瀬崎祐の本棚

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詩集「柔らかい檻」 渡ひろこ (2022/08) 竹林館

2022-08-30 18:04:41 | 詩集
第3詩集。131頁に29編を収める。

巻頭に置かれた「漂流列島」では、新型コロナウイルス感染症が蔓延した我が国を「沈みそうになりながら/漂流している一艘の小舟」と詩う。また「黒い霧」では、ウクライナ侵攻をおこなっているロシアを「その目はもはや盲(めし)いて/サタンの遣いとなったのか」と詩う。作者はそのような状況下で書かれた詩集として差し出してきている。

血脈に触れる作品も収められている。「紙魚(しみ)」、「映写機」は、二十歳で出征して南方の海で亡くなった叔父を詩っている。作者は紙魚が蠢いていた黄ばんだアルバムの写真で会ったこともなかった叔父の存在を知るのだ。

   黄ばんだ写真の中、微笑む二十歳の青年
   叔父だと教えられたのはいつの頃だっただろうか
   叔父が存在した証の古いアルバムも
   今は廃屋のどこかに埋没して
   叔父の名前も母亡き後は知るすべもなく
                  (「映写機」より)

考えてみれば、団塊と呼ばれる世代と、それに続く世代の者があの戦争の災禍になんらかの直接的な関わりを持つ最後の者になるのではないだろうか。そういった意味では語り継ぐ意味のある事柄は少なくない。私事になるが、私(瀬崎)の叔父は画学生だったが学徒出陣で亡くなっており、その遺作のいくつかは信州の美術館・無言館に収蔵されている。

「糸切り」は、父母が亡くなり「残された たわんだ糸を切ったら/返り血浴びた」と始まる。童謡を思わせる淡々とした歌いぶりながら、血脈を捨てようとする思いには余人には測ることの出来ない重いものがあることを感じさせる。最終部分は、

   ままならぬ糸は
   切りましょう
   捨てましょう

   蒼い涙で染まった
   糸切り歯で

話者はその糸を切ることも捨てることもかなわないことを知っている。それだけに悲愴なものが迫ってくる。

詩集最後に置かれた「月酔い」は、孫と思われる幼子を乗せたベビーカーを月明かりの下で押す作品。パンデミックの中にあっても、研ぎ澄まされた感性とともに歩んでいこうという思いが表出されていた。
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詩集「血はねむり血はけむり」 橋場仁奈 (2022/08) 荊冠舎

2022-08-26 21:03:14 | 詩集
103頁に24編を収める。

一人称で展開される作品世界は、奇妙な混乱に満ちている。
たとえば巻頭の「傘のハミング」。私は「夜中に合羽を着せられて娘と息子に/猫車に乗せられ 真駒内川にすてられた」のである。そうして話者はビニール傘をさして「ららら」とパンを買いに行くのだが、セメント工場の物置の前には猫車がひっくり返っているので「ゆうべもきっとすてられた」のである。私は父や母や兄や姉をすてにいく者であり、クロネコヤマトで配られるものになる。私はどこへ向かうのか、作品はどこへ向かうのか。この混乱は悲劇的でありながら、不思議な高揚感も伴っている。私は「トリカブトの枝を持ち薄衣をかぶり」裸足で舞っている。やがて、

   私の身体にもいちめんに苔がはえ緑色になってのぼっていく
   父 母 兄や姉たちに会いにいく小雨にかすむ彼らの家を
   とおくに見て今日はかえろう なおもさみしくなるこころを
   おさえていちだんいちだん下りていくときどき手すりに
   つかまって 傘をさして傘をさして ららら

このように作品には、理屈とか解釈を振り捨ててどこまでも行ってしまう力がある。

「引きぬく」。糸を1本引きぬくと白い布にはギャザーがよって「縦1列に小さなあかりが灯って道しるべとなる」。そこに川が流れ、その向こうでは前屈みになった父はナタで鶏の骨を叩いている。寒い日も暑い日も骨を叩く音がして、叩かれて首がない私はバタバタと飛び、走る。明日には生き返って走り回ると思うのだが、覚めればやっぱり首がないのだ。極限のような状態を作り出すことによって作者はどこへたどり着こうとしたのだろうか。あまりの激しさに、読む者はただ立ち尽くしてしまうばかりだ。最終部分は、

   草が波立つ、水の、草の、虎杖のむれが
   幽霊のごとくゆれてゆれて草の、水の、石の、
   どの身体からものびてくる捻れて絡まる
   蔓草の記憶の糸を1本、引きぬくと
   あかりのように川が
   流れはじめる

一編一編が濃密である。この、誰のせいによるのか判らない喧噪と、何のためなのか判らない混乱が、作品世界を縺れさせる。一度踏み込むと抜け出せない魅力的な作品世界だ。
巻末におかれた「少女」については詩誌発表時に感想を書いている。

この詩集と同時に、同じ発行日付のもう一冊の詩集「あーる/、は駆ける」も届いた。そちらには15編が収められているのだが、ふたつの詩集がそれぞれで構築している世界はまったく異なるものだった。「あーる/、は駆ける」の作品も混乱しているのだが、そちらでは言葉が勝手に作者を引きずり回しているような混乱であった。
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詩集「反マトリョーシカ宣言」 大橋政人 (2022/10) 思潮社

2022-08-24 11:58:58 | 詩集
第16詩集。125頁に31編を載せる。

収められた作品の表面上の特徴としては、平易な言葉、短い詩行、ということになるのだろうが、そこにあらわされてくるものはかなりややこしい。自由に触手を伸ばした感覚が捉えた世界である。見た目の奥にあるものを捉えているのだ。まるで、小さな穴を何気なく覗きこんだら、その穴はずっと深いところへつづいている感じである。

「海」。ここで描かれる海ではのっぺりとした波が打ち寄せているようだ。子どもたちは「海面を/ベリベリベリと/引きはがしたりして/遊んでいる」のだ。海面の下をのぞきこんだりもできるのだ。一方で大人たちは、

   舟で沖に出て
   長い棒の先に
   水平線を引っかけて
   いま大きく
   浜まで引っぱってくるところ

作者が捉えた海は、己の形を持たない水が満ちている場所ではなく、まるで一枚の大きな布のように形を持っている。作者の中にひろがる海は、作者自身を包み込んでしまうようなものなのだろうか。

「りんかく線」。私たちはともすれば物事を形で捉えようとする、形にとじ込めようとする。そんな行為を、若干の皮肉もまじえて、ぬり絵にたとえている。

   始めは
   りんかく線だよ
   色は後からだよ

   りんかく線から
   色がはみ出していけないよ

   ぬり絵はいつも
   そんなことばかり言っている

本当の物事は形などにとらわれることはないのだ。この感覚は、チューリップに話しかける「カタチを脱ぐ」でも詩われている。

「空も悪い」では、話者は「空が大きいから/私は小さい」と言う。空としてはそんなことを言われても困ってしまうだろうが、この感覚は何となくわかる。この作品の最終部分は理屈など超えたところで共感を呼ぶ。ああ、そうだよな、と思ってしまう。

   私も悪いが
   空も悪い

   空があるから
   いつまでも
   私は悲しい

作者はまど・みちおを敬愛しているという。そして言葉の世界と実物の世界の違いを確認し、また精神実験の実験記録の記述したという。噛みしめると、ほのかな甘さの奥にしっかりとした味が潜んでいる詩集だった。
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詩誌「交野が原」  93号  (2022/09) 大阪

2022-08-19 20:20:43 | 「か行」で始まる詩誌
金原則夫発行の本誌は毎号読みでがある。106頁に31編の詩作品、3編の評論・エッセイ、15編の書評を載せている。

「晩年」岩佐なを。話者は新聞紙でふくろを作ってくれる先生に弟子入りする。やがていろいろな紙でふくろを作れるようになり、

   生きていくのに大切な書類でふくろを
   一所懸命に作ったこともあり
   困るほどたのしかった
   先生がふくろから出て来て
   わきまえなされ、と
   おっしゃったこともあった

ついにはふくろから出て来た先生が「もう、あたしのことは忘れなされ、と/おっしゃるので」話者はありったけの紙を貼り合わせたふくろを作り、「中に入って/永眠した」のである。読む者に奇妙な混乱とともに何故か安心感のようなものをもたらす作品だった。人生はひとつのふくろを作るようなものであり、最後はそのふくろに入れば好いだけのことかもしれない。

「虫を噛む」野崎有以。お腹にぎょう虫のいる女の話である。村から都会へ出て来た女は、尻から出てきたぎょう虫を美味しく食したりする。女は社会的地位の高い男に狙いを定めると、

   女はぎょう虫のように男の心のなかに入り込んだ
   男の心のなかのぎょう虫は
   「嫁にしたい女がいる」と男が男の両親に言わせるように仕向けた
   女は男から半歩下がって ぎょう虫のような顔をして微笑んだ

はて、このぎょう虫とはどんな存在のものなのだろうか。我が身に巣くっていて、不気味なほどに宿主の本質を映しているようなのだ。やがて女の尻から何か出てきて、「またあの白い虫だろうと思ったら/赤ん坊だった」りするのだ。もちろん「赤ん坊もぎょう虫に顔が似ていた」のである。あっけらかんとした語り口にのせられて、読む者もどこまでも連れて行かれてしまう。

「ひの馘首(かくしゅ)」金堀則夫は、「ひらがなの/ひにつつまれたがん首が/ひのつぼにすっぽり入りこんでいる」と始まる。かつて首を討ち取られたひめの身代わりに地蔵の首が切られたのである。その後、ひめはひのうちどころなく育ち、地蔵の胴体は祀られる。

   首切りにあったおのれが
   切られた首を葬ろうとしても
   葬るところがない 弔えないしがらみが
   ひのめが がんじがらめにくくられている

作者の地にある伝承であろうか。「ひ」という文字の形を象徴的に捉えて、巧みに物語に活かしている。「ひ」という文字がいろいろな意味を孕んだものに見えてきた。

私(瀬崎)は詩「いくた」を載せてもらっている。

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詩集「青き時雨のなかを」 加藤孝男 (2022/02) 書肆侃々房

2022-08-15 11:07:37 | 詩集
155頁に150編の四行詩を載せる。
ただ、本書を詩集と言っていいのか否かは定かではない。まず作品をひとつ紹介する。

      尖る
   今宵ある
   頭痛は青き夕ぞらの
   しらしらとして
   鷺より尖る

あとがきで作者は「この本は(略)/歌集でいえば、第三歌集ということになる」と書き、また「絶句形式という四行詩に挑戦した」ともある。そして「詩集と歌集の境界線上にあ」り、「ジャンルにあまり拘泥する必要もない」とのこと。

言葉のリズムはまったくの57577なので、そのリズム感を感じてしまうと、つい4行分かち書きの短歌として読みたくもなってくる自分がいた。しかし、この表記を選択したからには、それは作者としては避けたいことだったのだろうか。

      稲妻
   展望の
   バーにて語るものなくて
   閃(ひらめ)く稲妻を
   わがこころとす

各詩編にタイトルがつくことは短歌とは大きく異なる点だろう。いささか気になったのは、ほとんどの作品で作品本文中の一語をタイトルとしていること。短い限られた文字数の作品にせっかくタイトルを付けるのであれば、本文中の言葉とは別の、本文とバランスを取って揺れるようなタイトルにしてはどうだっただろうか。たとえば、次の作品のように。

      火の色
   なけなしの記憶
   集めて夢を見る
   秋冷の野は
   朽ち葉いろせり

私(瀬崎)はあくまでも(四行)詩として読むことことしかできないのだが、そのリズムは心地よいものだった。時間を流さずに今を詩いながら、そこにこれまでの生の時間を包含させている作品群だった。
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