、そんな思いが絡み合った紀行詩のようにもなっている。長いこの作品を書きながら、作者はもう一度の別の旅をしたのかもしれない。

月読亭羽音の「みんみん」は、幼い頃に家族で行っていた”みんみん(珉珉、だろう)”を久しぶりに訪れる作品。これも160行あまりの作品だが軽快に読むことができる。作者はジンギスカン定食で決まりだったようだが、学生時代の私(瀬崎)はレバニラ炒めと餃子だったな。
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詩集「水差しの水」 江口節 (2022/09) 編集工房ノア

2022-09-13 22:53:31 | 詩集
第10詩集。120頁に31編を収める。2つの詩集を挟んで、この10年間の作品を集めたとのこと。

「ギフト」。「沈みゆく太陽の光が」この世界に射しこむ。いちにちが終わるということは、次のいちにちが始まるということであり、それは今日を生きた者へのご褒美なのだ。

   いちにちを 生きるということ
   ときに 悔いのように
   あるいは 夢のように
   だが
   等しくご褒美をもらうのである
   このわたしにも

強制収容所で日没の光景を見逃さないようにしていたという逸話が重い。それを思えば、この”ギフト”に代えようのない意味を与えられるように、いちにち毎を生きなければいけないなあと、あらためて気づかされる。この詩集の作品は、そのように大事に生きていくなかから生まれてきている。

「普通電車」。特急や新幹線と違って、普通電車では沿線の風景が親しく感じられる。知っている風景にも知らない風景にも物語が共にあるのだ。そして最終連、

   「うまいめし屋があるんだ」と言ったな
   今もあるんだろうか
   遠い川を渡った息子が
   しばらく暮らした坂の街に

普通電車の窓外の風景は、逝ってしまった息子さんへの思いも連れてくるのだ。作品「花屋の前で」は、息子さんの婚約者であっただろう人へ向けたもの(詩誌発表時に簡単な紹介記事を書いている)。どちらの作品にも、波たつような高ぶりのものではなく、これからも作者の気持ちの底に静かに横たわりつづけるであろう切ない感情があった。

「皿が並べられ」。皿を見た「ちいさきひと」がまだ言葉にはならない声を漏らす。ちいさきひとの言葉はこれから増え、それは純粋に喜びに繋がるのだろう。かたや、言葉で詩を書こうとする話者は、その言葉を探しつづける。最終部分は、

   不自由で不完全なのは
   言葉なのかひとなのか、ただ
   ひとは
   広い大きい世界に支えられているのだと
   それだけは分かってくる

   詩を書いていると

こうして、詩を書いてこれからも生きていこうとする作者の思いが潔い。
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