隅の老人のミステリー読書雑感

ミステリーの読後感や、関連のドラマ・映画など。

1451.灰色の犬

2014年03月27日 | ハードボイルド
灰色の犬
読 了 日 2014/03/13
著  者 福澤徹三
出 版 社 光文社
形  態 単行本
ページ数 508
発 行 日 2013/09/20
I S B N 978-4-334-92897-1

 

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ミさんが十年ほど前から、いやもっと前からだったかな、リウマチに罹って手足だけでなく、体全体に力が入らないという状態だった。それでも市内の介護センターで、週1回リハビリをを行っているので、どうにか日常生活に大きな支障が出るというほどではなくなった。
ところが昨日朝になって、体中が痛いという状態になって、急遽救急車で近くの君津中央病院に運ばれた。普段の病院通いは僕が車で連れていくのだが、昨日は歩けない状態だったから、60㎏以上もある体を車に乗せるのは僕には無理だったので、仕方なく119番に頼むことにしたのだ。救急車には娘が同乗して行った。
1か月ほど前から娘が、それまでのアウトレット・モールでの派遣社員の仕事を辞めて、在宅していたので入院手続きや身の回り品の用意などの手配を任せられてよかった。
検査の結果また肺に水が溜まっていることが分かった。実は1昨年自宅で転んで鎖骨を骨折して、2か月ほど同じ病院に入院した際にも、同じ症状があったのに、喫煙の悪習慣を断ち切れず、多分それも一つの要因ではないかと思うのだが、煙草のみにはそれなりの理屈があって、なかなか止めようとはしないのだ。

 

 

そればかりではない。1昨日(3月28日)は僕も行きつけの眼科で、右眼の緑内障の治療で、レーザー光線の照射による手術を受けたばかりだった。近頃乱視がひどくなって、時には眼鏡をかけているにも拘らず、物が二重に見えることがあって、しばらくぶりに訪れた眼科で緑内障と診断されたのだ。
そういえば少し前にブログにも書いたが、車を駐車場の線に沿って入れているつもりが、いつも少し傾くのは、加齢による勘の悪さばかりでなく、乱視が進んでいることも原因の一つと分かったのだ。
1週間後くらいに、左眼の方もレーザー照射をすることになっているので、そのあと眼鏡の処方をしてもらって、改めて眼鏡を作ろうかと思っている。今月は何かと非日常的なことが重なって、物要りだったりと気忙しい。ということでこのところ読書以外の事を書くことが多いが、ブログの更新がその分遅れる。

 

 

分、こういうのをノワール小説と言うのだろうか。ノワールといえば、昔フィルム・ノワールが一世を風靡したことがあった。僕はフランス語の暗い映画という意味である「フィルム・ノワール」という言葉から、フランスの犯罪映画を指すのだと思っていたら、1940年代から50年代にかけて製作されたアメリカの犯罪映画を指して、フランスのニーノ・フランクという脚本家が言ったことらしい。
つい先だって僕は新藤冬樹氏の作品を読んだが、BSイレブンの「宮崎美子のすずらん本屋堂」の中で、宮崎美子氏が新藤氏をの事を指して、「ノワールの旗手」などという表現をしていたが、最近はノワールと言われる暗黒の世界の事件小説が多くの作家によって著されているようだ。僕もそうしたカテゴリーの範疇に入る本を知らずに読んでいるのかもしれないが、本書を読み進むうちにこれこそノワールではないかと思った次第だ。

 

 

本書を知ったのもどこかのテレビ番組だろう、近頃は新聞の読書欄もあまり見てないから・・・・。たまに新聞に著名な作家の記事を見たりすると、義務的に切り取ってクリアファイルに収めたりする。このブログで初めての作家の本を読むときに、著者のページも同時に作るから、そのときのためにデータを集める癖がついているのだ。それも今ではさして重要なことではない。
そうしたデータはほとんどネットで見ることができる今、スクラップブックや、クリアファイルの世話になることはなくなっているからだ。
ここ2ヶ月ほど専ら図書館を利用して、過去に気になったタイトルを少しずつ消化しているが、わずかずつ余裕ができて、読もうとする本の作者のページを予め作ることができている。
あと2―3ヶ月でこのブログがなくなるということで、Broach(NTTぷららの提供するブログサービス)のブロガー達の中には、ブログサービスの継続を訴える者が掲示板に投稿している。それに同調するブロガーもいるが、多分廃止の決定は覆らないだろう。
今月(3月)に入ってようやくブログの記事の、HTMLによるバックアップが終わった。数千に及ぶ記事だから結構手間もかかったが、かなり前からバックアップは独自に行っていたので、こんな事態を予測していたわけではないが、結果オーライといった感じだ。

 

 

の場合は、数年前に福祉施設のホームページの立ち上げに協力する形で、その予備の作業として自分のサイトを作ったから、とりあえずはブログの記事をそこに移行するつもりでいる。
当面の引越し先があることと、移行の方法がわかっている事で、慌てることは無いのだが、まあ、面倒であることに変わりは無く、ブロガー諸氏の抗議同様、ぷららのNTTグループとは思えない安易な決定に、納得できない思いも湧く。

そんな状況の中でも僕の読書に対する意欲はますます高まって、図書館を利用することによって読みたい本をほぼ借りて読めることが、僕のそんな欲求を充足させている。このブログの記事の元ともなるメモを読書録なるタイトルを付けたノートに記しているが、そのノートの後ろのページに書評番組などで紹介された、話題作、新作のタイトルの中から気になるものをメモしてある。
それらのタイトルをすべて読めるわけではないが、図書館で借りだす際の参考にしている。本書もこの次の「七色の毒」と一緒に袖ヶ浦市立図書館で借りてきた。

ストーリーも終盤に近づくにしたがって、どうやら裏の仕組みがわかってくる。どうしようもない息子からの電話は、その証拠らしき二人の男の会話だった。馬鹿な息子ほどかわいいと言うが、仕事一筋の刑事と父と、「大学は出たけれど・・・」というプウタローの息子が、事件のおかげでどうやら絆を取り戻せそうなラストに、それまでたまっていたフラストレーションが解消してようやく安堵の胸をなでおろせる。

 

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1450.下山事件 最後の証言

2014年03月25日 | ノンフィクション
下山事件 最後の証言
読 了 日 2014/03/10
著  者 柴田哲孝
出 版 社 祥伝社
形  態 単行本
ページ数 452
発 行 日 2005/07/20
I S B N 4-396-63252-5

 

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者の名前を知った最近の話題作「黄昏の光と影」は、どこの図書館も貸し出し中なので、日本推理作家協会賞(2006年第59回評論その他の部門)を受賞したと言う本書を君津市の図書館で借りてきた。本書は木更津市の図書館にもあったのだが、前回読んだもう1冊の「書物奏鳴(ラ・ソナト)」を借りるため、君津市立図書館へと足を伸ばしたのだ。
最近は、この君津市立図書館や、袖ヶ浦市立図書館の方が蔵書数の多いことが判ってきて、両隣の街の図書館を利用することが多くなった。やはり新しい街の方がこうした文化面への予算のかけ方が、多いのだろうか?
隣街へと車を走らせながらそんなことを思う。
うちのカミさんに言わせれば、「そうなのよ、木更津市は文化面で君津市に負けているのよ!」ということだ。まあ、一概にそうとも言えないのだろうが、そういえば君津市の文化センターで催されるイベントのお知らせが、宅配されるタブロイド紙に出ているのをよく見かけるから、ウチのカミさんの言うことも満更なことでもないのかも。

 

 

次第に遠くなりつつある昭和の時代だが、多くの知識人や著名人が後々検証を試みた、この下山事件が起きた昭和24年(7月)は、僕がまだ小学4年生のころだ。
前年に学校法が変わり現在の(新制)中学・高校ができて、僕が通っている学校も、国民学校から町営の小学校に変った。そうした中、新聞やラジオで大きく報じられた事件にもかかわらず、幼い僕の関心を引くことではなかった。
実は正直言って当時の記憶はあまり頭に残っていない。というよりは、多分僕の中では貧乏暮らしだったころのあまり良い思い出のない時代を、忘れてしまいたいという意識が働いて、記憶を消し去ってしまったのかもしれない。

終戦間もない日本全国が物不足の中、明日へのわずかな希望に支えられて必死に生きていたことが、頭の中から抜け落ちているのは果たして幸せなことなのかどうか?
とにかく最悪の食糧事情だったその当時、弁当にサツマイモや南瓜を持って行ったことが、大人になってからしばらくの間、サツマイモや南瓜を食べることができなくなった、というトラウマみたいなことも記憶を消し去る要因だったのかもしれない。
先日の母の葬儀でしばらくぶりに集まった弟や妹たちの連れ合いと昔話をしたが、幼いながらも東京大空襲をただ一人経験した僕が、B29爆撃機が襲来して、まるで雨霰のごとく焼夷弾を落とし、下町一帯を火の海にして、たくさんの死者を出した戦争のさなか母の手に引かれて逃げ回った恐怖の体験も、まるで幻のように消え去ろうとしているほどなのだ。
弟にその時の母がまだ若干28歳だったと話すと、「母は強し、だな。」という。幼い弟を背に、僕の手を引いて火の海から逃げ回った母も、この世から去って時代の体験を共有する者が次第に少なくなる。

 

 

在のJR-日本鉄道の前身だった国鉄の総裁・下山定則氏が昭和24年7月5日に出勤途上行方不明となり、常磐線の北千住-綾瀬間で轢死体となって発見されるという事件が起きた。事故か、自殺か、他殺か?あらゆる面からの捜査が行われたが、多くの謎を残して未解決事件の仲間入りをした。
松本清張氏の「日本の黒い霧」の中で、この事件を検証した「下山事件」がよく知られており、ドラマや映画の元ともなっている。
だが、本書の最大の特徴は、なんといっても著者・柴田哲孝氏の親族がこの事件の当事者かもしれない、ということに尽きる。これはフィクション(小説)ではなく、事実に基づいた検証のドキュメントであり、柴田一族がどのように関わったのかということだけに焦点を絞っても、興味深く読める物語なのだ。
膨大な資料と、多くのインタビューを行った調査は、これでもかというほどの検証を繰り返して行き、気の遠くなるような時間の経過を思わせる。
僕は事件の検証そのものも、もちろんそれが本書のテーマであるから、興味の中心であるが、同時に著者と事件への関わりが深いと思われる彼の祖父との関係、また、その妹(著者にとって大叔母となる)、さらには著者の母との会話―それらもインタビューの一部だ―にとても心地よい雰囲気を感じ取ることができて、そうしたこともこの「最後の証言」としての事件の検証をまとめ上げることのできた要因ではないかと感じている。

昨日3月24日に再びいすみ市大原を訪れて、四十九日の法要について、寺の僧侶と打ち合わせをしたり、妹たちと後片付けを話し合ったりしたので、ブログの更新が予定を1日ずれた。
四十九日法要は4月27日の日曜日に墓のある菩提寺・瀧泉寺の本堂で行うことにした。新盆を迎えるころまでは何かと落ち着かない日々を過ごす予感がして、まだ母を送ったことへの実感がわいてこない。

 

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1449.書物奏鳴(ラ・ソナト)

2014年03月21日 | サスペンス
書物奏鳴(ラ・ソナト)
読 了 日 2014/03/01
著  者 赤城毅
出 版 社 講談社
形  態 新書
ページ数 220
発 行 日 2013/06/05
ISBN 978-4-06-182878-0

 

上の著者名をクリックすると、著者のページへ移動します。

 

が逝った。96歳とは言いながら、元気―といっても元気で動き回っていたと言う意味ではなく、病気でなかったと言うことだが―な一人暮らしの日常生活を送っていたから、1昨々日の18日朝、妹からの電話で、母の突然の死を知らされた時は、あまりの急な話に一瞬信じられない思いが湧く。
取るものもとりあえずとにかく車で駆けつける。いつものようにMDでジム・ホールの「アランフェス・コンチェルト」を聴きながらの1時間半のドライブだが、チェット・ベイカーのトランペットも、ローランド・ハナのピアノも、いつものと違って何か物悲しく聞こえる。

 

 

先方に着くと、警察の車が2―3台止まっていいて、家の前に3―4名の警察官がおり、「身内の方ですか?」と聞かれたので、「長男です」といって中に入る。たまたま埼玉から手助けに訪れていた妹の話ではトイレで倒れており、直ぐに救急車を呼んだが、死亡を確認した救急隊員が警察に連絡したという。
トイレからいつまでも出てこないのを不審に思った妹が、開けて中で倒れていたのを発見した、という経緯が変死と言うことで、事件として扱われ、嘱託医の検死も行われるなど、調べは午前中いっぱいかかる。所轄のいすみ警察署から県警本部に書類が回り、事件性が無いと判断されて、遺体搬送などの許可が下りるまで、遺 体を動かすことや部屋をいじることを固く禁じることを申し渡して、警察は引き上げた。

 

 

主となる僕は先に近くの葬儀社に行き葬儀の日程等を打ち合わせる。極々内輪での葬儀なので、通夜は行わず告別式のみ行うこと、葬儀社から市営の火葬場の予約を取ってもらうことなどを依頼する。19日が友引なので、告別式は20日となる。
午後4時過ぎに警察から許可の電話が入ったので、僕は御宿町の警察嘱託医のところへ「死体検案書」をもらいに走る。2通のうち1通は警察に、もう1通は市役所にもって行き、死亡届や火葬許可証をもらってくる。
世事に疎い僕は葬儀に関する諸々のことも知らないことが多く、下の妹からの指図を受けて走り回る。
19日の朝、納棺のために葬儀社が来て、遺体に経帷子などが着せられて、母は棺に納められる。腐敗予防の10kgほどのドライアイスを腹や胸に抱いて、妹たちに死化粧を施された母は寝顔の安らかさを見せる。

 

 

そして昨日、3月20日(木曜日)に母(みさを96歳)の葬儀を行う。兄弟姉妹4人とその家族のみで内輪だけの葬儀だ。生憎の雨模様で昨日までの春の陽気が一転して冬に逆戻りの感じだ。
12時半からの告別式は30分余りで終わり、1時過ぎに棺を載せた霊柩車とともに火葬場に向かう。市営の火葬場は町外れの高台に位置し、林に囲まれたいかにもそれらしい佇まいを見せる。僕はそれまでに親戚や友人知人などの葬儀で、何度か訪れているがいつも初めて来る様な感じがする。悪い想い出を消そうとする本能がそうさせるのだろうか? 
火葬を待つ間の待合室は、96歳の大往生ということもあり、葬儀という暗さはまったく無く、寺の和尚を含め歓談の呈を催した。2時半過ぎに火葬は終わり、少人数で拾った骨を収めた骨壷とともに寺に向かう。冷たい雨が次第に激しくなる。
葬儀社の手配で依頼してあった石屋さんが墓を開け、納骨をする。激しい雨は別れを惜しむ母の涙か。
12年前に父を失い、今回母を亡くし、これで僕の両親は二人ともいなくなった。寂しい思いはするが、これも自然の摂理だ。「お母さん、長い間お疲れ様でした。ゆっくりと安らかにお眠りください。」心のうちで祈りながら焼香をする。合掌。

 

 

書人としては、このようなタイトルを見逃すわけには行かないのだが、何と調べたら第1作の「書物狩人」が2010年4月に敢行されて、以下続々とシリーズは続いて、最新刊である本書まで既に8巻が出ているということに、驚いた。
勿論ファンの間では著名の事実で、僕は自分の無知を恥じるが、それより何よりそんなにたくさんの既刊があることの方に喜びを感じている。君津や袖ヶ浦の図書館にはそれらの既刊が、全て揃っているらしいから(残念ながら木更津市の図書館の蔵書には第1作のみ)、いずれ1冊ずつ借りて読もうと、今から楽しみにしている。
遅くファンになることのメリットの一つに、たくさんある既刊を待つことなく読めることだ。

 

 

読書ノートの後ろにあるメモから、5冊つほどを書きだして、君津市立図書館へ足を運ぶ。市役所の隣に位置する図書館は、木立に囲まれた瀟洒なたたずまいを見せている。残念ながら木更津市立図書館の2倍はあろうかという広さと蔵書数を誇るのではないか。車を走らせれば、僕の家から10分ほどで行ける距離なのだが、いつも木更津と逆だったらいいのにという思いに駆られる。
メモ書きした5冊のうち3冊は、国道127号線沿いの運動公園内の図書室の蔵書ということで、そちらはまた別の日に借りることにして、本書と、柴田哲孝氏の「下山事件最後の証言」を借りてきた。 ラップフィルムで被覆されているが、元の装丁の皮装を思わせる風合いが、タイトルに相応しい装丁と共に指先に感じられて、読む前から胸をときめかせる。

 

 

別名ル・シャスールと呼ばれる半井優一を主人公とする連作短編集である。ル・シャスールとはフランス語で書物の狩人という意味だ。依頼人からの注文に応えて、この世に存在するあらゆる種類の書物を探し出すのがル・シャスールと呼ばれるゆえんである。
しかし、依頼人の方もいずれも曲者ぞろいで、注文の本もその辺にあるものは一つもない。その難しい注文をものともせずに受けるル・シャスールの優秀な調査能力、情報収集力も半端ではない。

んな調査能力や情報の収集能力を見ていると、僕は前に読んだ「インフォメーショニスト」(テイラー・スティーヴンス著 講談社文庫)が思い浮かぶ。もちろん内容は全くの別物だが、お互い依頼人の仕事をこなすために調査や情報の収集に奔走するところが共通の点である。
これと思った本が期待通りの面白さを見せた時が、読書人としての喜びだ。胸に響く感動の喜びをもっともっと味わいたいものだ。

 

初出(メフィスト)
# タイトル 発行月・号
第一話 魅せられたひとびと 2012.Vol.2
第二話 旧式の陥穽 2012.Vol.3
第三話 天はみそなわす 2013.Vol.1
第四話 狩られた狩人 書き下ろし

 

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1448.スタート

2014年03月18日 | サスペンス
スタート!
読 了 日 2014/02/25
著  者 中山七里
出 版 社 光文社
形  態 単行本
ページ数 331
発 行 日 2012/11/20
I S B N 978-4-334-92857-5

 

上の著者名をクリックすると、著者のページへ移動します。

昨日、3月16日(日曜日)に、豊岡光生園の保護者会が開催された。正確には会の名称は保護者・家族の会豊岡支部会という。平成25年度最後の会合だ。
豊岡光生園は社会福祉法人・薄光会の中核ともいえる存在の、知的障害者の入所施設である。法人最初の施設で開所後二十数年間は理事長が常駐していたので、法人本部も兼ねていた。
昭和55年開所当時は山間のダム湖のほとりで近代建築を誇っていたが、筑後30年を越す建物は鉄筋コンクリート作りとはいえ、さすがに老朽化を免れず、厳しい財務状況の中で改築のためのプロジェクトチームを発足させた。
プロジェクトチームは設計業者、建築会社との議論を重ねて改築の計画をまとめ上げ、一昨年、平成24年12月から改築が敢行された。
今回の主だった議題はその改築についてだが、1年余の工事期間を終えて、来月、4月20日に豊岡のみならず法人全体のイベントとして竣工式を予定しているので、それについては終了後の別の機会に書くことにする。

 

 

さて、保護者・家族の会は元々豊岡光生園を利用する障害児(者)の保護者―主として親たち―によって組織された団体の名称で、当初は施設は1箇所だったから、保護者会と名付けられて保護者会といえば豊岡光生園に入所している園生(当時は入所利用者をそう呼んでいた)の保護者の団体を指していた。
団体は、年数回催される保護者会に参加することや、幾つかの班に分かれて設けられた作業日に、主として細かなメンテナンス作業に従事するといったこと、また園生と一緒に季節ごとのイベント(夏祭り、運動会、クリスマス会等々)を開催する、といった活動をしてきた。そうした活動の中で、保護者同士は自然と絆のような繋がりを培っていった。

 

 

光会はその後豊岡光生園の園生たちが、老後も心置きなく過ごせるようにという目的を以って、安房郡三芳村(現在の南房総市)に特別養護老人ホーム・三芳光陽園を設立開所した。
さらには地域社会との共生を旗印とする法人は、鴨川市と地元富津市湊に通所施設、鴨川ひかり学園および湊ひかり学園をそれぞれ開園する。
施設が増えるとともに、それぞれの施設の保護者によりそれぞれの保護者会が生まれ、施設独自に活動が始められた。そこで同じ法人内の保護者会の交流を目的に一つの大きな組織に、名前も保護者・家族の会として、豊岡支部会のようにそれぞれの施設においては支部会という名称に変わった。

 

 

ところで、自立支援法等の法改正による障害者への対応は、激しいほどの変化を見せて、施設のあり方も利用者の生活により一層寄り添う形に変えざるを得ない状況になった。
その点について詳しく書いていくと、長くなるので省略するが、一言で言えば個別対応を迫られるようになったと言うことか。否、そうした状況は利用者第一をモットーにしているわが薄光会においては、望むところなのだが、いかんせん資金的に余裕のある営みをしているわけではない。
限られた収入の中では十分な介護・支援員を配置したり、個別支援に対応した居住環境を構築することは非常に困難なことなのだ。

 

 

に入所施設において対応の変化を端的に示されたのが、利用者一人当たりの居住面積だ。限られたスペースに立地する施設の中で居住面積を増やすことは不可能に近い。そこで、豊岡光生園では60人だった入所定員を40名に減らして、あまり良い言い方ではないが余剰人員を収納すべく、ケアホーム事業を開始することになる。
それらの計画の立案・実行については、実質的なリーダーである幹部職員と、理事長を始めとする法人役員で構成される経営会議が主体となって進められてきた。その結果、現在はケアホームCOCO、ひなたホームズという二つのケアホーム事業が運営されており、ホームの数も7棟となった。
担当職員のたゆまぬ努力は地域社会との交流もスムーズに行われて、次第に障害者の生活や活動が近隣住民に認められるところとなっている。

 

 

そうした経過を経てきた保護者・家族の会は、ここ数年の間に新たに入所した利用者の保護者が加わり、またケアホームへの異動となった利用者の保護者とに別れて、全体としての集まりが年2回となった今は、以前ほどの保護者同士のつながりは無くなり、絆は希薄になっている。
古くからの保護者の中には、既に故人となった人も少なくない。そうした状況の中で以前のような保護者の絆を復活させるのは困難なことだ。法の下に保護される反面、厳しい監視下に置かれる社会福祉法人の運営の一端を担ってきた古くからの保護者への対応も、法人として考えるべき課題の一つではないだろうか?

会の終了後そんなことも頭の隅をよぎったのだが、今や、様々な世代が入り混じった状態と、出発時点と異なる社会環境の下では、施設に対する思いもそれぞれに異なるだろうから、簡単ではない。
さて・・・・。

社会福祉法人の一員として何の力にもなれない自分をもどかしく思いながら、数十年の時の流れを振り返ると、様々な、時には激動の時代の中での出来事が去来する。
一方で、世代交代の始まった職員のリーダーたちの若い力が、変革の時代を乗り越えて薄光会の発展と、多くの利用者の生活の安寧を支えていくことだろう、という安心感も生まれる。年寄りの繰言がだいぶ長くなった。

 

 

者・中山七里氏は次々と話題作を発表する傍ら、テレビ番組への出演など目覚しい活躍ぶりだ。 デビュー作の「さよならドビュッシー」を読んだ頃の、その音楽性と巧みな表現力が、この作者は何者なんだろう?と言った謎めいた神秘性は薄れたものの、逆に著者の言葉から編集者の難しい注文に応えて、傑作を物にする職人魂のようなものを感じいる。
この作者の特徴は、どの作品にも結末の意外性が盛り込まれており、読者の予想をあっさりと裏切る、といったところだ。
多分、と作者の心境を推測すれば、物語を作る過程で、今度はどんな手法で読者を「アッ!」と言わせようか、そんな読者へのサービス精神にあふれる思いで、ストーリー構成を考え進めているのではないか、そんなことを思うのだ。

 

 

2年前に読んだ「さよならドビュッシー」の番外編ともいえる「要介護探偵の事件簿」(文庫化に際しては、「さよならドビュッシー前奏曲(プレリュード)」となっている。)、僕はこの1作で作者の虜になってしまい、直ぐその後に「さよならドビュッシー」を読み、ますますその魅力に取り付かれてしまったのだ。
僕にとって10冊目となる本書の舞台は、映画の製作現場だ。だからタイトルの「スタート!」は、勿論監督が発する撮影開始の号令だ。それに従って助監督が打ち鳴らす?のはカチンコと呼ばれる道具だ。
最近では必ずしも監督が「スタート」と言う言葉を発するとは限らず、人によっては「ヨーイ、ハイ」と言ったりすることもあるようだ。海外では大抵「Action=アクション」と言ってるのを耳にする。 映画の製作に関して、一番の課題は資金集めだろう、そうしたことがネックとなって、しばらく製作現場から遠のいていた日本映画界の巨匠・大森宗俊が3年ぶりに暖めていた企画を以って、製作を開始すると言う。
常にコンビを組んできたカメラマンの小森から連絡を受けた助監督の宮藤映一は、再び始まる大森組の製作活動を思い、胸が高鳴るのだった。というのもローコストで安易な映画作りに参加することで、映画への情熱を保ってきたつもりが、試写会の席で耳にするのは、素人の観客から発せられた酷評だったから、腐っていたところなのだ。

 

 

森宗俊が暖めていた企画とは、「災厄の季節」と言うタイトルだ。そして、彼が選んだ脚本家は大方の予想を覆して、売り出し中の若手・六車圭輔だった。陰で天皇とも呼ばれるうるさ型の大森に劣らず、若手ながらこだわりを持つ脚本家が六車だったからだ。
いつも大森組の資金集めに奔走するのは、五社和夫だ。大森組の準備作業であるオールスタッフは、大森監督の自宅で行われるのが通例だ。だが今回はその五社プロ一社の資金では賄いきれずに、製作委員会方式での製作だと言う。
さらには主たる資金提供者である帝都テレビからの横槍で、主演女優や、チーフ助監督の入れ替えを余儀なくされたのだ。脚本の六車は主演女優の入れ替えで、イメージが違うと言うことで急遽書き直しをすることになる。そんなこんなで波乱の幕開けとなった製作現場だが、事件はそれだけでは終わらなかった。
何と殺人事件まで発生する始末だ。

僕は読みながらはるか昔の、黒澤明監督による映画「影武者」(1980年東宝 仲代達矢他)の製作余話を思い出した。作中の大森監督の中にも一部分では黒澤監督のイメージも含まれているが、多分著者は名匠といわれる映画監督の何人かを統合した人物を作り上げたのではないかと思われる。
勿論直接このストーリーが映画「影武者」と似ているわけではない。次々と問題が発生する本編のストーリーが、当初、影武者の武田信玄役に勝新太郎氏で撮影が開始されたのだが、監督と勝氏の間でのいざこざが元で、勝氏の降板ということになり、仲代達矢氏へと主役交代になった経緯などを、思い出させたのだ。
映画ファンならずとも製作現場のリアルな描写は、胸躍る展開だろう。他の作品に比較して、ミステリー味はほんの少し薄い気もするが、終盤の感動のシーンが胸を打つ。

 

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1447.サイレント・ボーダー

2014年03月15日 | サスペンス
サイレント・ボーダー
読 了 日 2014/02/14
著  者 永瀬隼介
出 版 社 文藝春秋
形  態 単行本
ページ数 466
発 行 日 2000/03/20
I S B N 4-16-319070-8

 

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のブログのスタイル(上部のタイトル部分とか、右サイド―サイドバーと言うの―各部分のタイトルパネル、そして本文のブックデータの部分等々の全体を構成している形で、通常テンプレートと呼ぶ)は、長い年月をかけて統一した自分流にカスタマイズしてきた。プロバイダーの提供しているテンプレートの中には、そうしたカスタマイズできないものもあり、確かこのぷららのテンプレートの中にもカスタマイズ不可のものもあったと思う。
僕は、いろいろと先達たちの指導も受けたり、自分でもHTML、CSSなども学習して独自のスタイルで、見やすいブログを心がけてきた。というより今になって思えば、半分以上は自己満足に過ぎなかったのかもしれないが・・・・。
何年か前から、パソコン以外の携帯やスマホでネットのサイトを閲覧したり、そうした機器でSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス:インターネットを利用した各種サービス)を利用する人が増えてきた。現在は改善されたかどうか、少し前までは僕のように文章の中で文字の代わりにイラストや写真等の画像を多用する画面は、パソコンで見るのと違い、こちらがイメージした画面を見ることのできないこともあった。

 

の一番卑近な例が、文章の頭に適用しているドロップキャップだ。Wordなどの文章と同様の処理をしているのだが、サイトの画面ではその部分が画像となっているから、携帯などでは見えない現象が起きていた。
CSSで、first-letterを指定すればいいのだが、文字の装飾はサイズとカラー以外はできなくなり、続く文章の位置がベースラインになってしまうのだ。
そうした例を示すため記事のここと前の部分の一行目の文頭、さらに間の飾り罫にも画像ではなく、テキストデータを使用している。(下の本についての部分は、いつも通りの画像データだ)
多分僕の勉強不足で、解決方法はあるのだと思うが、もうしばらくは画像を使っていく他は無いから、携帯やスマホで見てもらうためには、ドロップキャップ処理を行わないようにしなくてはならないのか?
(どなたか処理方法がわかる方はご教示ください。)

前にも書いたが、いよいよこのブログサービスの廃止に関して、現実味を帯びてきた。と言うのも、ブログデータのエクスポートや、他のサイトへのインポートの方法が公開されたからだ。
Broach(このNTTぷららの提供しているブログサービスの名称)のブロガーたちの間で、廃止問題に関する不満や、移行のためのツールの公開が遅いといった意見が、掲示板に投稿されていたが、ツールの公開によりそれぞれ移行の準備と実行を開始するのだろう。
しかし、簡単に片付く問題ではなく、例えば今までのアカウント(ブログページのアドレス)の変更や、アクセスカウンターも継続させられるのかどうか?といったことも、ブロガーにとって大きな不安材料なのだ。

僕もできるだけ早く新しいサイトへ移行して、少ないながらも今まで閲覧していただいた読者の方々に、新しいアカウントへのアクセスをお願いする必要がある。面倒だという思いもあるが、ブログを継続させるためには、ほんの少しだけ努力が必要だ。

 

 

瀬隼介氏の名前と作品について知ったのは、実はこの本ではなく「刑事の骨」と言う作品を、最近何処かで紹介されていたのを見たからだ。ところが例によって図書館はどこも貸し出し中なので、処女作である本書を木更津市立図書館で借りてきた。「刑事の骨」はいずれまた、貸し出し中が無くなったら借りて読むことにしよう。
かなり前に何処かの文学賞の選考員が言っていたことだったか(と思っていたら僕の記憶違いで、これは2011年に惜しくも亡くなった土屋隆夫氏の言ったことだった)、「デビュー作(処女作)には、その作家の全てが込められている」ということで、初めて読む作家の作品は、できるだけデビュー作を読むようにしているが、そうは言ってもなかなか理屈どおりに行かず、ついつい最近作や話題作の方に目が行ってしまうのが僕の読書で、誰かさんの言い草ではないが、話題作を読むのは「今でしょ!」ということになってしまうのだ。

 

 

仙元麒一、41歳のフリーライターが本編の主人公だ。信太郎という一人息子がいたが、仕事にかまけて家庭を顧みない仙元に別れを告げ、教師をしている妻の令子が引き取った。強引な手法で取材をする仙元は、そこそこその手腕を編集者に買われていたが、人と折合わない性格は嫌われてもいた。
そんな彼の許に元妻の令子から連絡が入る。信太郎の家庭内暴力に怯えての電話だった。
折からの特集記事の取材を後輩に任せて、仙元は息子の信太郎を引き取り一緒に暮らすことにした。だが、一緒に暮らして心を打ち明けて話し合えば、解決するだろうという彼の思惑は大きく外れた。息子の言葉と狂ったような暴力は、仙元の想像をはるかに超えたものだった。思い余って彼はその道の専門家である黒田ちづるに相談するが・・・・・。

んな中、世間では少年による自警団・シティ・ガードが話題となっていた。三枝航をリーダーとする数人のグループによる夜の街のパトロールは、テレビでも取り上げられた。
一見「正義の味方」風な彼らの行動は、何が目的なのだろう。その三枝リーダーには、唯一無二の親友?とも言うべき中学時代からの友人がいた。友田勇志というその友達は、中学時代にいじめを繰り返すクラスメイトを誤って殺害していた。その家族への賠償のため彼は過酷な労働を強いられている。

様々な環境の中で、異なる生き様を見せる登場人物たちが、次第に交錯していく描写がスリリングに描かれるサスペンス作は、作者の思いの詰まった力作だ。

 

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1446.硝煙の向こう側に彼女

2014年03月12日 | 警察小説
硝煙の向こう側に彼女
読 了 日 2014/02/22
著  者 深見真
出 版 社 エンターブレイン
形  態 単行本
ページ数 301
発 行 日 2009/02/12
I S B N 978-4-7577-4677-0

 

上の著者名をクリックすると、著者のページへ移動します。

覚してもいるのだが、僕には変なところと言うか、無意識の内のこだわりのようなものがあって、あまり人が気にしないような本を読みたくなることがある。いや、人が気にするか、しないかは僕の良く知るところではないが、例えば図書館の蔵書を検索しても、見つからないなどといったとき、余計に読みたくなるのだ。
無いものねだりの一つかもしれない。
そう言えば、少し前に読んだ高林さわ氏の「バイリンガル」という作品も同様のことだったな。
何処かで目にしたこのタイトル「硝煙の向こう側に彼女」は、木更津市立図書館も、君津市にも袖ヶ浦市にも無く、僕は最近の新刊だろうとばかり思っていたから、そのうち図書館にも入るのだろう、とのんびり構えていた。
ところが日が経っても検索には一向引っかからないで、たまたまヤフオクで114円で出品されているのを見つけて、ゆうメールの送料を合わせても、404円だからと入札したら、運よく競争相手も無く落札できのだ。
しばらくぶりに買うことになった本は、5年も前に出た本とは思えないほどきれいで、出品者が大切に扱っていたことが判る。同時に馴染みの無い出版者名を見て、図書館に無かった理由の一つだろうと、変なところに納得。
それにしても5年も前の本がどうして最近何処かで紹介されていたのだろう?
もっともテレビの書評番組などでは、必ずしも最近の本だけ紹介されるわけではないから、コメンテーターの誰かが過去に読んだ面白い本ということで紹介したのを、僕が気になってメモしたのだろう。

 

 

僕がタイトルから想像したのは、女性警官の活躍を描いたアクションドラマといったところだ。近年はおとなしい男性に比べて、女性の台頭が目立つ社会の風潮だ。そうした社会情勢を写し取るような、男性顔負けの女性を主人公とした警察小説が、いくつも登場して映画やドラマとなって多くの観客、視聴者を獲得してきた。

本書は僕の期待したとおりの拳銃の射撃に精通した、女性警官・塚田志士子の活躍を描いた内容だった。警視庁対テロ捜査専従班に所属する塚田志士子警部は、東京工大の法学部を卒業、大学院で物理学を専攻した科学捜査のプロだが、銃器犯罪のプロでもあり、ついたあだ名は「鉄砲塚」。

僕はここまで書いてきて、最近はこうしたアクションを伴う内容の本が多くなったかな、といささか忸怩たる思いが湧いてきた。と言うのも僕がミステリーを好むようになったのは、フーダニット(Who Done It)、ハウダニット(How Done It)などの本格推理に面白さを感じたからで、これこそ探偵小説の真髄だと思ったからだ。
ところが近頃本格推理を読むことが少なくなって、どちらかと言えばハードボイルドや、警察小説が多いような気がして、否、気のせいではなく実際多くなっている。
別にいつも言っているように、この読書は純粋に娯楽のためなのだから、何を読んだっていいようなものだが、若い頃本格探偵小説の通を自認していたこともあって、自分に対してほんの少し恥ずかしいような気になったのだ。

 

 

道に逸れた。
本書では女性警部に対する軽視や軋轢などと言った描写は少なく、胸のすくような活躍場面もあって、カタルシスも味わえるのだが、事件は思わぬ方向へと進む。
彼女しか扱ってないはずの拳銃の弾丸が、殺人に使用された弾丸の線状痕と一致したのだ。
現場で捜査にあたっていた彼女に、何と殺人の容疑がかけられたのだ。誰が何のために仕掛けた罠か?
「銃と寝る女」と評される塚田志士子警部の窮地からの脱出と、彼女の忌まわしい過去が錯綜して、アクション場面が続く。

著者のページを作るため、ネットを検索したら著者は漫画原作者でもあり、そっちの方面やゲームなどの関連で多くの賞を受賞していることがわかった。本編のスピーディーでビジュアルなシーンがそこここに出てくる内容に、なるほどと思わせるものだと納得する。

 

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1445.読めない遺言書

2014年03月09日 | サスペンス
読めない遺言書
読 了 日 2014/02/21
著  者 深山亮
出 版 社 双葉社
形  態 単行本
ページ数 303
発 行 日 2012/05/20
I S B N 978-4-575-23772-6

 

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になるタイトルは、ただメモするだけでなくどこで誰が紹介していたのか、あるいはどこで目にしたのかも書いておけばここでの話題にもなるからいいのだが、つい忘れがちで読書ノートの後ろには、タイトルと著者名だけが列記されている。
そんなことでこのタイトルもどこで見たのか憶えていない。それでも確か2ヶ所くらいで見た憶えはあるから、たぶん面白いストーリーなのだろうと先入観が頭に植え付けられて、できるだけ早いうちに読みたいと思っていた。
木更津市立図書館で一度借りようと思ったら、貸し出し中だったことを前に書いたが、2月19日に行って棚にあったので、前回読んだ「傷だらけの果実」と一緒に借りてきた。
こんな風に読みたい本がスムーズに借りられると、もうそれだけで僕は幸せいっぱいと言う気になる。身近で小さな幸せを感じられるのは、うれしいことだ。反面、日に日に老いを感じることも少しずつ増えていくのは不幸なことか?

 

 

先日も同じようなことを書いたが、老いを感じることの一つに、車の運転がある。
最近は若い頃と違って、スピードを出したり、追越をかけたりということはなくなって、規則を遵守した安全運転をするようになった。一時停止は停止線の手前できちんと停止し、ウインカー(方向指示器)も法規どおり曲がる地点、あるいは車線変更の30m手前で出すようにしている。そういえば、このウインカーを直前まで出さないドライバーが最近多くなった。
中には曲がり始めてから出すのもいて、何のための方向指示か?と思ってしまうが、ドライバーにもいろいろ いるから、こちらで気をつけなければならない。だが、そうした走行中についてはいいのだが、問題は駐車なのだ。スーパーマーケットや、コンビニエンス・ストアの駐車場に止めたときに、自分ではまっすぐに入ったつもりが、降りてみるとわずかに傾いているのだ。左右のサイドミラーを確認しながらバックしたにもかかわらずだ。
だが、最近良く耳にするアクセルとブレーキを踏み間違えるという高齢者の事故は、僕には当てはまらない。AT車(オートマチック車)にしたときから僕は左足ブレーキにしたからだ。AT車特有の左足が遊ぶことをさけたためだ。
僕は特別運転技術に優れているとも思わないが、それほど下手だとも思わず、極々普通の腕前だと思ってきた。それがここに来て、少しずつではあるが老いが勘を鈍らせているという、そうした現実に向き合わされて、ショックを受けているところだ。
息子が入所している福祉施設の保護者で、今年81歳になる先輩から「身体の衰えから、運転免許証を返納した。」という話を聞いて、そんなに遠くない将来、僕も同じことになるのだという思いに、いささか寂しい思いが湧く。
しかし、マイカーを運転し始めてから50年近く、軽自動車3台を含め7台も乗り継いで、走った距離は優に50万kmを超す(サラリーマン現役の頃一時期、マイカーを営業に使用していたため)だろうから、自分で運転することにもうそれほど拘らなくてもいいのかもしれない。

 

 

ろ向きの話はさておいて、折角の幸せな気分を取り戻そう。
読み始めた本書の主人公は竹原俊和、中学校の教師だ。父・英治が亡くなった。一人暮らしのアパートで孤独死のまま放置された父の住んでいた部屋は、まだわずかにその臭いが残り、案内した大家はその後始末に大変だったことを愚痴る。 その父・英治は「おやど」という大衆食堂をやっていたのだが、口よりも手が早く気に入らない客に暴力を振るい逮捕されると言う武勇伝?もあり、その後俊和とは音信が途絶えていたのだ。そんな父のわずかな遺品を整理していると「遺言公正証書」とタイトルが書かれた封筒があった。
遺言の中身は、「全ての財産を知人・小井戸広美に贈る」とあり、立会いの証人2名の署名もあった。
「小井戸広美」って誰だ? 遺言書にあった住所を尋ねて、それらしき女性のあとをつける。
そんなスタートを幕開けに前半は竹原俊和が、次第にこの女性に引かれていく様子が描写される。二人の関係がいい雰囲気になって行く展開から、心地よさを感じ始めた頃事態は一転する。近年世間を騒がせた事件へと移り、それまでの伏線が妙な感覚でリアルに甦る。「アー、そういうことだったのか!」と。

この中でデートを重ねる俊和に向かって女が、言うセリフに僕ははるかな昔を思い起こす。サラリーマン現役の頃の話だ。僕も時々は女性に向かって軽口をたたくこともあって、用事を頼んだ女性に「○○さん、愛してるよ」なんて言うことも日常の中にあった。
大概は相手も笑って済ませる。まだ、セクシャルハラスメントなどといわれることもない時代だった。ところがある時、「△△さん、愛してるよ」と言ったら、「じゃ証拠を見せてよ」と言われて、僕は一瞬「エッ?」と驚く。
本書の中でも小井戸広美なる女性が俊和に向かってまったく同じセリフを吐くのだ。それが問題をややこしくする発端ともいえるのだ。当たり前のことだが、僕の場合は、その後の展開が小説とはまるで違うから、難しい問題は何も無かったのだが・・・・。

著者は司法書士の資格を持つと言うことで、この中にも竹原俊和の相談相手として司法書士が登場して、いいところを見せている。さて、問題はそう簡単ではなかった。

 

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1444.傷だらけの果実

2014年03月06日 | サスペンス
傷だらけの果実
読 了 日 2014/02/20
著  者 新堂冬樹
出 版 社 河出書房新社
形  態 単行本
ページ数 317
発 行 日 2012/09/30
I S B N 978-4-309-02131-7

 

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早、BSイレブンの看板番組となった(多分、僕の独りよがりではないと思う)「宮崎美子のすずらん本屋堂」には、毎回多彩な作家をゲストとして迎え、MCの宮崎美子氏(番組の中で彼女自身は店主と言う言い方をしている)と楽しいトークを繰り広げている。
僕はテレビ局の内情をよく知っているわけではないが、こうして番組が広く視聴者に膾炙されるには、番組プロデューサーの腕が物を言うのではないかと感じている。勿論番組の制作にはプロデューサーのみならず、大勢のスタッフが係っているだろう。各部署でそれぞれ自分の持ち場をこなすためには、やはりリーダーの番組に対するモチベーションや、制作プロセスの把握が成功への鍵を握ることになるのではないか。
僕はこの番組がどの程度の視聴率を上げているのか知らない。しかし、感覚として徐々に成果を上げているのではないか、という印象を持っており、一ファンとして密かな喜びを感じているところだ。

そして、先日放送100回を迎えて特集番組が組まれた。厳しい環境の中100回を迎えることができたことは、大変喜ばしいことで、一ファンとしても同慶のいたりだ。
特集番組は、各界から有名無名の人たちが、推薦する書籍合計100冊を紹介すると言う企画で、テレビタレントの石井正則氏をプレゼンターとして行われた。
だがまったく期待はずれに終わった。推薦人の推す数冊の中から1冊を解説すると言う形式だから、中にはまともにその1冊も話に出さないと言うこともあったりして、「100回を迎えての100冊を紹介」と言う主旨からも外れているし、フリップを持った人物を素通りするだけなんていう人は、何のために出たのか分からない。

 

 

思うに週ごとに新たな作家を迎えつつ、番組を構成することがやや困難になったか? このところ過去の総集編だとか今回の特集とかで、何かお茶を濁しているような感があるのは、僕の偏見だろうか? いや、僕の偏見であって欲しい。
看板番組の名をおろそかにするような企画はできるだけ避けて欲しいものだ。ファンとして一言苦情を呈したい。と言ってもたった一人の年寄りの繰言に耳を傾ける人もないか・・・・ネ。

本書も2年ほど前になるがこの番組に出演した、著者・新堂冬樹氏の作品だ。新堂氏と宮崎氏のトークに此の作品の面白さを感じて、木更津市の図書館で借りてきた。 そういうことで、時々僕は番組の中で紹介される本を、参考にしているので変なことで番組がなくならないことを願っているのだ。

 

 

て、本の話だ。僕はタイトルから想像していたストーリー展開と、大筋のところで合致していたので、その点は逆にちょっとがっかりしたが、最後の一捻りはさすがだ。ただ、テレビ番組の中では宮崎氏が「ノワールの旗手である著者が、新境地の作品・・・」とか言っていたが、僕はこれが初めての新堂氏の作品なので、他の作品との比較は出来ないが、何と言うか手馴れた感じのストーリー構成に思えた。
ひとかどの芸能プロデューサーにのし上がった黒瀬裕二が、プロダクション各社から、売り込みに訪れた女性タレントを前に、その昔大学生時代に一流のプロデューサーを目指して、同窓の女子大生を一流タレントに仕上げるべく奔走していた頃を回想する、というこの作品を読んで、僕は幾つかの映画を連想した。

その一つは日活映画「勝利者」だ。日本映画の新しいスター、石原裕次郎氏の映画だ、と言った方がいいだろう。1957年、昭和32年のこの映画が公開された頃まだ僕は高校3年生だった。中学生だった弟と一緒に、欠かさずに裕次郎映画を見たものだった。
なぜ本書を読んでこの映画を連想したのか、勿論ストーリーはまったく違う。多分僕の中ではこの映画を石原裕次郎氏の映画と捕らえてはいるが、ストーリーの主役は元ボクサーでクラブのマネージャー山城役を演じた三橋達也氏の方だと感じているからだろう。
それを本書の主人公、プロデューサーの黒瀬裕二と重ね合わせているのだ。

そしてもう一つは、1964年に公開されたアメリカのミュージカル映画「マイ・フェア・レディ」だ。黒瀬裕二にこの映画の中のヒギンズ教授を重ね合わせていたのだ。

僕の記憶のお粗末さは今までに何度もここで書いてきたが、それでも本を読んでかなり昔に見た映画のシーンを、一瞬にして思い起こすこともあるという記憶の不思議さに、驚いてもいる。
本書での黒瀬裕二の思いと、「勝利者」の山城マネージャーの味わった思いとは異なるが、「マイ・フェア・レディ」のレックス・ハリスン氏演ずるヒギンズ教授が試みるプロセスに、共通のものを感じるのだ。

まあ、読書も映画鑑賞もそこで感じるものは、それぞれ人によって違うだろうから、僕の感じた思いに違和感を感じる人がいるかもしれない。それでも僕は、そんなところにも読書の楽しみを見つける喜びを感じているのだ。

 

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1443.裁かれる判事

2014年03月03日 | リーガル
裁かれる判事
読 了 日 2014/02/19
著  者 小杉健治
出 版 社 集英社
形  態 文庫
ページ数 308
発 行 日 1992/10/25
I S B N 4-08-749860-3

 

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時の言い方なら、「ウッソー!」と思われるようなことが次々と起こるのが現実の世だから、ミステリーのストーリーを考える方も大変だろう。「事実は小説より奇なり」と昔から言われるように、あってはならないことも事実として起こる。 だから、めったなことでは驚かなくなっている筈なのだが、この作者のストーリーにはいつものことながら、驚かされる。まず、法曹の専門家でもない作者が、その世界の様々な事情に通じていることに驚くのだ。

しばらく初めての作家の作品が続いたので、手持ちの本の消化が鈍った。気になるタイトルの殆どが図書館にあることがわかり、まあ、考えれば当たり前のことなのだが、僕の気持ちの中には本は買って読むものだ、という固定概念が依然として強く残っているから、その当たり前のこともふと忘れがちになるのだ。
だから相変わらず寂しい懐も省みずに、またぞろ古書店を巡り歩くことにならないよう、自制しているのだが・・・。

 

 

買い集めた著者の作品(BOOKOFFなど古書店に顔を出す都度、著者の作品を探しては買っていたので、未読の作品が数冊たまった)の中から今回ピックアップした本書はタイトルが示すごとく、ある殺人事件の容疑者となった判事をめぐる物語である。
裁く側の裁判所判事が、殺人事件の容疑者となるというシチュエーションは、冒頭に記述したようなそれほど驚くべきことではないのかも知れない。なにしろ、政治家や警察関係者、あるいは教育者など、一般市民から見ればある種の権威を持った人たちの犯罪は、大なり小なり日常茶飯事のごとく、テレビや新聞種となっているからだ。

だが、ストーリーは無実の罪で起訴された判事の、疑いを持たれた判事自らの反省とともに、冤罪を完全に晴らすと言う執念とも言える言動が、このストーリーの一本の柱となっており、終盤のクライマックスはその謎が焦点となる。

 

 

葉地方検察庁松戸支部の判事・寺沢信秀は、同僚からも堅物と言う評価を得ている真面目一方の判事だった。
担当した暴力事件の被告・岩田栄治郎はかつて暴力団の構成員だった。金銭の貸し借りのトラブルで、経営している自分の店に呼び出した男に暴力を振るい、重傷を負わせたという罪状で起訴されていた。
前科もあることから今回の裁判では実刑の判決が見込まれていた。そんな状況の中、岩田の妻は寺沢を呼び出して、色仕掛けで岩田の釈放を頼み込むのだった。危うく誘惑に負けそうになるのをこらえたその夜、岩田の妻はホテルの一室で死体となって発見された。その上ホテルの入り口付近で岩田の妻と寺沢とのツーショットの写真が寺沢のもとに送られてきたのだ。
あまつさえ、岩田の妻と寺沢が連れ立って歩いていたと言う目撃者が現れるに及んで、寺沢は重要参考人として身柄を拘束される。

ストーリーはその後法曹界を目指し、司法試験に挑もうとする寺沢の義妹・杉原早紀子が、義兄の無実を信じ独自に調査をはじめるという展開になるのだが、物語の進展は一筋縄ではない。
状況証拠から容疑が固まったとして、逮捕された寺沢だったが、彼が過去に扱った事件の判決に不満を抱え、逆恨みを持った人物などが絡んで、複雑な様相を見せていくのだ。
僕はこうした著者の作品に共通する、過去の事件が人々の生活や環境を変化させて、事件を生み出すと言う図式が好きで、読みついで来た。
本書でもう14冊目となるが、まだ買い集めた蔵書が数冊あるから、また折を見て読み続けて行きたい。

 

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1442.女鑑識官

2014年03月02日 | 警察小説
女鑑識官
読 了 日 2014/02/18
著  者 草野唯雄
出 版 社 光文社
形  態 文庫
ページ数 304
発 行 日 1989/09/20
ISBN 4-334-71006-9

 

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日かこのところ老いを感じることが幾つか続いている。下の妹からのメールで急にいすみ市大原のお袋を訪ねることになって、25―26日と一晩泊まりで行ってきた。今年の6月で96歳となる彼女は、だいぶ不自由さを募らせながらも一人暮らしを止めようとはしない。
だから、妹たちが交代で手助けに行くのだが、どちらかが都合のつかないときに、僕が行くことになる。何年かそうしたことが続いている。和裁職人だった父とともに、長い間続けた座ったままでの仕事が、腰の曲がりを増徴させて、歩くのにも不自由さを抱えているから、今ではほとんど一日カウチテレビの状態だ。
おまけに記憶力の衰えは、メガネはずした場所を忘れることは茶飯事で、入れ歯まで何処かに置き忘れるという始末だ。
今回もそんなことで連絡を受けた僕は、朝7時前に家を出て車を走らせる。僕の場合は9時前に先方に着いて、朝食を食べさせようとするから、早く出るようにしているのだ。朝食はご飯に味噌汁とハムエッグといった簡単なものだが、一人でいるときは起きて直ぐに朝食は取らないか、カップ麺などのインスタント食品だから、僕が行ったときくらいは朝食には必ず米飯を食べさせるようにしている。
とまあ、それはそれでいいのだが、朝食の支度をして食べさせた後、ちょっと一休みと腰を下ろした途端、体中の筋肉が不協和音を発するような違和感を覚えた。

 

 

急にだるさ感じた上に全身筋肉痛といった鈍い痛みを感じる。ここ何年もひいたことがなかったが、僕は風邪の前触れとして手足の関節に痛みを感じることがあるので、風邪かと思い体温を測ると37.8度だ。確かに微熱はあるものの他にはこれと言って風邪の症状はない。
しかしこのだるさは?
若しかしたら寝不足か?
思い当たることがないわけでもない。
1―2日前に3日続けて真夜中1時ごろまで本を読んでいたことがあったのだ。僕の読書時間は気の散る昼間を避けて、おもに夕刻6時以降としているから、ストーリーが佳境に入る時刻が9時以降になり、その日のうちに読み終わりたいとなると、どうしても真夜中過ぎになってしまうのだ。
図書館で借りた本が面白くて、3冊を3日で読んでしまったことがあったから、今日はあまり無理はしないで早く寝るとしようと、8時過ぎには布団に入った。
翌朝は起床時刻を少し遅くして7時半頃まで寝た。起きると昨夜よりは少しはいいが、依然としてだるさは残っているようだ。午後3時過ぎに大原を出て、安全運転で5時前に木更津着、その夜も早めに就寝。

二晩早めに寝たのが良かったのか、翌朝はスッキリと直っていた。あれは何だったのだろう?
これが歳をとるということなのか?
もう、あまり無理は利かなくなっているのだろう。替えの効かない身体だから、少しいたわりながら使うことにしよう。

 

 

書記録を残そうなどと思ったのは、アメリカのベストセラー作家・パトリシア・コーンウェル女史の「検屍官」シリーズを読んだことがきっかけだった。これについてはここでも何度となく書いてきたことだ。
転職先の社内教育の一環として業務関連の書物を読み、読後レポートの提出が義務付けられていたこともあって、30歳代前半から好きだったミステリーも読むことがなくなって数十年が過ぎ去った。
そんなサラリーマン晩年のある時、何気なく手に取ったのが「検屍官」だった。いや「何気なく」という言い方は正確ではない。この「検屍官」が講談社文庫として発売された当時の、書店店頭にうずたかく積まれていた光景は、活字離れの状態にあった僕の目にも焼き付けられていたのだ。多分そのときにいつかは読んでみようという気持ちが心の底に生まれていたのだろう。
また、若い頃から僕は60歳を読書を本格的に再開する出発点と考えていた節があった。何にも煩わされることなく、思い切りミステリーを楽しめるのは、60歳以降ではないかと思っていたのだ。そんな60歳を直前に控えていた時期に出会った(読んだ)のが「検屍官」だったのだ。それまで刊行されていたシリーズ8作を一気に読み、僕はすっかりサスペンス・ストーリーに取り付かれてしまって、その余波とも言うべき勢いを駆って、1999年11月の60歳を機にミステリー読書を始めたのである。

 

 

そんなことから、最初の頃は似たようなジャンルの翻訳小説を探しては読んでいた。それに一層の拍車をかけたのが、アメリカのテレビドラマ「犯罪心理捜査官(Profiler)」だった。これについても何処かで書いたか。
年寄りは同じ話を何度もするというが、いよいよ僕もその仲間入りをしたようで、このブログでも繰り返しが多くなったか?

まあ、そんなこんなで僕はこういうタイトルに弱い。この本も1昨年(2012年)の12月に「殺人交響曲」を読んだ後、著者の作品をもっと読んでみたいと思い、Amazonで探してシリーズだと言う本書を買ってみた。27歳の女性鑑識官・志賀洋子を主人公とした連作短編集だ。
鑑識官である志賀洋子27歳が、彼女の鋭く冷静な観察眼は、誤った方向に向かう捜査に一石を投じて、思わぬ事件の真相を探り当て、解決に導くのだ。普通、鑑識係は捜査には口を出さないのだが、まして警察組織の中では通常捜査員以外の介入を阻むのだが、鑑識官の彼女は本職の鑑識としての立場からの見方も踏まえているから、捜査員たちも軽視はできない。
この連作短編集は、下表のように五つの事件が描かれるが、いくら優秀な鑑識官の彼女でも、わかっていながら十分な証拠を見つけられずに、みすみす加害者を取り逃がしてしまうと言う事件もあって、面白い。
科学的な目を持って解決すると言う、ヒット作ガリレオシリーズを思わせるようなエピソードもあり、軽い読み物として読めるが本格推理である。

 

 

末の中島河太郎氏の解説によれば、著者が探偵雑誌「宝石」(岩谷書店刊)に投稿して掲載されたのが昭和36年だと言う。その頃22歳だった僕がまだその「宝石」を定期購読していたかどうかは記憶から薄れている。しかし、その頃今ほどではないものの、簡単な読書記録と言うより、蔵書目録を兼ねたものをつけていたのだ。およそ1,500冊くらいのタイトルを謄写版で刷り上げてファイルしていた。
昭和40年代の初め頃までは確かに手元にあったのだが、いつの間にか散逸してしまったようで、今考えると惜しいことをした。
いわゆるガリ版刷りについては、一時期僕はアルバイトで町内会の回覧とか、会報などをガリを切っていたことがあって、いくらかの小遣い稼ぎをしていたことなど、今になって思い出した。話があっちこっちに飛んで、何を言ってるのかわからなくなった。。

このシリーズはもう1―2冊あるようなのでまた機会を見て探してみよう。

 

収録作(全て書き下ろし)
# タイトル
  プロローグ
第一の事件 返り血
第二の事件 謎のカマイタチ
第三の事件 超完全犯罪
第四の事件 バースデイの夜
第五の事件

 

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