瀬崎祐の本棚

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詩集「暗号という」 中島悦子 (2019/08) 思潮社

2019-09-29 20:38:19 | 詩集
 第3詩集か。93頁に2文字熟語のタイトルの作品30編を収める。
 万華鏡の世界を形づくるように言葉が散りばめられている。覗き込んだ世界は完全に閉じられていて、作品を読む者の視線以外の介入を拒んでいるようだ。そして頁を繰ると、カタリと万華鏡が回されたように言葉が動いてまた新たな世界を形づくる。

 「屋上」。そこは「少数の象徴」である二人が対峙する場所なのだろう。世界はただ一人の相手と戦うことの繰り返しでなり立っているのかもしれない。自分であるためには対決の場としての”屋上”に立たなければならないのだ。少し長いが、とても格好いいので最終2連をそのまま紹介する。

   誰にも知られず
   骨が
   屋上でがたごとと
   ひくくこすれあうのを
   聞いている午後

   口をあけた男たちが
   耳をつぶされて
   土まじりの
   階段を駆け上がってくる

 詩集タイトルに密接しているような作品「暗号」には、十二支が呪文のようにあらわれる(作品「先表」にも再度あらわれる)。暗号は特定の者だけとの意思疎通を目的として発せられるが、その秘密性ゆえにどこか陰鬱である。この詩集の作品も、頁を繰った者に、お前だけに伝える、という気魄で迫ってくる。

 「晩月」では、「深い沼の淵で/北域の地図の話」をしている。それはもう懐旧のことなのだろう。ここへたどりつくまでの道程が意味のあるものだったからこそ、今はこのひとときだけで満ち足りているのだろう。

   もう 血は見たくない
   凍る冬の沼を
   水鳥を
   固い椅子に座って感じていると

   体に馴染むまことの夕陽と
   会えるような気がする

 こうして作品を読んでいると、いつのまにか、万華鏡の中に閉じこめられていてカタリと回されているような自分に気づく。
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詩集「泰子」 水出みどり (2019/08) 思潮社

2019-09-27 21:17:44 | 詩集
第6詩集か。93頁に17編を収める。
 各作品のタイトルは見開きの左頁に印字され、作品は次の頁から始まる体裁。比較的短い詩行の行分け詩がほとんどなので、視覚的には開け放された部屋のなかを風が抜けていくような軽やかさがある。

 「屈折」。朝の霧のなかでの間欠泉。吹上がった水はさまざまな形となって墜ちていくのだ。地に戻るまでのわずかな時間に煌めいているのだろう。最終連は、

   水晶体の海
   半音階に
   ふるえる波が
   ひかりを
   屈折させている

 Ⅰの13編の作品には音をなくしたような静謐さがある。それは静止した情景の描写で世界が形づくられているからである。その捉えられた情景のなかに、この瞬間までの物語のすべてがある。長い物語をたどった末の情景が今ここにあるのだ。だから、この情景のなかにはこれからの物語も予感されている。

 4連13行からなる短い作品「決意」の冒頭2連は、

   放物線が
   晴れた午後を切る

   振り返ることのない
   いさぎよい弧のかたち

 何の形象であるかの説明はまったくないが、澄んだ空を背景にくっきりとした形を見せているのだろう。そのたわんだ形で固定された曲線に、張りつめた意志を話者は感じ取っているのだろう。話者の気持ちは、その曲線に後押しされるようにどこかへ向かうのだろう。

 Ⅱに収められた3編はやや長い作品。ここでは情景ではなく、物語そのものが動いている。詩集最後には亡くなった異母姉を詩った「泰子」が収められている。
 その大好きな姉が教えてくれた”おへそ”の大切さを題材にしたのが「母のそのまた母の」。へそで胎児は母とつながっており、命が受けつがれていくわけだ。この作品の最終部分は、「胎生の海は昏く泡立ち 祈りのように唄のようにわたしを揺すった。」
 物語を語っても言葉はどこまでも静謐だった。
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詩集「そらいろあぶりだし」 中井ひさ子 (2019/09) 土曜美術社出版販売

2019-09-24 18:11:58 | 詩集
 第5詩集。71頁に19編を収める。
 おや、次の詩集を出されたのか、司修氏の装幀・挿画もいいなあ、今度は散文詩ばかりなのだなと思って読み始めたら、なんと、掌編集であった。以前から詩誌に書かれていた短文も気持ちの綾を巧みに捉えたものだった。これまでの詩作品は、短い詩行で、その抑制された言葉の奥に広がる世界を想起させるものであったが、そうか、中井さんはこういう文章の達人でもあったのだ。

「懐中時計」では、古道具屋で買った少しゆがんだ文字盤の懐中時計のことが詩われる。その時計はときに速く進んだり、またあるときにはゆっくり進んだりする。その「懐中時計の時間は、私だけの時間になって」いたのだ。止まったようだった彼との楽しい時間が、あっという間に速く動き出すと、

    彼の後ろ姿を見送っていた。もどらなかった。
    ただ、日々の寂しさにじっと見つめると、逆まわりして遠い日の時間にすっぽりと
   連れて行ってくれたりもした。

作品にあらわれる私やわたしは、いつも地上からすこし浮き上がったような世界で暮らしているようだ。そのふわふわ感が心地よい。

 作品にはお化けも出てくるし、もちろん中井作品にはお馴染みの魚やゾウも私に話しかけてくる。「赤い公衆電話」では、ひきこもっていた私に「どこか懐かしい声」の電話がかかってくる。その傍らではウミガメモドキやマンボウサギが涙をうかべているのだ。

   「心はね、水分をいっぱい含んでいるから,重たいんだ。だから、涙を流せば流すほ
   ど、心は軽くなるんだよ。」

 それは(不思議の国の)アリスからの電話だったのだ。 

 今回の詩集の作品を読んで、これまでの中井作品の不思議な言葉のあらわれ方の源を覗き込んだような気もした。そうか、行分け詩の短い言葉で作られている世界が豊かだったのは、その裏にこんな世界がひろがっていたからだったんだ、といったようなことを感じた。
 帯文には、「これって ほんとは あなたの/青春をうたったのでしょう?」という司修氏の言葉があった。
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詩集「降雨三十六景」 日原正彦 (2019/09) ふたば工房

2019-09-20 17:07:31 | 詩集
 137頁に36編を収める。
 作品は9編ずつの4章に分けられていて、すべての作品が春夏秋冬の雨にちなんで詩われている。大部分の作品末尾には「木の芽雨」「育花雨」などのその季節の雨の名前が記されている。また、多くの作品で雨の名前、雨の句が折句にもされている。

 「余韻」の末尾には、”桜雨”の注記が付いている。ここでの桜雨はとても細く降っているのではないだろうか。その中でおさなごが踊っているのだ。生まれて間もないものには明日しかないのだろうが、

   わかりもしない明日は でも
   すぐに 雨の行列を連れてやって来て
   濡れるものは何だろう
   濡れる乳臭いものは何だろう
   無垢なひとみのなかの

 雨は花を散らせにやってくるわけではないだろう。そしてあらわれる美しい詩行は、「風に 盗られる前に 剥がれてゆく/匂いの昨日もあるのだ」。作者の作品にはいつも通奏低音のように時の流れに対する感慨が響いている。おさなごは生まれたときから余韻を生きているのだ。作品の最終連は「卵子に降りそそぐ/数千万の白青い精子の雨」のイメージとなっている。

 ”霧雨”の注記が付いている「窓列」は、雨の中を過ぎる列車を見ている作品。沢山の窓が橋桁をよぎってゆくと、まるで「他人の思い出のなかに/忘れてしまった自分がいるよう」なのだ。この感覚は新鮮で、なるほどと思わされた。そして背骨を「見覚えのない昨日」が伝っては落ちてゆくのだ。

   立っていた
   立たされていた
   霧雨に烟りながら 黒い鉄橋の
   黒い音のなかを突っ切ってゆく何十という窓の列に
   切られながら

 他者の思い出のなかにいる自分は、いったい奈辺にいる自分なのだろうか。

 哀切なのは亡くなった奥様の命日に書かれた「薔薇」、そして生後間もなく亡くなられた娘さんを抱いた奥様があらわれる「ゆうだち」。こうした人たちもひとときの雨と一緒に作者を訪れてくる。雨は見えないものも濡らして通り過ぎていくのだろう。

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詩集「郵便局まで」 八木幹夫 (2019/09) ミッドナイト・プレス

2019-09-17 17:53:43 | 詩集
 157頁に40編を収める。
こんな事をいうのは失礼なことなのだが、作者はとても素直である。対峙したものの存在を、そのままの有り様でまず受けとめている、どこまでも受け入れる。そこから作者と対峙するものの会話がはじまる。その素直さを表出する強さも作者にある。

 「くさ」は、一般的なイメージを返すような「草は凶暴なものだ」という1行で始まる。作者の思念はすでに走りはじめており、読む者はそこにいきなり放り込まれるのだ。

   いくさに敗れた
   頭骨のひびに
   根毛をのばし
   眼窩を突きやぶる
   艸また艸は靡(なび)き
   死は置き去りに
   雨風にさらされる

 言われてみれば、たしかに情け容赦のない草のふるまいに気付かされる。草は自らを凶暴であるとはつゆほども意識していないがために、人間に対してこの上なく凶暴になれるのだ。しかも草の種子は「世界の果てまで/海のある断崖まで」旅をして子孫を残そうとする本能を持っているのだ。

 ”枕詞の抄”と断り書きのある8編は、先人の歌や詩句を核として作られている。ほどよい緊張感が保たれていて、引用されたものによって作品の幅も広がっている。

生前に親しかった詩人に捧げた作品も収められている。「時代の季語となった清水昶」は、詩人のあるべき姿、詩人が担わなくてはならない姿を、清水昶を借りて語っている。いわく「詩人はいつも時代を歌わなければならない/詩人はいつも時代のすこし先を歌わなくてはならない」のだが、

   そうしているうちに
   詩人はいつか時代から見離され頭の上を
   時代がどかどかと踏んづけて通り過ぎる
   詩人はいつも時代のあとをうつむいて
   とぼとぼと歩いていかなければならない

 詩人はそのような運命の存在のものであり、清水昶は実に「いつも詩人だった」のだ。そして、作者が敬愛した彼は「ようするにだね 詩人なんてものは何者でもないんだよ 八木君」と言ったのだ。確かに清水昶は格好良かった。私(瀬崎)は20歳のころに故・大野新氏のところでの会合で一度だけ清水氏にお会いしたことがある。これが清水昶か、と畏怖の念で末席から顔を見たことを覚えている。

 詩集最後に置かれた「冬のうた」では、作者が詩人であることの所以が詩われている。作者はこれからも長い物語を紡いでいくのだろう。
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