隅の老人のミステリー読書雑感

ミステリーの読後感や、関連のドラマ・映画など。

1264.ミステリアーナ

2012年06月25日 | 評論
ミステリアーナ
読 了 日 2012/06/18
著  者 長沼弘毅
出 版 社 講談社
形  態 単行本
ページ数 243
発 行 日 1964/05/20
ASIN B000JAG5NM

 

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達て西尾忠久氏の「ミステリー気になる女たち」を挙げたので、こちらもこの辺で読書記録に挟んでおこうと思って、いや、実はこの本はこの読書記録を始めるずっと前に一度読んでいるのだが、こちらの記録に残しておこうと、少しずつ再読していたのだ。
この長沼氏の著作は、小遣いに不自由した際に、何冊か売り飛ばしてしまって、今考えると惜しいことをした。
いま手元に残っているのは本書の他に、「シャーロック・ホームズの紫烟」と「シャーロック・ホームズの挨拶」だけとなってしまった。
僕は何度も大事なものを処分してしまうという、同じ過ちを繰り返しては後々後悔している。バカは死ななきゃ治らない、というが全くその通りだ。
高校生の頃シャーロック・ホームズ譚に初めて出会って、探偵小説観が変わったことは、過去にも書いてきた。ホームズが、訪れた依頼人に対して行う、安楽椅子探偵の描写にショックを受けたのだ。これこそが探偵の究極の姿だと感じた。その後そうした描写は、エドガー・アラン・ポー氏のデュパンから受け継いだものだと知って、今度はポーを読むなど、大昔の懐かしい思い出だ。以来、僕は安楽椅子探偵の活躍する作品を探し続けている。

 

 

同時に、ホームズに関する文献にも目が向いて、書店で長沼氏のシャーロッキアンとしての著作を目にして、次々と買い求めた時期があったのだ。
世界中にシャーロッキアンの団体(ベイカー・ストリート・イレギュラーズ)があって、年に何度か英国のベーカー街に集合する、などということを知り、いつかは自分もなどと考えたのも全く若気の至りで、今となっては夢のまた夢である。
本書はシャーロック・ホームズの研究書ではなく、古今東西(内外)のミステリーに関する軽い読み物という体裁だ。
どこから開いて読んでも差し支えのない独立したエッセイだ。それでもコナン・ドイル(シャーロック・ホームズ)のミスの指摘はいくつかあって、それはそれで面白い。
僕などは、そうした指摘のある個所や、物語をもう一度読んでみようという気になる。これは誰でもが感じることだろうか?長沼氏の該博な知識は、ミステリー多岐にわたっており、しかもその語り口が優しく悪意のひとかけらもないことが、時にはユーモアもあって読んでいても心地よいのだ。

 

 

8編もの短いエッセイの中には、密室もの、倒叙法などのトリックに関する話から、犯人の失策とか、題名に関する話題(これについては色のついた題名や、動物題名など7編も書かれている)など、興味をひかれる話題が語られる。 本書は、小説のように通して読むのではなく、小説と小説の間に挟んで僕は読んできた。西尾氏の「ミステリー気になる女たち」と同様に、本書も折々に少しずつ長い時間をかけて読んできたものである。

自分の読書記録をブログに書いている割に、時として本を読むこともブログに書くことも面倒になることがある。そうした状態は長く続くことは無いのだが、そんな時にこうしたエッセイをパラパラめくっていると、不思議とまたミステリーを読もうという気になってくる。 例えがちょっと違うが、趣味のプログラミングや新しいアプリの勉強なども、書店に行ってそれらの関連書籍を見ていると、また帰ってやろうという気になるときがある。
スランプというほどのことではないが、気持ちが落ち込んだ時に、気分を変えるために読む本と言えるかもしれない。

 

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