瀬崎祐の本棚

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詩集「そこはまだ第四紀砂岩層」 服部誕 (2020/10) 書肆山田

2020-12-31 21:38:18 | 詩集
 この数年、活発に詩集を出している著者の第6詩集。71頁にソネット形式の26編を収める。

 題材は多岐にわたっている。たとえば「八月十二日、夢のあとかた」は日航機墜落事故を題材にしている。おれは眠りの中で骨が砕かれてゆく音を聞く。そして、

   ギシギシと ガリガリと
   何度も聞いたおまえの歯ぎしりが
   三十五年の夜を隔てて今も聞こえている

 誰か親しい方を失ったのかもしれない。しかし、話者は感情におぼれることはなく、理知的な部分を残して対峙している。それがなおさらに深いところに在る話者の気持ちを伝えてきている。

 「長い枕」。わたしの枕には「殻のついたままの言葉がぎっしり詰まっている」という。そして「ときどき枕のなかで言葉の粒がはじける」のだ。

   わたしは右を向いて右耳で口ごもるしずかなつぶやきをきく
   わたしは左を向いて左耳でするどい罵り声をきく
   わたしは枕に顔を埋めてながくつづく祈りの声をきく
   あお向けになって昨日の愚痴と言い訳と嘘を全部吐きだす

 たしかに眠りにつこうとして自分を無にしたはずのときに訪れてくる言葉がある。その言葉は誰が届けてくるのか。この作品では耳を押しつけている枕の中に言葉が詰まっているというイメージを提示してくる。なるほど、そうなのかもしれない。私(瀬崎)にも半ば朦朧とした意識の中でのそれらは珠玉の言葉のように思えて、必死に捉えておこうとする。しかし、この作品の終連では、起きたときにはきいたはずの言葉をおぼえていないという。それならば、長い枕を激しく振ってみてはどうだろう。昨夜の言葉がぱらぱらと落ちてきてくれるかもしれないではないか。
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詩集「夜明けのラビリンス」 成田豊人 (2020/09) 書肆えん

2020-12-29 18:41:39 | 詩集
 第8詩集。93頁に23編を収める。

 どれも、北の地に在るということはこういうことかと思えてくる作品である。話者は冷たく凍りついた道を独りで歩む者である。何のために歩いているのか。どこまで歩けばいいのか。もうそれが定めであるかのように凍りついた道を歩むのである。身も冷たいのだが、微かな希望が見えるのが救いである。

   かすかに
   ずっと奥の暗闇で
   何かの音が溶け始めた気配はある
   花の兆しを夢想するのも罪だろうか
                   (「冬眠」最終部分)

 北の地名を冠した作品では、描かれるその地に話者の生きてきた日々が張り付いている。それは郷愁を感じさせながら、否応なく今の自分との距離を突きつけてくるようだ。「大館市大町界隈・春先」では、五十年位前のことを思い出していると、その頃の高校時代の同級生が現れる。

   追いかけようかと思った刹那
   誰かが後から肩を叩いた
   もう帰れとという言葉と共に

五十年の間に離れたその距離は、望んだものだったのか、それとも不如意なものだったのか。

 Ⅱに置かれたいくつもの作品でも、過去は話者の眼前に甦ってくる。それを反芻して、作者はもう一度生き直そうとしているのだろうか。帯には「時のあわいでいきる場を幻視する著者の硬質の誌群」とあった。言い得て妙だと思った。
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詩集「人隠し」 志村喜代子 (2020/08) 水仁舎

2020-12-28 11:06:54 | 詩集
 第4詩集。フランス装の103頁に32編を収める。水仁舎の装幀、造本は瀟洒で、たゆたうような雰囲気の作品とよく合っている。
 前詩集「後の淵」の感想で、私(瀬崎)は「他者が不在であるように感じたのは、作者と並ぶ者が立ち去った後だったからなのだろう」と書いた。この詩集の作品でも話者はいつまでも一人のようだ。

 「容れる」は、「浴槽は みずからを容れる/ひつぎの形をしている」とはじまる。そんなことは思ってもいなかったが、言われてみれば、ああ、そうか、と頷いてしまう。

   ひとりでいるのね

   すぐにもいかねばならない
   ふたりだけの場処は
   ひとり分の壺があるだけだ
   脇が空いている

 誰かを失った自分を感情を抑えて静かに見詰めている様子が印象的である。焼かれたわたしはもう一人のひとと混ぜ合わされることを想っている。最終部分は「ゆめゆめ浴槽内の 秘めごとと//漕ぎ出す 湯船に/目を開け/息をしたまま/容れる」

 はじめにたゆたうような作品と書いたが、読みすすめるうちに怖ろしさ、怪しさもじわりと忍びよってくる。どの作品にもその裏側には死者が佇んでいる。そしてその死者は作品を書いたり読んだりしている人を窺っているのだ。そのために、作品の閉じられ方も今までいた世界をどこかへ連れ去ってしまう趣を残すようだ。たとえば、

   月ごよみのミシン目は剥がない/つるりと垂らしておけ/兄は 死んだ(「破線」終連)

   雲は/招んだものの息を/さざなみ立ち/吹き閉じる(「空」終連)

   夜の器が いっせいに/問いつめてくる(「夜の器」終連)

作者は人を隠すために作品を書いたのだろうが、実は書かれた作品が作者をその裏側へ隠そうとしているようだった。
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詩集「粒子 その通過する点点・・」 南久子 (2020/08) 土曜美術社出版販売

2020-12-27 10:48:36 | 詩集
 第2詩集。矩形の75頁に29編を収める。

 「雨やどり」。見知らぬ男性に誘われるままに、公民館の入り口で一緒に雨宿りをしている。とりとめもない彼の話を聞いていると、いつしか彼は私の思い出の中に現れてくるようなのだ。最終部分は、

   風が凪ぎ、
   空気は透いてくる。
   私とアナタは
   彼と小学校四年生だった私とともにやっと僕たちになる。

 不意の雨で時間を共有すると、世界がどこかで捻れて重なり合ったり繋がったりするのかもしれない。 

「ゆう子さんがやってくる」は、捉えどころがないような曖昧さを感じさせながらも、きっちりとゆう子さんを作品の中に定着させていた。これは「詩と思想」誌投稿欄への応募作品で、私(瀬崎)はもう一人の選者である北原千代氏と共に入選にとった作品だった。

   水瓶の中に詰めておいた言葉は、取り出され
   て気づくのだが、吃音で聞き取りにくい。多
   分、以前のゆう子さんと同じで。
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「Poetry EXOPO 2020」 (2020/11) 埼玉

2020-12-25 21:31:30 | ローマ字で始まる詩誌
上質のA3用紙1枚の裏表に8人の作品が載っている。添えられていた手紙によると、榎本櫻湖が発行しているフリー・ペーパーのようだ。

川島雄太郎は8行ほどの行分け詩3編を発表している。その中の「静かな季節」。
作品は「病葉の 葉さきに擦れた そのひとの/肌をわたしは さわり直した」と始まる。そして直ぐに「さわり直したい」と言いなおす。それは五月の中にいるからであり、五月はそのような季節なのだ。

   この道の
   行く先々 どこもいちように
   ツツジの花が咲き溢れ
   このようなところへあなたは出かけていって
   出かけたきりでいる

少しも余分なものはなく、それでいて言うべき事は言い切られている。人は季節のなかに居るのだが、その季節もまた、人の動作や思いによって形づくられていくのだ。

「バカボン引越センター 豊島園発 西武遊園地行き カルーセル・エルドラドご一行様の巻」野崎有以
まあ、ハチャメチャである。時事ネタを取りこんで大変に俗物的である。しかし、そんな陰口など気にもとめない豪快な勢いに、読まされてしまうのである。椎名町で出会ったバカボンのパパは、先日閉園した豊島園のカルーセル・エルドラド(日本最古のメリーゴーランドだったらしい)の住人たちを、引っ越し先の西武遊園地へ連れて行くところだったのだ。

   カルちゃんとエルちゃんは発車メロディの東村山音頭を知らない。
   「あれは、東村山音頭。このあたりの盆踊りでは必ず踊るの。盆踊りはね、遠
   くへいってしまってもう会えない人のことを思って踊るんだよ」
   「アイーン!」

バカ殿は心の中の王様であり、いつでも「だいじょうぶだぁ」とささやいてくれるのだ。私事になるが、私(瀬崎)は東村山小学校で学んだ。私の弟は志村けんの同級生だった。それはさておき、作者の想念世界にはこんな風なものが詰まっていて、毎日が祭日の遊園地のようにハチャメチャなのだろうか。でも、そうやって一生懸命バランスを取らなければならないものも、また作者は抱えているのだろうな。
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